獣タチハ夜ニ歌ウ

胡椒野 月

第0章 獣たちの序曲

第0話 夕暮れにはじまる


 こんなもので、いったい何をしようとしているのだろう。


 深紅シンクは手の中のナイフを見下ろしながら、そう考えていた。


 小ぶりな見た目以上に重みのある金属の塊。包丁やカッターとは一線を画した、攻撃に特化した刃が夕映えに鈍く光る。革の手袋越しでも、鋼に帯びている熱がじんわりと伝わってくる。


 体育がいちばんの苦手科目である自分に、こんなものを持たせてどうしろというのか。ただでさえ病み上がりで、体力にも運動神経にも不安要素しか無いのに。


『どうしたの、怖くなっちゃった?』

 背後から声がした。


 振り向けば、視界一面になみなみと満たされた夕暮れのオレンジ。

 頭上に轟々と響いているのは、高速道路を行き交う車両の音。

 街外れの高架下。立ち並ぶコンクリート柱の間に、黒々と長い影を引き摺って……赤と青、左右色違いの瞳を光らせながら、ちっぽけな黒猫がそう言っていた。


 不満げに深紅は言い返す。


「別に。でもどうせ、リンの期待通りになんて上手くできないもの。どうなっても知らないから」

 意味は無いとわかりつつ、ささやかな反論を試みる。


『大丈夫よ、今の深紅なら。あんなにたっぷり注いであげたんだもの』


 喉奥でくくっと、黒猫リンは笑う。


 そっとお腹のあたりに手を当てて深紅は確認する。体の中心から全身の隅々へぴりぴりとした痺れを伴いながら、じんわり熱い何かが、波紋を描いて広がっていくのが感じられた。それに呼応して、深紅の肌も仄かに碧い蛍光を帯びている。とりわけ顔を包んで流れ落ちる髪にその影響は顕著で、強い西日を跳ね返すように輝きながら揺らいでみせる。

 黒猫に与えられた妙なエネルギーが、深紅の体に変化を引き起こしていた。さっき、そこのコンクリート柱の陰で強引に口の中へと流し込まれ、呑み込まされたものだ。


「でも、こんな薄ぼんやりと光るだけなんて……どうせなら、超強力パワーが使えたりとか、すごく身軽になって空が飛べたりとかすれば良いのに」


『アニメの見過ぎ。わかってないなあ。そんな一見派手なだけの能力なんて、実はつまらないものよ。どんな力でも、それを使いこなせる技量が無かったら役に立たないでしょう。それとも深紅さん、実はすごい武術の心得があったりするの?』


「あるわけないよ。普通の女子高生だよ。むしろ運動神経は平均値以下だし、何ヶ月も入院していた後だし、なのにこんな刃物を持って戦えだなんて。しかもこんなちっちゃなナイフ一本だけで」


 不満げな深紅を見て、黒猫は目を細める。


『ふふっ。まだ理解できていないのね。さっき深紅に呑ませたモノが、どんな意味を持っているのか。嫌がる振りはしてたけど、結構美味しかったでしょ?あたしの血と肉。そろそろ病みつきになってきたんじゃない』


「そんなこと、」


 掬い上げるような黒猫の視線から目を逸らし、返事に詰まる。認められないけど、否定も出来ない。反応を見透かされていると知って、頬が熱を帯びる。


『いいの。今の深紅がどれほどこの世界の理から外れてしまっているのか、理解してないのね。でも、嫌でもすぐにわかるわ……ほら、来たみたい』


 シュルルルル……。空気が細く漏れ出すような音。少し離れた柱の陰から、のっそりと大きな影が這い出してきた。


 低く地面に伏せた頭と胴体を四肢がするする運び、長い尻尾がくねりながらそれに続く。全身を覆う鱗が夕陽にテラテラとぬめって見えた。


「うわ、これがケモノ……人に化けて、人を喰う怪物なの。うう、よりによってトカゲの姿だったなんて……苦手なのに」


 鳥肌を自覚しながら、深紅は顔を顰めて目を瞑る。


「やっト見つケた。こんナトころニいたンダ。もう逃ガサないヨ」


 扁平な頭を回らせ、瞼の無い目が深紅を見つめる。人間サイズの大トカゲが歪に割れた声で喋っていた。その姿もどこかアンバランスに崩れていて、中途半端に後足が長くて腰の位置が高い。人が無理矢理トカゲの仮装をしている様でもあり、トカゲがどうにか人の真似事をしているようにも見える。


 目を閉じたまま顔を背けている深紅を、黒猫が窘める。


『目を逸らしてる場合じゃ無いでしょ。あのストーカー男の正体を暴いて、元のケモノに戻してやったのはあなたじゃない』


「そうだけど、トカゲだっただなんて聞いてないよう。どうせならもっと可愛い動物になれば良いのに。猫とかさ」


『カワイイ猫ならもうここにいるでしょ。文句言わないの』


「自分で言うかな……」


『だって本当のことだもん。ほら、来るわよ』


 するりと大トカゲが距離を詰めてくる。


「さア、僕ト帰ろウヨ」


「うわあ、やだ。嫌です」


 やせっぽちな少女は、えい、えい、とナイフを振り下ろす。しかしどちらかと言えばナイフに振り回されているような状況だ。


 トカゲは首を振って軽々とナイフを避ける。


「どウシタのかナ。僕ノコとを忘れテシまったノかイ」


「トカゲに知り合いはいません。人違いです」


 少しでも遠ざけたくて、ぶんぶんと出鱈目にナイフを振る。


 それを見ていた黒猫があきれ声を上げる。


『ちょっと、何しているの。順序が違うでしょ。ちゃんと教えたとおりにしてよ』


「だってあのウロコ、触りたくないし……」


『ワガママ言わないの』


 燐にだけはそれ、言われたくない。深紅は我慢して手を止める。トカゲが近づいてくる気配を感じる。


「思イ出しテクレたのカナ。今度こソ、僕ヲ受け入レテくれルノかナ」


 トカゲはずるりと尻尾を振りかざし、深紅の体を巻き取った。


「ひゃっ」


 つるりとした鱗の感触が肌の上を滑り、深紅の脚から力が抜ける。その場に腰を落として、へたり込んでしまう。


「君ガ僕を認メテクれたンダ。本当の僕ヲ解放しテクれタ。だカラ僕は君ヲ求めテコこまデ来タ」


 トカゲの頭部が深紅の爪先に迫る。チロチロと伸ばされた舌がくるぶしの辺りをくすぐる。


「ひえ……」


「良イ匂いだネ。美味しソウ。君ノ匂いダ」


 トカゲの頭が大きく上下に割れた。ぱっくり開いた口が深紅の左足首をくわえ込む。じっとりと生暖かい感触に足先が包み込まれる。


「うあああ」


「僕ハズっと君ヲ見ていタ。君だケヲ見てイタんダ」


 歯は退化し、呑み込むことにのみ特化したトカゲの喉が、その発達した筋肉で深紅の足首をぎゅうっと締め付けてくる。


 人を喰らう怪物。その言葉の意味が、俄に意識させられた。

 まさか、そんな。ねえ嘘でしょ。信じたくない気持ちに、虚ろな笑みが顔に張り付く。


 と……容赦なくそのまま、足首はねじりつぶされた。


「!!!……かはっ」


 ゴリゴリ骨が砕かれる感触と共に、激痛が深紅の脳髄を直撃する。チカチカと意識がハレーションを起こす。


『そう、それでいいのよ』


 路上でのたうち、仰け反る深紅の姿を見て、左右色違いの瞳を黒猫は細める。


 溢れ出した熱い血潮にトカゲの口中が満たされた。くわえ込んだ少女の脚が内側で無力に跳ね踊る、その動きを堪能しつつ、トカゲの目が恍惚に溶ける。


「甘イ……美味しイ。なンダこレ、美味シスぎるゾ」


 必死に這って逃れようとする深紅を、さらに呑み下そうと乱雑に引き摺り寄せる。


「こンナの、我慢デキなイィィ」

 とめどなく流出してくる血液を貪欲に啜り上げ、胃袋へと送り込む。


「うグッ」

 だが。突然つんのめるように、食餌に没頭していたトカゲの動きが止まった。呆然と首を上げ、宙を見つめてぶるぶると震え出す。


「グ……あア。なンダこレ。どウナってイルんダ。僕ハ何を食べたンダ」


 口の端から血塗れの脚がこぼれ落ち、喘ぐ深紅は匍匐しながらどうにかトカゲと距離をとる。


『深紅は美味しかったでしょう?贄華ニエハナ入りを口にしたんだもの。タダでは済まないわよ、ケモノさん』


 満足げに事態を傍観しつつ、黒猫が呟く。


 変調は深紅の体にも生じていた。深紅の肌をうっすらと覆っていた碧い蛍光が、無残に潰された左の足首を集中的に包み込む。すると噴出していた血流がみるみる止まり、露出していた骨の破断面が盛り上がった肉に覆われる。ぐちゃぐちゃに壊されていた脚が、何事も無かったように修復されていく。


『どうかしら、これが贄華よ。深紅にも少しは理解できた?』


 黒猫が得意げに語る。


 贄華ニエハナ。それを摂取した者はどんな傷でもたちどころに治癒してしまう、絶大な再生力を得るのだと聞かされていた。それは実質、不死にも等しい能力なのだと。


 実際その発現を目の当たりにしても、俄には信じがたい。未だ残っている痛みに顔を引きつらせながら、深紅は自分の脚に起こっている奇跡を呆然と眺める。


「うぐ……こんなの、すごい、けど……中途半端よ。どうせなら痛みも、感じなくしてくれれば良い、のに」


『そんなのズルいでしょ。贅沢言わないの』


 こんな非常識を目の前にして、今更何がどうして狡いと言うのか。深紅には訳がわからない。


『問題はここからよ、深紅。そのナイフ、絶対に手放さないでね』


 一応このナイフも、特別製だと聞かされてはいた。贄華を口にした者だけに作用する、特殊な刃物なのだと。だからうっかり自分の手を傷つけないように、獣皮の手袋を着けさせられている。確かにその鋼は妙に熱を帯びていて、金属製のグリップを素手のまま掴んでいたら酷い火傷は免れないだろう。

 しかし見た目は古風で単純な造りの折りたたみナイフに過ぎない。畳んでしまえば深紅の手にも収まってしまうような、ちっぽけな代物だ。


 びっしょりと汗をかき、肩で大きく息をく深紅の目の前で、トカゲの姿にも変化が起こっていた。


「おオ……ウオおオ、僕ハドうなッテ」


 震えるたびにトカゲの体が大きくなっていく。さらに全身の鱗が黒光りしながら、細微な刃物を密集させたように鋭くささくれ立っていく。四肢には厳つい爪が伸び、口の中には鮫のような鋸状の歯がびっしりと生えそろう。その上、頭部には瞼の無い目が大量に発生して、それぞれがキョロキョロと勝手な方向を探っている。


「フうゥ……イいゾ。こレハ最高ダ。力が漲っテクる」


 倍以上に膨らんだ怪物のシルエットを、深紅はただ見上げるしかない。


「うわ。ちょっと、どうしろって言うのよ。こんなのもう恐竜でしょう。しかもさらに気持ち悪くなってるし……」


『何よこれくらい。贄華は生命の力そのものなのよ。ちょっと強くなったように見えるかもしれないけど、こいつが口にしたのは深紅の血に含まれていたほんのちょっぴり、深紅が直接受けている恩恵とは比べものにならないわ。大丈夫でしょ。深紅にはそのナイフもあるんだから』


 どこからどう見ても大丈夫じゃ無い。こんなちっぽけなナイフ一本手にしただけで、貧弱そのものな女子高生がどうやってこんな滅茶苦茶なモンスターを相手にしろというのか。


「うう、理不尽すぎる」


『文句は言わない。わかっているのかしら、これは深紅の贖罪なのよ。深紅があたしのことを壊したりするから、こんな事態になっているんでしょ。あの時のこと、あたし絶対忘れない。お陰でこんな、ちっちゃくて何にもできない姿にされちゃってさぁ……ぜーんぶ、深紅が悪いんだもの。責任、とってもらうから』


「うーん……そうは言うけど、私その件については身に覚えが無いんですけど」


 燐と……この黒猫と出会った当初の記憶には、曖昧になっている部分が多い。当時の深紅は高熱を出すことが多く、意識もはっきりしていない日々が続いていた。何もできずにいたはずなので、そこについて追求されても深紅としては困惑するしか無い。


『もう、ホント非道いひと。あたしが抵抗できないのを良いことに、あれとかこれとか、好き勝手にしてくれておいてさぁ』


「えぇ……私が覚えてないからって、適当に話盛ってるでしょ」


『それがあながち、嘘でも無いのよね。その結果、こんな無駄に可愛い子猫にされちゃってるんだもの』


「でも、私といるときは元の姿に戻れていることあるじゃない」


『それ、深紅と、いるときよ』


「え?なんで?どういうこと?」


『あのねえ……少しは察しなさいよ、無神経なんだから。深紅が、深紅だからでしょ』


 ぷいっ。不機嫌そうにそっぽを向く黒猫。


「??」


 深紅には、ますます何だかよくわからない。

 この黒猫に取り憑かれてからというもの、毎日のようにこんな類いの恨み言を聞かされているのだが……時折おやっと、思わされる。もしかしたら私、懐かれているのでは?


 燐は、深紅の前だと人間の少女の姿に戻っていることが多かった。さっき深紅に贄華を呑ませたときもそうだ。深紅より少し年下の、中学生くらいに見えた。子猫の時も可愛らしくはあるのだが、実は変化へんげしているのがもったいないくらいの容姿をしている。

 でもそれは深紅以外に誰もいないときに限られる、と言うことらしい。誰かにその姿を認識されると、自動的に黒猫の姿になってしまうようだ。今も大トカゲがいるから、人に戻ることができないのだろう。

 同じ理由によるものか、燐の言葉は深紅にしか聞こえていないようだった。他の者には、ただの猫の鳴き声としか理解できていない。だからこうして燐と会話しているところなんて、傍から聞いていると猫と会話する痛い子として見えているに違いない。


『とにかく責任、とってよね。贄華としてのあたしの使命を、深紅が代わりに果たすのは当然の成り行きでしょう?』


「……うん」


 取りあえず頷く深紅。


 いずれにしても、黒猫の願いを断るなんてできないから。


 深紅は未だ病院から退院してきてからも日が浅い。この黒猫が贄華と呼ぶ、得体の知れない何物かを経口摂取することで、どうにか脆弱な命を長らえさせている状態には違いないのだ。


 命を救われている。感謝はするべきなのだろう。しかしその代償として人喰いの怪物に立ち向かえと無茶なことを黒猫は言う。荒事なんて向いているはずも無い、虚弱そのものの16歳女子に。


 ちょっと横暴なのではないか。こんな過酷な課題、自分では当然のことと思っているのかもしれないが、どう考えても普通じゃない。軽々しく人に押しつけないで欲しい。

 贖罪だとか、あなたの所為だなんて言われても……。


 そう思えたりもするのだが。


 しかし。この猫は、夜になると泣くのだ。深紅の部屋のクローゼットに閉じこもり、眠りながら静かに涙を流す。本人は気付かれていないつもりなのだろうけれど、深紅はこっそり見てしまっていた。


 このあどけないくらいの寝顔を晒している少女が、どうしてこんなに非情な使命を負っていて、そこにどんな思いを抱いているのか。黒猫はいちいち説明なんてしないから、深紅には何もわからない。


 ただそこに、声もなく流される涙があるだけだ。


 だから。


 深紅は、黒猫の願いを断らない。

 取りあえずは、断るつもりもない。 


 長い病院暮らしで、痛い思いも随分してきていた。

 散々死にかけを繰り返してきた。

 贄華があれば、死ぬことだけはないらしい。

 多少の目に遭っても、深紅にとっては今更だ。


 まあ、仕方ないのかな。

 と、考えることにした。


 空の色はオレンジからパープルへ。闇を濃くした高架下に、疾駆する車両の轟音が絶え間なく降りそそいでいた。


 より凶悪な姿へと変貌した大トカゲは、満足げに尻尾を振り回す。おかわりを求めて、頭部に見開いた無数の目が一斉に深紅をめつけてきた。


「うわあ、気持ち悪い。せめて、あんまり痛くしないでくれると良いんだけど」

 完治した足首の具合を確かめながら、深紅は立ち上がる。


『それはどうかしら。あのヤスリみたいな鱗なんて、かすっただけで肉までごっそり削り取られそう。くくっ。心配しないで、贄華ならたっぷり注いであげるから。深紅にだったら、あたしの全部を注いであげても良いのよ。……遠慮は要らないわ、思う存分食い散らかされてきなさい』

 黒猫は楽しげに笑みを浮かべる。


「ひええ……」


『さあ来るわよ。覚悟はいい?』 


 シュルルルル。細く高く、大トカゲの吐き出す息が近づいてくる。


「もット、食べタイ。美味シイもノヲ……君ヲ食べたイィィィ」


 やるしかない、のよね。


 深紅は覚束ない手つきで、なんとなくナイフを構える。


 ああもう、どうにでもなれ……。


 大トカゲが、大きく口を開いた。

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