アジサイ

桜木くるま

アジサイ

「このアジサイ、白いのね。こっちがあなたので、こっちのが私のね」

 妻の加代子が嬉しそうに白いアジサイを二房、陶器の花瓶にさした。

 加代子が久々に笑い、私は少し安堵した。三度目の不妊治療が失敗し、加代子はずっとふさぎ込んでいたのだ。

 アジサイは誕生日プレゼントにと同じ大学に努めている農学部の遺伝学研究室准教授、北村隆司に半ば強引に押し付けられた。彼は整った顔立ちをしており、実年齢はもうすぐ五十歳であるに関わらず、若々しく溌剌とした顔は三十代半ばでも通用する。しかし、嫁とうまくいっていないらしく、家に居づらいといって、月に二、三度我が家に押しかけて、夕飯を食べていく。同じ職場で歳が上ということで甘んじて許しているが私はこの男がいけ好かなかった。本音を言えば、このアジサイを受け取った時も気が重かった。しかし、事務職員という立場ではむげに断ることもできなかった。

 その時、スマートフォンが震えた。

「あら、どうしたの?」

「いや、なんでも」

 私は加代子に見られないよう細心の注意を払い、メッセージアプリを開いた。

≪若槻さん、明日食事でもどうですか?≫

 文学部三回生の真由美からだった。いつも笑顔が眩しく、切り揃えた前髪とポニーテールが印象的な彼女はことあるごとに私に声をかけ、食事に誘ってきた。これまでは結婚しており、しかも妻以外に交際経験のない私はどうしたらいいのかわからず苦しい言い訳をして誘いを断ってきた。もちろん、若い魅力的な女性からの誘いは嬉しい。しかし、妻以外の女性と二人で食事に行くことを私は罪深いものに思われたからだ。

 ところが、先日、とうとう食事に行ってしまった。パスタを一緒に食べただけで特にやましいことはしていないが、それでも二人の距離感はだいぶ縮んだように思えるし、次の誘いを断りづらくなってしまった。そして、私の中にイケない期待が生まれてきてしまった。

「後輩が仕事についてちょっと聞きたいことがあるだけみたいだ」

 私は嘘を吐いた。そして、返信した。

≪はい、行きましょう≫

「あら?」

 妻が首を傾げた。

「今、あなたのアジサイが少し灰色になった気がするわ」

 そんなわけがないと思い見ると、たしかに私のアジサイだけが雨雲の色になっていた。私は何となく後ろめたい気持ちになり、加代子を後ろからそっと抱きしめた。

「大丈夫」

「いきなり何よ、くすぐったいわ」

 加代子は体をよじらせてクスクスと笑った。


 カフェに入ると真由美が小さく手を挙げて合図をしてきた。珍しく髪を下ろしていて、エレガントな白いネットのカーディガンを羽織った彼女の姿に私は見惚れてしまった。

「仕事が長引いてしまった。遅れて申し訳ない」

「ううん、私も今来たところだから」

 真由美の声は少しかすれていた。

 私は席に着くと、二人分のオムライスとコーヒーを注文した。正直なところ、緊張していたが、それを隠すためにいつもよりはきはきと発音した。一緒にご飯を食べるくらい、どうってことないはずなのだ。そう自分に言い聞かせる。

「今日は来てくれてありがとう。雨でぬれなかった?」

「大丈夫」

 無難な話をしているうちに料理が運ばれてきた。卵がトロトロのオムライスは美味しいはずだが、どうもうまく味を感じられない。

 真由美はしばらくうつむきながらオムライスを口にしていたが、息を大きく吐いた。

「芦田さん、もしよければ私とお付き合いをしてもらえませんか?」

 彼女は真剣だった。頬が薄ピンクに染まり、目は潤んでいる。声もいつもよりも弱弱しく汐らしい。

「そういってもらえるのは嬉しいけれど、結婚してるからなぁ」

「知っています! でも、芦田さんが好きで好きでたまらないんです。いけないことだってわかっているけれど……」

 まっすぐに思いを伝えてくれる真由美に私の心は揺らいだ。彼女がたまらなく愛おしくなってくる。

 しかし、理性がどうにか私を思いとどまらせた。

「ごめん」

 子供ができなくて傷ついている妻をこれ以上悲しませるわけにはいかない。好意を断るのがどんなに心苦しくても、これが正しい。

 真由美は涙を流しながら、席を立った。

「もしも……もしも、やっぱり付き合ってもいいって思ったら、連絡をください」

 速足で去っていく彼女に私は声をかけられなかった。その背中は震えていた。

 何とも言えない虚しさと罪悪感が私の胸に残った。


 家に帰ると北村隆司が加代子と談笑しながらビールを呑んでいた。私はその様子を見て、得体のしれない違和感と胸騒ぎに襲われた。何かがおかしい。

「きていたんですか?」

「あぁ、おつかれ。夕飯、先に食べてしまったよ」

 私の問いに答えた北村はどことなくいつにもまして自身に満ち溢れた雰囲気を帯びていた。他人の家に上がり込み、飯や酒をたかっておいて、よくもまぁ、堂々としていられるものだ。他人に遠慮するということをいい歳して知らないのだろうか。

「加代子、君一人の時にこの男を家にあげるなよ」

 わざと本人に聞こえるようなこえで私は加代子に説教をした。すると加代子は生返事をして、台所へ消えていった。

 やはり、何かがおかしい。

 ――もしかすると、私が今日、真由美と会っているのを加代子は知っていたのか?

 私は焦った。私の気持ちが浮ついてしまったことを加代子に気が付かれているかもしれない。告白こそ断ったが、加代子が傷ついているにもかかわらず、他の女性と食事に行くことは不貞ととらえられても仕方がないかもしれない。それで加代子が怒っている可能性は十分にあるといえるのではないか。

 私は罪悪感に心を支配された。そして、気が落ち着かず、意味もなく部屋を見渡した。

 すると異変に気が付いた。

「アジサイの色が……」

 私のアジサイが白くなり、逆に加代子のアジサイが真っ黒になっていた。普通であれば、こんなことはありえないはずだ。私は植物について詳しいわけではないけれど、これが普通ではないことだとはわかる。気味が悪い。

「このアジサイ、おかしくないですか?」

 私が問うと北村はアジサイをちらりと一瞥し、うまそうにビールを呑みほした。

「加代子さんの花、黒くしちまったんだなぁ」

「どういうことですか」

「さぁ、そろそろ俺は失礼するかな」

 北村は私をまるでコバエのようにあしらうと荷物をまとめ、帰ってしまった。研究者というものは奇人変人が多いと聞くが、せめて、最低限のマナーは身に着けてもらいたいものだ。

 ――それにしても。

 それにしても私はこのアジサイのことが妙に気になり始めた。罪悪感から気をそらしたいだけかもしれない。しかし、それだけではないような気がする。アジサイが持つ秘密を私は調べねばなるまい。放置すれば家庭の崩壊につながる。それは虫の知らせというものだった。

 私は額から流れた冷や汗を木綿のハンカチーフで拭いた。そして、スーツを脱ぎ、部屋着に着替えると食卓に着いた。私はこれでも加代子を愛しているのだ。最悪の事態は避けなくてはなるまい。身の潔白を証明する必要がある。

「ありがとう」

 料理を運んできてくれた加代子に私は礼を言った。

 加代子は驚いた顔を見せた後、下手な作り笑いを浮かべて、「どういたしまして」と言い、早々に風呂へと姿を消した。


 あの夜から私の頭の中には二輪のアジサイで四六時中いっぱいになった。食事中や風呂に入っている時はもちろん、仕事中もアジサイの秘密について考え、ミスを犯してしまった。上司に叱られている時にさえ、アジサイのことが気になって仕方なかった。

 私は北村が講義で教鞭をとっている時間を見計らい、何度も遺伝学研究室に足を運んだがなかなか有益な情報を得られなかった。

 しかし、加代子のアジサイが黒くなってから一週間がたったある日、私はようやく遺伝学研究室の学生に協力してもらい、北山が書いた非公式の論文手に入れることに成功した。学生には食堂のカツ丼をおごる羽目になったが、それは必要経費だろう。

 家に帰ると加代子は出かけているようだった。十九時を回っている。この時間に帰って加代子が家にいないのは珍しいことだった。

 私はスマートフォンをひらいた。すると加代子からメッセージがきていた。

≪体調がすぐれないので病院に行ってきます≫

≪大丈夫か?≫

 私はスマートフォンを鞄から取り出すと加代子にメッセージを送った。しかし、なかなか返事は来ない。心配でたまらないが、どの病院に行ったのかがわからなければ私にはどうすることもできない。

 私は自室に入り、早速論文に目を通した。そして唖然とした。そこには驚愕の事実が書かれていた。


=====================================================


 花には花言葉がある。しかし、それはこれまで迷信に過ぎなかった。そこで私は遺伝子操作によりその実現ができるのではないかと試みた。


~中略~


 アジサイの花言葉は多数あるが、その中に『移り気』・『浮気』というものがある。不貞は社会的に許されざる行為とされている。アジサイの花の色でパートナーの移り気を知ることができれば、未然に不貞を防ぐことが可能になる。


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 どうやら、論文によると、不貞を働いた者のアジサイの花弁は黒色に近づくらしい。確かに私が真由美の食事の誘いに乗ったあの日、アジサイは灰色になった。そして、告白を断ると白色に戻っていた。

 私は息苦しさを感じ始めた。

 ということはなぜ加代子のアジサイは黒くなっている?

 私が真由美と食事に行ったあの日、北村が我が家に来ていた。そして二人きりでいた。あの違和感は私が食事に行ったことがバレていたからではないのではないか。二人の関係が変わったからではないか。

 つまり、二人は――。

 その時、玄関の飛田が開く音がして、加代子が帰ってきた。具合が悪いはずにもかかわらず、その顔は嬉々としている。

「おい加代子、話がある」

 私は自分でも驚くほど低い声で加代子を呼び寄せた。

「最近、様子がおかしいが……」

「そんなことより!」

 加代子は私の話を遮り、満面の笑みを見せた。その笑顔を見て、私は今、一番聞きたくない報告をされることを悟った。

 やめろ、やめてくれ!

 私は心の中で懇願したが、何の意味もなさなかった。

「私、妊娠したわ!」

 私はその場で吐いた。

 人の浮気心で色の変わる花なんてあるわけがない。そんなもの、遺伝子組み換え技術を用いても作れるはずがないのだ。きっと、あの論文は北村が書いた悪い冗談だ。

 そう自分に言い聞かせてもどうしても考えずにはいられなかった。

 ――加代子のお腹の子は本当に私の子か?

 このままでは私は生涯、子供の顔を見るのが苦痛になるに違いない。それではあまりにも辛すぎるではないか。

 私は黒くなった加代子のアジサイを睨みつけた。すると、ふと思い出した。

 ――アジサイの葉には毒がある。

遺伝子組み換えされたこのアジサイであればもしかすると通常のものより強力になっているかもしれない。

 私は心配そうにしている加代子を安心させた。

「それじゃあ、君は安静にしないと。家事の負担を減らそう」

 私の提案を加代子は嬉しそうに受け入れた。幸せそのものの顔だ。できれば、私も素直に喜びたかった。しかし、それはできない。

 私は顔に仮面の笑顔を張り付けた。

 そして、精一杯の優しい声で言った。

「それじゃあ、料理は任せてくれ」

 


 

 

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アジサイ 桜木くるま @honpando257

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