第37話 秘め事

 食事を終え、俺は部屋に戻った。


 今まではバレートと同室だったが、この夜は違う。礼金がたくさんあるので、一人一室になった。


 ドアがノックされたのは、そろそろ寝ようかと思った時である。


 ドアを開けるとフォシアが立っていた。少し様子がおかしい。


「どうしたんだ。入ったら?」


 俺が促すと、わずかに躊躇った後、フォシアは室内に足をふみいれた。


 そのフォシアの様子に、俺は嫌な予感を覚えた。フォシアが何かとんでもないことを言い出そうとしていると感じたからだ。


 食堂でのことが思い出された。もしかすると、フォシアは別れを言いだすつもりなのかもしれない。


 それは嫌だ。困る。フォシアの力がなければ、俺はバレートにすら劣るバンサーなのだから。


 もしフォシアが去るとしても、それまで時が欲しかった。もっと強くなるまでの時が。


 とはいえ、それは俺のわがままだった。一番尊重しなけらばならないのはフォシアの意志だ。だったら──。


「フォシア」


「ハルト」


 思いつめた二つの声が重なった。俺は慌てた。それはフォシアも同じであるようだ。


「ご、ごめん。フォシアから話して」


「い、いえ。ハルトから」


 フォシアがいった。強い口調で。


「あの……フォシアにもいろいろ都合があることはわかってるんだけれど」


 思い切って俺は話し始めた。


「俺たちから離れるのは、もう少し待ってもらえないかな?」


「えっ」


 フォシアが戸惑ったように瞠目した。


「ハルトから離れるって……なんのこと?」


「それは……ずっとつきあってもらってるから、そろそろフォシアも自分のことがしたいんじゃないかなと思って。その話じゃないの?」


「違うよ。わたし、ハルトと別れるつもりはないもの」


 当然であるかのようにフォシアがいった。


「そ、そう。だったら、フォシアの話って何?」


「それは……」


 フォシアが声をつまらせた。急にもじもじし始める。


「それは?」


「う、うん。あ、あの……あのことなんだけど」


「あのこと?」


 俺は訊いた。なんのことか、わからない。


「うん。だから、あのことだってば」


「だからって……ああ」


 俺は想到した。あのことだ。


「キ、キスのこと?」


「う、うん」


 恥ずかしそうにフォシアはこくりとうなずいた。


「わたし、その、思ったんだけれど、ハルトが危なくなった時にキスするのでいいのかなって」


「えっ?」


 俺は首を傾げた。


 どうしようもなくなった時にフォシアの力を借りる。そう二人で決めたはずだ。フォシアの話の内容が見えなかった。


「あのね」


 フォシアがキスの効果について説明を始めた。キスの効果は永続的ではなく、効果時間も決まっていないらしい。


「わたしが一緒にいない時もあるし、一緒にいたとしても、そんな余裕なんかない場合もあるでしょ。そんな時は困るんじゃないかなって」


「はあ。そうだね」


 俺はうなずいた。確かにそんな時もあるかもしれない。


 襲撃された時もそうだった。なんとか間に合ったものの、あの場合はミベニアがいたからだ。ミベニアがもしいなかったら、仲間がやられていたかもしれなかった。


「だ、だから」


 フォシアが目をあげた。熟れたトマトのように顔を真っ赤にして。


「だから?」


「だから……あの……定期的にした方がいいんじゃないかなって。その……効果が切れる前に」


 いうと、フォシアはたまらないといったふうに顔を伏せた。羞恥に肩を小さくふるわせている。


 愛おしくなって、俺はフォシアを思わず抱きしめようとした。けれど、あわててやめた。


「お、俺はそうしてくれたら助かるけど……あ、あの、フォシアはいいの?」


「わ、わたしはいいよ」


 目を伏せたままフォシアがこたえた。


「で、でもさ。そうなると定期的に俺たちはキスすることになるよ」


「そ、そうよね。定期的ってことは、定期的ってことだから」


「そうだよね。じゃあ……定期的ってことでいいのかな。でも、どれくらいの間隔がいいのかな? 一週間に一度とか?」


「それじゃあ効果はもたないと思う。もしもの場合をかんがえたのたら、その、一番いいのは」


 フォシアがごくりと唾を飲み込んだ。そして続けた。


「その……毎日するのが」


「毎日!?」


 俺は馬鹿みたいな声をはりあげた。それから、早口でまくしたてた。


「そ、それって、つまり俺たち毎日キスするってこと?」


「そ、そうだね。そういうことになるね」


「そうか……」


 ふう、と俺は息をもらした。少し会話しただけなのに、とんでもなく疲れている。


「で、さ」


 ちらりとフォシアが上目遣いに俺を見た。


「今夜の分、やっといた方がいいかなあって。どう?」


「こ、今夜の分?」


 今度は俺がごくりと唾を飲み込んだ。今夜だなんて、あまりに突然すぎる。でも……。


「そ、そうだね。も、もしもの時を考えたら、その、できる時にやっといた方が」


 俺は息をつめた。


 俺の返事を皆まで聞かず、フォシアが顔を仰向かせ、目を閉じたからた。緊張にフォシアが顔をこわばらせているのがわかる。


 それは俺も同じだった。


 以前キスした時は切羽詰まっており、余裕なんかなかった。わけがわからなかったというのが正解だ。


 けれど、今は違った。ゆったりとした時に俺たちは包まれていた。


 息をするのも忘れて俺はフォシアを見下ろした。羞恥に震えるその顔は幻想的といっていいほど美しい。


 俺はフォシアに顔を近づけた。蕾のようなフォシアの唇が近くなる。薄く開いた唇の間から真っ白な歯が覗いて見えた。


 俺は思い切ってフォシアの唇に俺のそれを押しつけた。びくりとフォシアが一瞬身をこわばらせる。


 俺の唇が感じていた。フォシアの柔らかなそれの感触を。


 おずおずとフォシアが応じた。唇を開き、舌を俺の口腔内に滑り込ませる。


 俺とフォシアの舌がからみあった。ぬるぬるが気持ちよく、どきどきする。花のような甘い香りが鼻孔をくすぐった。


 ややあってフォシアが俺の口の中に唾液を送り込んできた。


 キスは檸檬の味。そんなフレーズを聞いたことがある。


 嘘だと思っていた。が、本当だ。少なくともフォシアのキスは。


 柑橘系の味のする唾液をごくりと俺は飲み干した。


 瞬間、血が奔騰した。高出力のエンジンがかかった感覚だ。細胞そのものが高いエネルギーをはらんだような気がする。


 同時に欲望が膨れ上がった。下半身がうずく。


 あわてて俺は肉体の反応を抑え込んだ。欲望を抱いたことをフォシアに知られたくないからだ。


 ややあってフォシアが唇をはなした。蕩けたようにとろんとした目をしているように見えるのは気のせいだろう。


「……どう?」


 おずおずとした様子でフォシアが訊いてきた。俺はこくりとうなずく。


「うん。力がみなぎってきた」


「よかった」


 微笑むと、フォシアが俺からはなれた。くるりと背を返す。


「それじゃいくね。また……明日の夜、ね」


 逃げるようにフォシアが部屋から出ていった。


 後には呆けた俺が取り残されていた。身体が火照って仕方ない。


 俺はベッドに寝ころんだ。が、寝つけそうななかった。


 しばらく身を横たえていたが、頭は冴えたままだ。睡魔が訪れてくれることはなさそうだった。


「少し頭を冷やしたほうが良さそうだな」


 つぶやくと、俺は部屋を出た。一階からは賑わいが届いてくる。酒場としての本番はこれからのようだった。

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