第52話 ベアトリス

 ニポラテの森。


 鬱蒼と木々が茂る深い森だ。砕かれた月の光も地表には届かない。


 濃い闇の中、光が動いている。松明の炎だ。


 その炎に、俺の後に続いている三人の女の姿が浮かび上がっている。ミーラとミ、そしてポリメシアだ。


 意識を取り戻したポリメシアは一人で歩いていた。顔からは表情が抜け落ち、黙々と足を運んでいるのが不気味であった。松明の火はポリメシアがつけたのだ。


 先頭を俺の足取りに迷いはなかった。草に隠されてはいるが、一筋の道が続いているからだ。夜目のきく俺が見通すことは造作なかった。


「少し休もうか?」


 足をとめると、俺は振り返った。ミーラが荒い息をついている。


「わたしは大丈夫です」


「わたしも」


 ミカナがうなずいた。ポリメシアは黙したままうつむいている。


 声をかけようとして俺はやめた。かけられる声などなかったからだ。


 ポリメシアはバレートが好きだった。そのバレートが死んでしまったのだ。その気持ちは察するにあまりある。


 慰める言葉などなかった。今はそっとしておくしかない。


「じゃあ、いこうか」


 促すと、俺は歩き始めた。


 俺が足をとめたのは、それからしばらくしてからのことだ。眼前に黒い影が立ちはだかったのである。


「帰れ」


 影はくぐもった声で命じた。


 これが怪物か。


 俺は怪物を見つめた。確かに全身が毛で覆われている。顔は熊に似ていた。


 確かに怪物だ。が、同時に妙な違和感にも俺はとらえられていた。


 声のせいなのか。言葉の響きなのか。怪物は人間ぽいのである。


 話せばわかるのではないか。ふと、俺はそんな気がした。


「おい」


 俺は呼びかけてみた。


「話がある。聞いてくれ」


「俺にはない」


 怪物がこたえた。やはり意思の疎通ができるのだ。


「待ってくれ。俺たちはあんたと戦うつもりはないんだ。ただ森を抜けたいだけなんだ。ここを通してくれないか。あんたには迷惑をかけない」


「いやだ」


 怪物は首を左右にふった。


「ここは俺の森だ。通り抜けなんかさせない」

「そんなこといわないで、頼むよ。通り抜けるだけなんだ」


「簡単にいうな。おまえ、自分の家を他人が自由に通り抜けていったらいやだろう?」


「あ、ああ」


 俺はうなずかざるを得なかった。同時に驚きもしていた。


 意思の疎通ができるどころではない。怪物は人間に匹敵するほどの知恵を備えていた。


「確かにそうだ。俺があんたの立場なら嫌だよ。でも、今はそうはいっていられないんだ。命がかかってる。大切な人たちの命が。その命を守るためなんだ。通らせてもらうぞ」


「いうじゃないか。なら、通ってみろ!」


 叫ぶなり、怪物が躍りかかってきた。地を蹴り砕き、跳躍。


「は、速い!」


 愕然として、俺は跳び退った。外見から、怪物はのそりと動くと早合点していたのだ。迂闊だった。


 俺の顔面すれすれの空間を怪物の拳が疾りすぎた。かすめただけだ火ぶくれのできそうな一撃だ。


 ドコン、と地が揺れた。パンチの衝撃に地が陥没する。


 俺は顔色を変えた。とんでもない怪物の破壊力だ。


 致命的な破壊力を怪物は所持していた。まともに攻撃をあびたなら、フォシアに強化された肉体といえともただではすまないだろう。身体がミンチになる様を想像して、俺は背筋を凍らせた。


「へえ。ずいぶんすばしっこいな」


 笑みを含んだ感嘆の声を怪物はもらした。


 が、俺は声もなかった。怪物は恐るべき怪力の持ち主である。つかまってしまったら逃れることは不可能だろう。一撃をあびた場合は即死決定だ。


 俺が怪物より勝っているのは速さだけだ。一撃離脱しか闘いようはないだろう。


 俺は馳せた。一気に間合いをつめる。


 懐に飛び込む、その瞬間。俺は地を蹴った。わずか二歩で怪物の背後に回り込む。


「ええいっ!」


 渾身の力をこめて、俺は剣を怪物の背に叩きつけた。


「あっ!」


 愕然たる声をもらしたのは俺の方だった。身を翻らせつつ、怪物が身をのけぞらせたからだ。


 速い。さっきよりも!


 怪物の動きは俺のそれに匹敵した。これで俺の有利な点はなくなったわけだ。


「あっ!」


 ふたたび愕然とした声があがった。俺の口から。いや、怪物を除く全員の口から。


 熊に似た怪物の顔が後ろ向きにはねられた。俺が放った剣の一撃が巻き起こした剣風にあおられて。代わって現れたのは女の顔だった。


「ははあ。やられたな」


 女がにんがりと笑った。凝然と見つめる俺の口から我知らず声がもれた。


「毛皮……か?」


 俺は悟った。怪物の正体を。女が毛皮を身につけていたのだ。


「そうだ。ばれちまったんなら、もうこいつはいらねえな」


 女の足元にするすると毛皮が落ちた。


 現れたのは美麗な半裸の肉体である。すらりとした肢体は無駄な肉は削ぎ落とされ、女性特有の柔らかさよりも剛さのほうが印象強い。


 が、女性らしくないかといえば、違う。布に覆われた乳房は むっちりと豊かで、尻も大きく  丸みをおびている。グラマラスといっていい肉体だった。


 顔も美しい。野性味をおびた美麗なそれは女豹を思わせた。年齢は十八ほどか。


「人間……なのか?」


 俺はあえぐような声で訊いた。まさか人間の女性が毛皮をかぶって怪物を装っていたとは思わなかったのだ。


「ベアトリス。俺はベアトリスだ」


 女性──ベアトリスは名乗った。

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