第十章 第5話

 家壁に肩を強く叩きつけるようにして倒れた劉彗りゅうすいが。

 その場に引きずり込まれるようにして、崩れ落ちていく……。

 手の届く距離にいた莉恩りおんは、咄嗟に振り返りその体を支ようと手を伸ばした。だが体格が違い過ぎて劉彗の体を支えきれず、引きずられるようにして腕を引かれる。異変に気付いた漣壽れんじゅが慌てて駆け寄り、劉彗に肩を貸して立ち上がらせた。その反対側を、協力者と呼ばれた黒装束の男が支える。近くで見ると彼は、南域の雰囲気を漂わせた猫のような目をした男だった。

 劉彗りゅうすいの体は、小刻みに震えていた。苦しそうな息を上げるその額には、見る間に大粒の汗が浮かぶ。

「どうしよう、劉彗が。劉彗が……っ!」

「傷口から毒が? まずいな」

 恐らく、この街に安全な場所はない。莉恩は両の手を組み合わせ、祈るようにその手を唇へ押し当てた。こんな状態の劉彗を連れて、長距離の移動はできない。

 ――不意に、一人の顔が脳裏に浮かんだ。

 莉恩りおんは熱に浮かされたように、その名を口にする。

凌安りょうあん先生なら……」

 漣壽れんじゅが不思議そうに莉恩へ視線を向ける。

「この先に、凌安先生の家があるの。あの人なら……」

 漣壽はすぐに察したように、大きく頷き返した。

「わかった、そこへ運ぼう。莉恩、案内してくれ」


凌安りょうあん先生! 凌安先生! 助けてください!」

 なりふり構わず凌安の家の門前で声を上げると、暫くして中から人の出てくる気配がした。扉を開けたのは、劉彗りゅうすいそっくりの仏頂面をした、寝間着姿の凌安だ。

 目の前にいるのが莉恩と知ると、驚いたようにその目を見開く。

「お嬢さん、王都へ戻ったんじゃなかったのかい?」

「先生、どうしよう……劉彗が。劉彗が、死んじゃう!」

 悲鳴にも近い声を上げて胸にしがみついてきた莉恩に、尋常ではない事態が起こっていることを察したのだろう。二人の男に肩を抱かれた劉彗を目にした途端、彼の軽口は鳴りを潜めた。

「一体何があった? ……いや、まずは中へ入りなさい」

 凌安の対応は、思っていた以上に手際が良かった。二人の男の手を借り、劉彗を布団へ寝かせる。衣服を脱がせ、素早く腕の傷を検分。その間に莉恩へ、厨膳所ちゅうぜんじょで湯の用意をするよう指示するのも忘れない。

 凌安りょうあんの的確な指示で、莉恩はようやくその場から立ち上がった。以前に劉彗がお茶を淹れに消えて行った廊下の先へと、慌てて向かう。

 襖に手を掛けたところで、一度。劉彗のことが気に掛かり、振り返った。

 今は半身を脱がされた劉彗の、床の上に投げ出された着物の袖。それは今、重く血を吸い。ぐっしょりと朱に濡れている。

 不意に。

 幼い頃に見た、血にまみれた花唐草の着物が。眼前に色鮮やかに蘇った。

 ――劉彗は、大丈夫……。

 胸を締め付ける息苦しさに。莉恩はそっと、その目を伏せた。


 熱と、痙攣けいれん。浅い呼吸。

 劉彗りゅうすいの顔色は悪い。

 時折苦し気に上げるうめき声に、莉恩がしてあげられることと言えば。流れる汗を拭い、額に載せた手ぬぐいを取り換えてあげることぐらいだ。

蟾酥せんそ……か」

 一通りの手当てを終え、劉彗の様子をしばらく観察していた凌安が。腕組みしたままに呟く。莉恩はその言葉に思わず顔を上げた。

「猛毒、ですよね」

「ああ。蝦蟇蛙がまがえるの分泌液から採れる毒だ。強心作用があるが、使い方を誤れば、嘔吐おうと痙攣けいれん、不整脈を引き起こし、最悪の場合には呼吸困難で死に至ることもある」

 莉恩りおんも書物で読んだことがある。

 蟾酥せんそ蝦蟇蛙がまがえる耳腺じせんから採れる分泌物を採取して乾燥させたものだ。

 蝦蟇蛙がまがえる自体は斎国さいこく全域に生息するが、瑞浪大河ずいろうたいがに生息する蝦蟇蛙から採取した分泌物は群を抜いて毒性が強い。

 蟾酥せんそは正しい手順で適量使用すれば、この上ない薬となる。だがその毒性故、国内で薬として流通する蟾酥せんそは、国が厳しくその取り扱いを管理していたはずだ。

 斎国さいこくで指定毒薬物として管理されているはずの蟾酥せんそが、何故この状況下で……?

 いや、それよりも……。

「これ以上我々にできることはない。あとは劉彗の生命力を信じるしかないな……」

 凌安りょうあんが、彼にしては珍しく力ない声でそう告げて。劉彗の、苦し気に喘ぐ横顔に目を止め。その眉根を深く寄せる。

 劉彗に、視線を落としたままに。

「凌安先生……」

「なんだね」

 名を呼んだ、莉恩の声に。凌安は沈痛な面持ちのまま言葉少なに返す。

「解毒剤……が。必要ですよね」

 凌安は一瞬、莉恩の言葉の意図を図りかねるように目を細めた。だがすぐに普段の冷静さを取り戻し。今度は言葉を選ぶようにして、ひどく慎重に。その口を開く。

「斎国に……。蟾酥せんその解毒剤は、ないぞ」

「……はい。現在知られている限り、蟾酥せんそに有効とされる解毒剤は三種類。ですよね」

 莉恩は確認するように。膝の上に乗せていた右手の指を三本立てる。

「大陸の北の大国、りょうで産出される、触れれば傷口から全ての毒を吸い出すと言われている竜骨石りゅうこつせき。しかし了国は、百二十年ほど前に神山が火を噴き、一夜にして国の全土を呑み込んだので……既に国はなく。竜骨石りゅうこくせきももう、現存してはいないでしょう。次に李王朝りおうちょうにいるという、自ら毒を体内に取り込みその体液から解毒剤を作ることができるという綬毒師じゅどくし……は。患者の目の前に居なければ意味がありませんし、隣国から連れてくるには時間が掛かりすぎます。ここで一番手に入りやすいのは、南域原産の闢煉草びゃくれんそうでしょう。煎じて飲ませれば、排毒効果が非常に高いのですが……。現在では取り扱いを国が厳しく定めているので、一般には流通していません……」

「莉恩……、君は…………」

 凌安りょうあんが。訝しむようにそう、何かを言いかけ。

 しかしその声に被せるようにして。

 部屋の隅にいた男が鋭い声を上げたのはその時だった。


闢煉草びゃくれんそうならいま、之水港しすいこうにあるだろ」

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