第49話 さよなら、バレート
袋を開けると、俺はロープを結びんだ。騎士の姿のないことを確認してからするすると長くしたロープをおろす。
俺は合図に手を振った。闇のために常人には見えないだろう。
けれどフォシアは別だ。きつと気づいてくれる。
案の定、ミーラが物陰から走り出てきてきた。恐怖のためか覚束ない足取りで。街路を完全にわたりきるまで少しかかった。
城壁にたどり着いたミーラを俺は見下ろした。見上げてくるミーラの顔はやはり恐怖で強張っている。
予定通り、ミーラがロープを身体にくくりつけた。それから手を振った。くくり終えたという意味だろう。
俺はロープをひいた。少女とはいえ、人間一人の重さだ。以前の俺なら難渋していただろう。
が、今の俺は筋力がフォシアとのキスで強化されている。苦もなく俺はミーラを引き上げた。
「大丈夫? 怪我なんかしてない?」
俺は念のために確認した。
すると興奮に上気させた顔でミーラはうなずいた。冒険を終えた少年の目をしている。やはりミーラはお転婆のようだ。
「ハルト様」
ミーラはうっとりと目を潤ませていた。よく光る目で俺を見つめてくると、
「わたし、ハルト様と出会えてよかったです。もしハルト様と出会えていなかったらと思うと、怖くなってしまいます。こんな場合に不謹慎だとは思いますが、落ち着いたら、本当にわたしとの結婚を考えていただけませんか?」
震える声でミーラがいった。怯えと期待の入り混じった声音なのだが、無論、鈍感な俺にはわからない。
「えっ……あの……それはあとでまた」
しどろもどらになって、ようやく俺はそれだけの言葉を口から吐き出した。そらから照れ隠しに急いでロープをミーラからはずし、再び下におろした。
今度はミカナが駆けてきた。続いてポリメシアが。さらにはフォシアが城壁にたどり着いた。フォシアの場合、さして苦労をすることもなく俺は引き上げた。
「残るのはバレートだけね」
不安そうにポリメシアが物陰を見下ろした。
「ああ」
うなずき、俺はその時になって気づいた。バレートにどうやって合図を送るか考えていなかったのだ。もうあそこには夜目のきくフォシアはいない。
「任せて」
ポリメシアが呪文を唱えた。いつもと同じく少し時間はかかる。
やがてポリメシアの手の杖の先端に小さな灯が灯った。それをポリメシアはぐるぐると回した。
わずか数息の間の行為。が、バレートは気づいたようた。物陰から飛び出してきた。
「バレート。気をつけてくださいね」
祈るようにミカナがつぶやいた。ポリメシアも不安そうだ。仲間の中でバレートが一番おっちょこちょいであることを誰もが知っているからだ。
こんな場合にもかかわらず、俺は口辺に苦笑を刻んだ。本当に間抜けであるのが自分だと気づかずに。
バレートがロープを身体にくくりつけた。確認してから俺は引き上げた。
あと、もう少し。
全員の胸に不安より安堵の色が濃くなった瞬間、異変は起こった。ロープがぷつりと切れてしまったのである。
これは俺のしくじりだった。ミーラたちを引き上げる際、俺は城壁の角にロープを擦りつけていたのである。知らぬ間にロープは徐々に傷ついていたのだった。
あっと俺が思った時は遅かった。真っ逆様にバレートは落下したいったのだ。
反射的に俺は手をのばした。が、俺の指は届かない。絶望に見開かれたバレートの目が俺を見つめていた。
どさりと大きな落下音がした。あわてて俺たちは城壁の上で身を沈めた。
音に気づいのだろう。門をおさえていた騎士たちが駆け寄ってきた。いや、彼らのみならず巡回の騎士たちも異変を察知して殺到してきた。
そしてバレートは──。
身動き一つしない。気を失っているのかもしれなかった。
「……大丈夫だ」
自身に言い聞かせるよいに俺はつぶやいた。
「バレートはバンサーだ。モスナ公国の人間じゃない。だから命に危害が及ぶようなことはないはずだ」
その時だ。騎士たちがバレートを取り囲んだ。彼らの声が届いてくる。
「何だ、おまえは?」
「こんなところで何をしているんだ?」
騎士が叫んだ。叛乱の最中ということもあり、とてつもなく殺気立っている。
俺は嫌な予感に震えた。針でつついただけで破裂しそうな緊張が騎士たちを包んでいる。
「う、うう……」
バレートがうめいた。気がついたのだろう。が、まだ意識は朦朧としているようだ。
取り囲む殺気に反応したのかもしれない。バレートの手が腰の剣にのびた。
それは無意識的な行為だったろう。それがまずかった。
「こいつ、剣に手をのばしたぞ」
「逆らうつもりだ」
「王宮騎士が変装しているんじゃないのか」
バレートの行為が騎士たちの殺気の炎に油を注いだ。
瞬間、篝火の光がはねた。騎士たちが抜剣したのだのである。
「たて!」
騎士が命じた。が、バレートは立たない。立てない。
「こいつ……動けないのか?」
「もしかすると城壁をのぼって逃げようとしたのかもしれん」
騎士たちたちが城壁を見上げた。あわてて俺たちは顔を引っ込めた。
「なんのために?」
騎士が問うた。すると別の騎士がこたえた。
「グネヴァン帝国に助けを求めようとしたのかもしれん」
「それで城壁から落ちたのか。間抜けな話だ」
騎士たちたちがあざ笑った。
「ともかく訊問する必要がある。連れていけ」
騎士が命じた。すると別の騎士がバレートに手をかけた。引き起こそうとする。
が、バレートは起き上がれない。低くうめいたきりだ。
「ちっ」
面倒そうに騎士が舌打ちした。
「もういいだろ、こいつ。殺るぜ」
返事もまたず、騎士が剣を振り下ろした。真紅の血が飛び散るのが、城壁の上の俺からも見えた。
咄嗟に俺は身動きもならなかった。眼前の光景が何を意味しているのかわからない。
完全な思考停止に俺は陥っていた。恐怖と混乱に呪縛されてしまっている。
その呪縛が破られたのは、悲鳴が俺の鼓膜をうった時である。喉が張り裂けそうな悲鳴をポリメシアが発している。
突然、悲鳴がやんだ。くたりとポリメシアが身を折る。受け止めたのはフォシアだ。
フォシアが手刀をポリメシアにうち込んだのだった。気絶させるために。
が、遅かった。一斉に騎士たちが顔をあげている。気づかれたのだ。
この時に至っても、俺は茫然自失の状態だった。何も考えられないし、指一本動かすこともできない。
バレートは初めてできた仲間である。それが目の前で殺された。
それを俺はただ見ていることしかできなかった。ただ、見ていることしか……。
なんて俺は馬鹿で無力なんだろう。ただ底無しの絶望に俺はとらわれていた。
バシッと音がした。痛みを頬に覚え、俺ははっとして目を見開いた。
俺の頬を叩いた姿勢のまま、フォシアが俺を見つめている。怒っているような、泣き出しそうな顔つきで。
「……フォシア」
「しっかりして」
フォシアがいった。真剣な眼差しを俺にむけたまま。
「あなたは約束したんでしょう。ミーラを守るって。あなたがばんやりしていたら、誰がミーラを守るの? それにミカナやポリメシアも。ここにいる全員をあなたは殺したいの?」
痛烈なフォシアの叱咤。が、それが気死していた俺の精神を奮い立たせた。
そうなのだ。ぼんやりして自分を憐れんでいる暇は俺にはなかった。
仲間を、約束を守らなければならない。それが、今の俺にできる唯一のことだった。
「もう大丈夫のようね」
フォシアが微笑んだ。
「ああ。もう大丈夫だ。ミーラもミカナもポリメシアもフォシアも俺がまもる」
「そう。なら、ミーラたちは任せたわ」
フォシアがいった。
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