雨傘
えびまよ
雨傘
コンビニで買い物を終えて、傘立てからビニール製の白い傘を一本取り出す。なんだろうな、雨後の空は妙に明るい気がする。クーラーの効いていた室内とは打って変わって、初夏の大気はジメジメとしていた。
店員の言葉を聞くために外したイヤホンを再度つけようと思ったら、傘が邪魔で手が空いてなかった。俺は一旦、傘をもう一度置くと左手にコンビニ袋を持って、右手でイヤホンをつけた。眼の前の通りを走っている車の音が小さくなって、お気に入りのアイドルの歌が耳に流れる。
彼女たちは梅雨にもいいところがある、と歌っていた。
まあ、探せばいいところはなんだって見つかるさ。けど、嫌われ者の梅雨を好きになろうなんて無理難題だ。
六月は祝日がないし、湿気のせいで蒸し暑い。普段から電車で通学している俺からすると、雨の日は自転車や原付で通っているやつまで電車に乗るせいでものすごく混む。
実際、今だって手持ち無沙汰な傘がものすごく邪魔だった。わずらわしいったらありゃしない。
抗議の意味を込めて、鼻から強く息を吹く。同時に、ちょっとした苛立ちが脳内からはじき出される気がした。
そんなもんだろう。別にいいさ、まったく賛同できない歌詞でも、メロディーさえよければそれでいい。梅雨と違って、曲は好きになれる。
鼻歌をうたいながら、コンビニの裏手から小学校の通学路へ入る。古い通学路だ。ところどころ、くぼんだコンクリートに雨が溜まって、水溜まりになっている。なつかしいな、この光景。小学生の頃を思い出す。ここを左に曲がれば、校門が見えてくる。
なんとなく、別に理由もなく、校門の方へ首を向けた。だれか分からない、怪しいやつが立っていた。黒髪に、上下とともに黒い服の女の子。肩にも黒いケープをかけている。健康的な小麦色の肌も相まって、やけに違和感がある。
あんまり眺めるのもいやらしいかと思って、すぐに首を戻した。すると、彼女は俺の方へ追ってきているようだった。
なぜ、小学校の校門に俺と同い年らしきやつがいたのか、なんで俺が過ぎ去るタイミングで動きはじめたのか、妙な気持ち悪さだ。しかも、行く先まで同じと来た。
曲がり道を一つ、二つ、そして三つ。このまま進めば、俺が子供のころから住んでいる実家のマンションだ。ここまでなら、俺のいつもの昼食を買う一連の流れだった。
しかし、どういうことだろう。まだ女はついてきている。道路に立てられた反射鏡で確認したとき、生唾を飲んだ。さっきまで暑苦しかったのに、急に体が冷えてきた。
勘違いであってほしい。そんな淡い期待を込めて、俺は立ち止まった。イヤホンを外し、スマホを弄るフリして、通り過ぎてくれるの祈る。
祈祷は虚しく、神は微笑まなかった。
「お兄さん、おぼえてる?」
「だれ、ですかね」
スマホへ向けていた首を持ち上げ、彼女の顔を見る。記憶にない、女だった。真っ黒なファッションも、小学校の校門にいたから異質に見えたが、意外に悪くないようにも思えてきた。
じりじりと、彼女は俺に近づいてくる。男としては喜ぶべき場面かもしれないが、どうも嫌悪感がある。
「……人違い、だったかも」
「だれか、探してたんですか」
「うん」
それきり、会話は止まった。彼女はくるりと振り返ると、小学校の方へ行ってしまった。
不審者として通報しようか悩んで、やめた。忘れよう、なにもなかったことにするんだ。
またイヤホンをつけて歩き出す頃には、彼女の服の色以外、なにも覚えてなかった。
明日は、大学に行く日だな。雨じゃなければいいのに、予報は明日も降るらしい。もう、休んじゃおうかな。
あとわずかな単位を取って、これから始まる就活を耐えしのいで、卒論を完成させて……残った半年ぐらいをダラダラと過ごして、そして社会人になる。
決まったレールを歩くのは楽でいいけれど。子供のときは、そういうのが好きじゃなかった気がする。
頭の中で、答えのわかりきっている情報を整理していると、時を忘れてしまう。
気づけば、家についていた。尻のポケットから財布を抜いて、鍵を取り出す。扉に差し込んだところで、思い出した。
ああ、なんでこう、家に帰ってからなんだろうな。恨めしいよ。コンビニに傘を置いてきてしまった。安いビニール傘を気にすることもないんだけど、軽い自己嫌悪に走る。
これだから梅雨は。
*
家にあった残り一本の傘をさしながら、学校へ向かう。バス停が見えてきた。
小学校前にあるバス停から、駅へ。そこから電車で二十分。それが俺の登校ルート。周りの友人たちに、うらやましがられる近さだ。他県から来てるやつなんて、授業の二時間前ぐらいに起きてることもある。大した夢もないだろうに、よくこんな遠い大学まで来たもんだ。特段、頭がいいわけでもないし、唯一無二の学科があるわけでもないのに。
昨日のことを思い出して、小学校の方をちらっと見た。黒い女が、いたような気がする。けど、そんなことはどうでもよかった。
小学生の頃か。修学旅行とか、課外活動みたいな大きなイベントはかすかに記憶に残っているのに、日常的なことは、ほとんど覚えていない。
あのときの夢は、なんだったっけな。
「あっ」
八割ぐらいが息で構成された、わずかな声が出てしまう。校門に、またあの黒い女がいた。
彼女は傘もささずに、ずぶ濡れで立っていた。黒いジーンズと、黒い服、そして肩には同色のケープ、昨日と変わらない服装だ。なんとなく忘れていたのに、見た瞬間に思い出した。
「……また、会ったね。お兄さん」
彼女はこちらを見て、そう言った。気味が悪くて、返事できなかった。
会釈して、心臓をバクバクと鳴らしながら冷静を装う。頬がこわばっているのが分かる。できるだけ目を合わせないように、バス停へ歩く。
「無視したら、嫌だよ」
二メートルほど通り過ぎて聞こえたそれは、さすがに嫌な未来を想像させてしまう。最近、凶悪事件のニュースを見たばかりだ。
俺は急いで振り返って、口を固く結んだまま目線を合わせないように、もう一回しっかりと頭を下げた。もしかしたら、さっきの会釈に気づかなかったのかもしれない。とにかく、近づいてこないかどうかだけを意識しながら、首を戻しつつ薄目で様子をうかがう。
俺の不安とは裏腹に、彼女は泣きそうな顔をしていた。雨にうたれているせいか、ひどく寂しいように見えた。
でも、かわいそうという気持ちより、怖いって気持ちの方が勝った。
「ばいばい」
その言葉に合わせて、俺はまた小さく礼をすると、足早に去る。ようやく落ち着ける、とバス停で椅子に座って、あの女がこちらに近づいていないか、ジーッと校門の方を見つめる。
バスが到着すると、張り詰めていた緊張の糸が切れて、一泊二日の旅行終わりぐらい疲れてしまった。
一番後ろの席に座ると、急に自分が悪人に思えてきた。それはまるで、迷子の子供を見捨ててしまったような。
*
夜、六時過ぎ。一日の用事を済ませて、充足していた。こんなときのバスの乗り心地は、ゆりかごのように眠気を誘う。まあ、本当にバス自体は揺れてるんだけどさ。
まぶたが重く、何度も閉じたり開いたりを繰り返す。車両の頭側、その上部の液晶に、次の停留所が書いてある。外の景色も見慣れてきた、そろそろ停止ボタンを押して、降りる合図をしなければならない。
そういえば、あの女の子は……。あのときは、バスの時間も迫ってたし、怖くて逃げるように去ったけど、なんであんなところにいたんだろうか。
最後に別れを告げられる前、薄目で見たときにひどく悲しそうな顔をしていた。
バスを降りて、空を見上げる。夏の夜は、まだ明るい。帰り道を変えようかとも思ったが、意を決する。
決意を秘めながらも、どこか信じがたい。そう、俺はそんなわけはないと思っていた。いるわけがないと思いながら、小学校の校門を覗くと、彼女はまだそこにいた。
教員とか、近所の人に通報されたりしなかったんだろうか。彼女は、今日の朝、見かけた様子のまま、そこにまだ突っ立っていた。
「あ、お兄さん」
「どうしたんですか。昨日からずっと」
人を探しているの、と彼女は言った。
「子供ですか」
「今は、大人かな」
よく、意味がわからなかった。
「……あ、学校の先生なんですか?」
「私が? 違うよ」
俺に分かるわけはないが、なんとなく探している人物の名前を聞いてみた。
「名前はね、栗田だよ」
「……おお、俺も栗田っすよ」
合コンみたいな、適当さのある相槌を打つ。しかし、これは嘘ではない。
俺の名前も栗田なのだ。
「じゃあ、やっぱりお兄さんだ」
「はい?」
「忘れもの」
彼女は俺に抱きついてきた。驚いて、自分の腹部を抱え込むように腕を持っていくと、自分の体に手が当たった。
わけが分からず、まばたきを何度もして、自分の胸辺りをよく見てみた。彼女はいない。ただ、右腕の中には俺が昨日、コンビニで忘れたはずのビニール傘があった。
唇の、左端を持ち上げる。
狐につままれたとはこのことか。昨日は何時に寝たっけ、体調も悪くないはずなのに。これが就活のストレスってやつなのか。
案外、落ち着いている。取り乱しそうにもない。やはり、実体のない恐怖よりも、なにをしてくるかわからない人間の方がよっぽど上らしい。
それにしても二日かけての公演とは大層なことだ。
締まりの悪い物語。大団円には程遠いが、夏の始まりにしてはやりすぎなぐらいの体験だ。
今日はイヤホンをつけずに帰った。いつもの道を通って、時々、空を見上げたり、民家の明かりを見たりしてみた。
小さい頃から、ここの景色はなんにも変わっていない。夕食時の今、漂ってくる香りもあの頃のままだ。
徐々に、あのときの記憶がよみがえってくる。
この道で、ボールを蹴りながら帰っていた。サッカーボールを持ち運ぶための、あの紐をつけたまま、リフティングができないから紐をつけたまま手に持って、蹴り上げていた。
勢い余って、強く蹴ったせいか紐が切れちゃったっけ。母さんに怒られたな、うん。
友だちと自転車で通って、わずかな小遣いをはたいて自販機でジュースを買ったような覚えもある。もっと暑い、夏だった。あんなのが、とんでもないくらいの贅沢だったよな。
ここから、右に曲がって、ずっと行けば沢田の家だ。何十回、遊びにいったけな。おやつのレパートリーがいつも同じで、クラスであだ名が和菓子屋になりかけてた。
なつかしいな、なにもかも。
帰ったら小学校の卒業文集でも見てみようかな。就職して、三十歳ぐらいになったら一回、仕事をやめて、なにかあのときの俺に夢があれば、それをやってみてもいい。
なんか、あのときのような、毎日を精一杯、生きる感覚を忘れてたな。今を、いかに楽に生きるかを探し続けてた。
マンションの階段を登って、ようやく帰宅だ。シャワーを浴びて、母さんの作った夕飯を食べて……。
いや、最初に文集を探そう。それを見つけてからでいいや。そっちの方を優先したい。
あの女の子が言っていた、"忘れ物"と。ビニール傘よりも大事な、なにかを忘れていた。まだ、押入れから見つかるだろうか。
「おかえり」
「ただいま」
台所からいい匂いがする。靴を脱いで、なによりも先に自室へ。少し乾いた喉を潤すこともいとわずに、押し入れから荷物を引っ張り出す。
どこにしまったけな、ダンボールの中か。そんなに変なところにはないはずなんだ。ホコリまみれの押入れに手を伸ばし、体が汚れることすら気にせずに、俺はただ――――。
これな気がする。昔のアニメのシールが貼ってあるダンボール。ガムテープすらしていないから、中身を開けてみるとホコリがかぶっていた。
一つ、また一つと確認していって、下の方に、そいつらはいた。ゴテゴテとした大きなアルバムらしきものと、真っ黒な折りたたみ傘だ。
二つとも、取り出して汚れを払う。ああ、そうだ。この傘は、子供の頃に使ってたやつだ。
開いてみると、ホコリが部屋中に舞った。
「あ、あんたなにしてんのー!」
「……さがしもの」
俺の騒ぎを聞きつけて、母さんは様子を見に来ていたらしい。部屋がホコリまみれで、母さんはカンカンだった。
俺はごまかすように何度も笑いながら、その傘を見てみた。
取手に、栗田と名札シールが貼ってあった。
雨傘 えびまよ @text
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