妖狐と俺の冴えない日常

koharu tea

第1話

「じゃ、お先失礼しまーす」


「お疲れ様です」


 午前六時過ぎ。深夜のコンビニバイトを終え、俺はいつものように自宅までの道を歩いていた。

 佐倉航さくらわたる、絶賛フリーター街道まっしぐらの二十五歳だ。

 一年程前まではプロの漫画家デビューを目指し、日々コンビニバイトをしながら夢に向かって邁進していたが、結局思うような結果は得られず気力だけが失われ、今では夢を追うフリーターからただのフリーターへと転落してしまった。初めて作品を送った新人賞でうっかり入選したのが運の尽き。すっかり才能があると勘違いしたあの頃の自分を呪ってやりたいとすら思う。


 ——もう春か。

 川沿いの桜の木は気づかぬうちに沢山の蕾をつけている。大学の頃は花見だなんだと騒いでいたが、卒業してからは花見はおろか季節の移り変わりにも無頓着になったように思う。コンビニバイトという職業上、唯一クリスマスだけは意識していたが、それも季節感を味わうというものとは程遠いものだった。

 日本という四季が美しい国で生活をしながら、それを堪能しようとする気すら起こらないのは現代社会の闇だろうか、などとどうでも良いことを考えているとあっという間に自宅のアパートが見えてきた。それまで疲労は感じつつも頭はしっかりと回っていたというのに、いざこのオンボロアパートが目に入った瞬間、急に眠気が襲ってくる。これもいつものお決まりパターンだ。

 先週から連勤が続いていたため、今日と明日は久しぶりの連休となっている。ひとまず今日は一日中だらけよう、そう心に決め俺はジーンズのポケットから鍵を取り出しドアを開けた。


「おや、初めまして」


 想像以上に連勤が堪えているのだろうか。俺は目の前の異常な光景をぼーっと眺めながら自らの体を心配する。

 俺の視線の先には綺麗な白髪の和装の男が部屋の真ん中にある小さな机の上に腰掛けていた。

 幻覚でも見ているのだろうか。

 しかしいくら意識して瞬きをしてみても、目の前に広がる光景に変化はない。そう、これは現実なのだ。それを認識した瞬間、ありとあらゆる疑問が頭の中を埋め尽くす。何処から侵入したんだ、そもそもこいつは何者なんだ、何が目的でここにいるんだ、そんな疑問が次から次へと湧いてくる。

 しかし唯一この疑問だらけの状況で直感的に理解していることがあった。それは目の前にいる男がただの人間ではないということ。奇妙なことに男の腰の後ろには本来人間にはあるはずのない、ふんわりとした尻尾のようなものが見え隠れしていた。


「まあ理解が追いつかないのも無理はない。突然お邪魔して悪かったね」


 男はゆっくりとした動作で机から立ち上がると、玄関で立ち尽くす俺の方へと歩いてくる。


「私の名はつくも。妖狐、いわゆるあやかしだ」


「妖狐……」

 

 目の前の男の正体が妖狐であると分かったところで、異常な事態であることに変わりはない。それどころか妖狐と言えば人に悪事を働くイメージが強く、この男の正体が分かったことでより一層状況が悪化したかのように思える。

 未だ情報の処理が追いついてはいないが、本能的に己の身に危機が迫っていることは理解しており、俺は無意識に後ずさりをする。

 そんな姿を見て俺の心情を察したのか、白は切れ長の目を細めニコリと笑った。


「何も君を騙したり、取って食おうなんて思ってはいないさ。そういうことは私よりもずっと下の者たちがすることだからね。さて君の名前は?」


 残念ながらその言葉を素直に信じられるほどの純粋さは持ち合わせてはいない。しかし、仮に今この場から逃げたとしても相手は妖怪。それで事態が解決するとは思えない。そうであればひとまず穏便に会話を進めるのが最善策だろう。俺は小さく息を吸うと、恐る恐る白の問いかけに応じた。


「佐倉航です……」


 口から出た声色は自分の想像以上にか細い。自分の名を名乗るだけでこんなに緊張したことが今まであっただろうか。


「うんうん。そうだよね。当然それは知っていたんだけれど」


 そう言うと白は愉快そうに笑った。機嫌が良いのか体の後ろで見え隠れしていた尻尾もゆらゆらと揺れている。

 騙すことも取って食うつもりもないと言ってはいたが、どうやら性格についてはイメージと変わらないらしい。


「それで、あなたはどうしてここに?」


「特に理由なんてないさ。たまには人の世に関わりを持ってみるのも良いかと思ってね。それでなんとなくフラフラしていたら、なかなか趣のある建物が目に入ったもんだからここに居着いてみようとそう思っただけだよ」


 微かに自宅を馬鹿にされた気はしたものの、予想を遥かに下回るゆるりとした説明に俺はフッと体から力が抜けるのを感じた。この説明を信じるのであればひとまず生命の危機は去ったと言えるが、それにしても妖狐とはそんな気まぐれな理由で人と関わりを持つものなのだろうか。


「まあなんていうか、害を及ぼさないなら居てもらっても良いんですけど、もてなしたりとかは出来ないですよ。見ての通りこんな生活ですし」


 必要最低限、風呂とトイレとキッチンがあれば問題ないだろうと考えて契約したこの部屋は当然のことながらワンルームなため、お世辞にも広いとは言えない。部屋には机とベッドしか置いておらず、まさに殺風景という言葉がぴったりの空間だ。

 妖怪であればもっと良い場所に居着くことが出来るだろうに、自分で言うのも悲しいが一体どういう感性でここを選んだのだろうか。


「そう気を遣わないでくれ。そもそもこの家の主人は君じゃないか。人の家に居着く以上、何かを差し出す必要があるのならば、それはどちらかと言えば私の方だろう」


 勝手に人の家に侵入してきた割に、その辺りの常識は持ち合わせているらしい。図々しいんだか謙虚なんだか。どうも相手のペースに乗せられている感は拭えないが、この退屈な日常に妖狐が紛れ込むというのも悪くはない。


 こうして俺と白の奇妙な生活がスタートしたのだった。








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