8 陸から海に

「すっかり長居しちゃってすみません。改めて、この子を預かってくれてありがとうございました」


 そう言って管理人さんが帰り支度を始めたのは、午前11時ちょい過ぎ。


 ようやくペペロンチーノが俺の上を退いたので、その隙に連れて帰ることにしたのだ。


「とんでもないです。俺のほうこそ、ありがとうございました。楽しかったです」


「……私も。ありがとう」


 管理人さんは笑顔でもう一度お礼を言ってくれて、それからペペロンチーノを抱き上げようとした。


 しかしペペロンチーノは迷惑そうな顔をして、彼女の手から逃げる。ようやく捕まえたと思ったら、するりと抜け出し、俺のほうにトコトコ寄ってくる。


「ちょっと。もう……」


「はは。人生初のモテ期かもな」


 うっかり軽口を叩いてから、まずい、と思う。


 管理人さんとの距離が縮まったような気がして、つい友達みたいなノリになってしまった。


 なんか今日は話しやすいし、冗談とかも言うし、笑うし。俺もちょっとくらい砕けていいのかなって思ったりしちゃったんだよ……ゴメンナサイ。


 管理人さんの顔をうかがう。

 怒ってない、よな……?


「ペペ」


 愛猫を呼ぶ彼女の声は優しい。

 セーフか……?


「本当に好きね? 陸田さんのこと」


 管理人さんの白い手が、俺の脚に絡む長い胴体を捕らえた。


 彼女に返事をするように、白い腕の中でペペロンチーノがひと鳴きする。


「そんなに彼がいいなら、引っ越してもらいましょうか?」


「えっ……?」


 やっぱり追い出されるのか?


 二日酔いで今ひとつ回らない頭で焦る俺の目下で、ペペロンチーノを抱えた管理人さんがゆっくりと立ち上がった。


 綺麗に巻かれて、でもちょっと毛先の乱れた髪が、ふわりと香る。


 そんな距離で。


「陸から海に」


 笑いを含んだ声が、意味深に囁く。


 やや吊り気味の大きな目と視線がぶつかって、彼女の薔薇色の唇が妖艶に弧を描いた。


「ねえ陸田さん。管理人棟は静かでいいですよ?」


~fin~

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