第九章 第2話

 延郭区えんかくく

 第三亮藩、武官本部。

 従団長じゅうだんちょうの名は、朗備ろうびという。調書のために呼ばれたと告げると、莉恩りおんはすんなりと奥へ通された。

 執務室へ入ると、驚いたことにそこには漣壽れんじゅがいた。目を見張る莉恩とは裏腹に、漣壽は相変わらず穏やかな微笑みを浮かべている。

「同席させてもらいたいと、わたしから頼んだんだ。莉恩が聴取の途中で気分を悪くするといけないからね」

「ありがとう……」

 漣壽の気遣いに莉恩の頬には自然と笑みが浮かぶ。彼はいつだってこういうさり気無い気遣いができる人だ。武官になった今でも変わらずにいてくれることが嬉しかった。

 朗備従団長はどこか楽し気な薄笑いを浮かべ、二人のやりとりをにやにやと眺めている。初めて見た時には莉恩も気が動転していたので、その外見に圧倒され怖そうな人だとしか思わなかったが。今改めて彼を見ると、武官にしては些か軽妙な印象を受ける。上官としての厳格さ以前に。そこにあるのは、部下の個人的な事情に対する好奇心。その様子を、隠そうともせずに。

「では。生きたまま瑞浪大河ずいろうたいがを下ったという猩々しょうじょうについて、話を聞かせてもらおうか」

 にやりと笑みを浮かべた朗備に問われ。莉恩は即座に唇を引き結ぶ。

 斎国にとって、これまで猩々の存在は脅威ではなかった。猩々が生息するとされる森は瑞浪大河の遥か上流にある。人を襲うなら斎国へ来るよりも、李王朝りおうちょうの方が圧倒的に近い。

 斎国の人間が猩々に襲われた唯一の事例は。李王朝へ向かう河川航行かせんこうこうの途中で、不慮の事故によりやむなく船を猩々の棲む森近くへ着けてしまった一件だろう。

 わざわざ斎国まで人を襲いに来るほどの知能を、猩々は持っていない。そう、思われていた。今までは。もし猩々が意図して斎国へやってきたのだとしたら、この国にとっては由々ゆゆしき事態だ。

 だからこそ今回の事件は、詳しい調査が必要なのだと。莉恩にも、この取り調べの重要性はよく良くわかる。今回発見されたのは二体だが。もし、まだ斎国内に猩々がいるのだとしたら……。間違いなく、この国は恐慌状態に陥る。

 だが。莉恩が思い出せるあの夜の記憶は、ひどく曖昧なものでしかない。まるで目が覚める直前に見ていた夢のように。そこにあるのはぼんやりとした輪郭だけ。

 それなのに。

 ふとした瞬間に蘇るのは、妙に生々しい思い出。虚空こくうに伸ばされた、馭者ぎょしゃの四肢。血肉を啜る獣の、荒い息遣い。伸ばされた獣の指先にある、血に濡れた鋭利な爪。

 莉恩は無意識のうちに、両手を口元に押し当てていた。

「慌てなくていいよ」

 寄り添うようにして座っていた漣壽が。莉恩を落ち着かせるようにそう、穏やかな声音で声を掛け。しかし「大丈夫」と答えようとした莉恩は、喉の奥に何かが詰まったまま。それ以上の声を出すことができなかった。

 なんとか一つ頷き返したものの。次の一言を発するまでに暫くの時間を要した。

「…………こ、とばを」

 朗備が待ち侘びたように、机から身を乗り出す。莉恩の顔を覗き込み、話の続きをその目で促す。莉恩はそっと、腕を撫でた。鳥肌が立っている。

「言葉、を……話していました。私を見て、こう言ったんです。『女喰う。女旨い』と」

「ほう。猿が喋ったか」

 どこか面白がるよう風でそう言った郎備は、莉恩を見据え。そうしてあの日の猩々と同じように、にいと笑った。

「他に、何か気付いたことは?」

「い、え。すみません……。そのあとは、漣壽が……来てくれたので」

「馬が間に合って良かった」

 莉恩の様子を即座に見て取ったのだろう。漣壽が横から不自然ではない程度の配慮でもって、口を挟む。

「その後のことはご報告の通りです。覆面姿の少年が一人、現れました。言動からして、南域出身の者かと」

「南域の、なあ……」

 朗備はどこか飽きた様子でふいと机の上で頬杖をつく。そして何かを思い出すようにして、遠い目を空へと向けた。

「南域は、長らく複数の民族が争いを繰り返してきた不毛の地だ。奴らは子供でも容赦なく戦に駆り出す。中には幼いながらに大人顔負けの高い戦闘技術を持つ者がいるそうだ。……少年兵、とでもいうのかね」

「それが。どうして、斎国に。しかも、猩々と一緒なんて……」

「ああ、問題はそこだ」

 漏れた莉恩の疑問に、郎備がすかさず合いの手を入れる。

「文官なら詳しいだろ? 斎国のお伽噺にあるじゃないか。南域の、巨大な猿を操る部族の話が」

「もしかして……。南方聰文録なんぽうそぷぶんろく、のことですか?」

 誰を憚ることもないというのに。莉恩の声は、自然と小声になった。

 南方聰文録は、およそ五百年程前に書かれた紀行文だ。

 当時斎国の礼部省にいた岳苑という人物が、国議の命を受けて大陸の南域をくまなく調査したことがあった。岳苑は二十三年の長い年月をかけ南域の各地をつぶさに調査。持ち帰られた詳細なまでの手記は、その後秘書省が編纂。南方聰文録と題して斎国の公文書に正式に加えた。しかし、現代の世において。その話はあまりに突飛すぎるため、岳苑の空想物語ではないかとの見方が強い。

 郎備が指摘したのは、そのうちの一節。第四十三章に記されているろく族の巨猿きょさるの話だ。

 濼族では大罪を犯しながら改心の見られぬ咎人とがびとを。神の力の一部を使って猿へと変える。そうしてその猿を、神の加護の届かぬ無法の地へと放逐ほうちくするのだ。咎人は死ぬことも人に戻ることもできず。永遠に続く苦しみと共に、荒野で過ごす罰を受ける。

南方聰文録なんぽうそうぶんろくと今回の一件が関係していると言っていたのは。昨日押しかけてきた、王都の……。あの文官は、どこの省の者だったかな?」

秘書省ひしょしょうです」

「王都の秘書省がどうやって今回の件を掴んだのか知らんがな。突然やって来て何を言うかと思えば、今になって南方聰文録を再調査しているんだと。例のお伽噺を裏付ける根拠が見つかったとかで……。今回の、猩々しょうじょうと。それから緋瑛石ひえいせきだな」

 そこで莉恩は、隣に座る漣壽の顔色を盗み見る。以前話してくれた、猩々をという不思議な石。朗備がここまで話を明かしたのは、おそらく莉恩が文官だからだ。

「ああ、もちろん文官の仕事に口を出す気はないよ。だが、こちらはこちらのやり方で調査を進めさせてもらう。晤遙街ごようがいと猩々は裏で繋がっているはずだ。その繋がりさえわかれば、自ずとこの国に猩々が現れた理由もわかるだろう」

 朗備は一見強面で粗野に見えるが、終始筋の通った話し方をする。その口調を聞く限り、見た目によらずそれなりに頭の回る男のようだ。

 南の地で産出されるという、緋瑛石。それが斎国内に持ち込まれるとしたら。…… 間違いなく、晤遙街を経由している。そのことを指摘しての発言だろう。

 そこで莉恩は、思い切って尋ねてみることにした。

「猩々の、被害は……」

「ん?」

「どこまで、広がっているんですか? 二日前の時点では、三件とおっしゃっていましたが」

 朗備は気怠そうに椅子の背凭れへ体を預けると、疲れたような表情を空へと向けた。

遼阿りょうあでもう一件、被害の報告があった。山奥のために発見が遅れ、到着時すでに数日が経過していたが……。こちらの被害は、二人だったかな?」

 確認するように、視線を漣壽へと向ける。

 莉恩は思わずひやりとした。その件については莉恩たちが漣壽へ伝えたものだ。詳しい話を、と尋ねられれば面倒なことになる。

 しかし漣壽は一言「そうです」と答えただけで、特にそれ以上の反応は見せなかった。その様子に莉恩は安堵する。気の回る漣壽のことだ。おそらく発見したのが莉恩たちだということまでは報告していないのだろう。

 それならば……。

 莉恩のような素人がどこまで従団長の目を誤魔化せるかは分からない。が、ここからは探り合いだ。莉恩はなるべく専門的な見解に聞こえるよう、慎重に言葉を選び。

 問いかける。

「遼阿府の山中にまで現れたということは。猩々は、かなり広範囲に渡って行動していますね。山中を移動した形跡があったのですか?」

 遼阿府と敬汎府けいはんふは地図の上では第三亮藩の北東に隣り合っている。だが地形的にはその間に大小五つの山があり、往来できる道はない。人の足で行くには一度、之水港しすいこう周辺の平地まで降りる必要があった。

「いや、残された証跡しょうせきからして、山中の一軒家を意図して狙ったようだ」

「意図して……? 猩々を惹きつける何かが、その家にあったのでしょうか?」

 莉恩がいかにも怖そうな様子で呟くと、朗備は面白がるように薄く笑った。豪快な仕草で頬杖を付く。

「報告を待っているところだが、まあ十中八九腹が減っていたんだろう。家人は一人暮らしだったが、間が悪いことにその日に限って客人が来ていたようだ。武官の装束を身に付けていたから、該当する者がいないか確認させている。酒を振舞っていたようだから、酔っていて襲撃に気付くのが遅れたんだろう」

 やはり、夏朴かぼく弥祐やゆう……。だとしたら。弥祐は今まで中継していた文の受け取りを投げ出してまで、なぜ郷里に戻ったのだろうか。

「莉恩。……気分が悪い?」

 つい、考えに没頭してしまっていた。沈黙した莉恩を、漣壽の言葉が救ってくれる。莉恩は微妙な表情を浮かべ、「少しだけ」と答えた。

「従団長、この辺りでそろそろ……」

「ああ、調べはここまでにしておこう。引き止めて悪かったな。王都から来ていると聞いたが、夕刻には街道が封鎖される。それまでにここを発てるか?」

「はい。このあと同僚と合流して、その足で王都へ戻る予定です」

「次は襲われないように気を付けろよ」

 冗談とも本気とも取れない忠告に、莉恩は曖昧な返事を返す。あの二体以外に猩々がいなければ、大丈夫だろう。

「じゃあ、ここに署名を。質疑はこれで終わりだ」

 差し出された記録書を受け取り、莉恩は内容を確認する。猩々に襲われた者から話を聞いたと公的記録に残すための確認書だ。役所で帳簿管理するために、一部が楷字で書かれている。


 その文字を見た途端。

 莉恩は、軽い眩暈めまいに襲われた。

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