第10話 その瞳に魅入られて

 あの日ノアを召喚してから、早いもので二年が経とうとしていた。


 平民になった私はと言うと、まず服の脱ぎ着から練習した。恥ずかしい事だけど本当に何一つ出来なくて、世間知らずだった自分が心底恥ずかしかった。一人で湯浴みすら出来なかった。流石に着替えと湯浴みはノアに助けてもらう事は出来ないから、なかなか完璧になるまでに時間がかかってしまった。何度も失敗して、その度にノアに慰められてもう一度挑戦する。

 この二年はずっとその繰り返しだった。刃物すら持った事のなかった私は、もちろん料理なんて出来るわけがなく……

ノアが一生懸命教えてくれたけれど、結局最後まで上達する事はなかった。



 この二年、悔しくて自分の無知さに何度も心が折れそうになった。でもその度に、ノアが励まし慰めてくれて、私は何度も救われていた。

 いつの間にかノアに、『リア』と愛称で呼ばれる事にも慣れ、この奇妙な同居にも慣れてきた頃、側で支えてくれているノアに淡い恋心を抱くようになるのは自然の事だったと思う。

 でも、この想いをノアに伝えるつもりはない。アイザック様との一件は、自分が考えているよりも私の心に深い傷を残していた。


 それでも最後は、私の魂を絶対ノアに回収してもらいたい


 二年前の約束の対価。その約束の二年がもうすぐやって来る。

最後は笑顔で、これまでの感謝を伝えたい。ノアがいてくれなかったら、間違いなく私は平民として生きる事は出来なかった。

本当に世間知らずで無知だった。


 ノアが好き……

でも自分の想い以上に、ノアの幸せを願ってる。人間と悪魔では生きる時間も考え方も違う。

だからノアには同じ種族の人と幸せになってほしい。


「ぃ……おい、リア。聞いてんのか?」

そんな事を考えていると、目の前にいたノアとの話が話半分になっていたようで、ずいっと顔を近づかれようやく意識が戻ってきた。

「あ、ごめんなさい。ちょっと考え事をしていて。……それで何の話だったかしら」

「だーかーらー。いつにする?てかもういいだろ、俺十分待ったし。約束の期間は後数日残ってるけど問題ないよな?」

そう言われ、心臓がドクンと嫌な音を立てた。私は呼吸が乱れそうになるのを必死で整え、無理矢理笑顔を貼り付け、

「……そうね。もう十分幸せだったわ。ノアありがとう、願いを叶えてくれて。……遅くなってしまったけど、約束だもの。ノアの好きにして」

そう言って固く目を閉じた。

本当は好きだと伝えたい。でもきっと優しいノアは、私が想いを伝えたら困ってしまうと思う。だからこのままでいいの……

そう思っていると、不意に唇に何かが当たる感触がした。

驚いて目を開くと、そこにはノアの顔が視界いっぱいに広がっていた。

「え?」

「なんだよ」

「……私の事、食べるんじゃないの?」

「……だから今してんだけど」

「ん?」

「はっ……嘘だろ……?」

何だかお互い、食い違いが生じているようだった。



 結局すぐにノアと話し合うと、とんでもなく恥ずかしい事実が明らかになった。

「あの日、リアが俺のものになるってプロポーズしてきたんだろ?」

「プ、プロポーズ!?私そんなはしたない事してないわ!」

「んだよ、嘘だったのかよ」

もの凄く機嫌が悪くなったノアに、私は別の意味で心臓がドクドクと音を立てていた。

私の言った『貴方のものになる』を、あの時からプロポーズとして受け取っていたというの?


「……ノアは私の事好きなの?」

「当たり前だろ、だから二年間ずっとリアを見守ってきた。てか好きじゃなきゃここまでしない」


 ノアが真っ直ぐこちらを見て伝えてくれるものだから、私は酷く動揺してしまった。こんなに真っ直ぐに想いを伝えてもらった事は今まで一度だってなかった。

だから私も自分の気持ちに素直になってノアに想いを伝える事にした。

「好き。私もノアの事大好きでっ、」

言い終わる前に気付けば私はノアの腕の中にいた。

「……リアさぁ、意味分かってる?俺と一緒にいるって事は、“人間としての自分”を捨てるって事だぞ?もっとちゃんと考えろよ」

「私とノアじゃ生きる時間も考え方も違うのは分かってるわ。でも私、ノアといたい。ずっと一緒にいたいの」

「……人間の自分を捨てても?」

「人間の自分を捨てても」

「例え、二度と自由になれなくても?」

「自由になれなくても。ノアがいればそれでいいの」

抱き締められているノアの手が、僅かに震えているのが分かる。でも私はノアにきちんと伝えなければならない。



「ねぇ、ノア。私貴方を召喚する時に全部捨ててきたのよ。それで手に入れたのがノア、貴方なの」

「……」

「ノア」

「……嘘じゃねーよな?まぁ、もう撤回なんかさせねーけど」

「ずっと側にいてくれてありがとう。大好き」

「——リア愛してる。一緒にいよう。永遠に」

気付けば私達は自然と口づけを交わしていた。愛する人との口付けは、こんなにも心を満たしてくれるなんて、あの頃の私は知らなかった。



 あの日。ノアを召喚した時から、きっと私はこの悪魔の赤い瞳に、自分が映りたいと願っていたのかもしれない。

私は全てを捨てたけど、不思議と後悔はない。だって……


ノアがいい。ノアがいればいいの。

私の本当の願いは、ようやく叶ったのだから——

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