第九章

第九章 第1話

 二人は翌朝、凌安りょうあんの家を後にした。

 昨日、あのあと――。

 劉彗りゅうすいは乱について調べたいと言って、引かなかった。

 当時のことを知っている人物はいないかと詰め寄る劉彗に対し、凌安は危険だからこれ以上関わるなと何度も言い聞かせた。しかし最後には、劉彗の強情さに根負けした。

 数年前に浅霞あさかの実妹が離縁し、今は之水府しすいふ内にある生家に戻ってきているという。劉彗は迷わず彼女へ会いに行くことを決めた。

 一方莉恩りおんは、敬汎府けいはんふの山中で襲われた際の聴取のため延郭区えんかくく内にある武官本部へ顔を出すことになっていた。

 今日の夕刻以降、第三亮藩へ続く街道は封鎖される。それまでに二人は之水府での用件を全て終え、王都へと戻る予定だった。


 凌安は二人の姿が見えなくなるまで門の前に立ち、見送ってくれた。

 良い人だ、と莉恩は思う。劉彗は何が不満なのか、隣でずっと仏頂面をしていたが……。

 宿に荷物を取りに戻る前に、岩嶺がんれいへ行ってみようという話になった。

 岩嶺には現在、乱の慰霊碑があるそうだ。それはちょうど凌安の家から之水港方面へ戻る途中に位置しており、少し足を延ばせば立ち寄れる場所だという。

 岩嶺は瓢箪型をした佐碧湾さへきわんくびれの東側、之水府と華清府かせいふのちょうど府境にある。

 訪れてみて、実感した。岩嶺はその名の通り、岩ばかりの寂れた浜辺だ。

 入江になったその場所は崖に囲まれ、周囲からの視界は遮られている。岩肌に遮られた狭い視界には、水平線の先に湾を往く船が小さく見て取れた。

 無骨な岩が大小転がる波打ち際に、ぽつんと一つ石碑が立っている。莉恩の背丈程しかない、簡素なものだ。足元の石に気をつけながら近付いてみると、長く海風を浴びて苔生こけむした石碑には『岩嶺ノ乱 慰霊碑』と刻まれていた。

 劉彗と二人、その前に腰を下ろし暫く手を合わせる。波打ち際に近く、海から吹き寄せる水飛沫を含んだ風が莉恩の頬を横からしたたかに打った。

「寂しいところね」

 莉恩の言葉に、劉彗は鼻白む。

「ここなら人目につかないな」

 こういう時の劉彗のものの見方はいつも、武人のそれだ。莉恩には持ち合わせていない感覚だった。莉恩などははただ、こんな所で死ぬのは心残りだっただろうと。単純にそう思うだけだ。

 濡れた足元の岩に気を付けながら、周囲の様子を伺うように慰霊碑をぐるりと回り込む。海に面した慰霊碑の背面には、ここで命を散らした二十三名の名が、石碑に刻まれていた。苔に覆われた石碑を指先でなぞるようにして、莉恩はその名をひとつずつしっかりと胸に刻む。


 浅霞、佳浙、封輪、亜栗、参憲、玻道、勝呂、尚玲、沙碁、奉久、譜胡、尾貴、玉由、樹浙、耕世、尽津、諏戸、頑臥、羽依、雅奉、俊清、帆遊、日和……。


 大きく一つ、波が強く岩に打ち付けられて水飛沫が上がった。

「――誰だ!?」

 劉彗が突然声を上げて振り返ると、鋭い視線を背後に向けた。と同時に莉恩の目の前に回り込み、庇うようにして岩陰を見据える。

「この慰霊碑を訪う者がまだいたとは……驚いたな」

 岩陰から姿を現したのは、背ばかり高く痩せ細った老爺だった。声は低く、張りがない。襤褸ぼろに近い薄汚れた着物を身に付け、浮浪者のような風貌をしている。

 ただその手には、不釣り合いな程立派な、菊の花束が握られていた。

 身構える劉彗を気にするでもなく。老人は慰霊碑に近付くと花束を供え、莉恩達が見守る前でじっと石碑に手を合わせた。

「どなたかの、お知り合いでしょうか……?」

 長い黙祷の後ようやく顔を上げた老人に、莉恩は恐る恐る声を掛ける。劉彗は依然として莉恩を背に庇っていたが、莉恩にはこの老人がそう悪い人物であるようには見えなかった。

 莉恩の声に、老人は落窪んだ眼窩を一度莉恩達へ向け。そしてすぐに慰霊碑へと視線を戻す。

「皆、良く知っているよ。ここは儂の地元だからな」

「十八年」と、老人はごくごく小さな声で呟く。波の音に呑まれて、その後の言葉はよく聞き取れない。

 その老人の態度に、劉彗は未だ警戒を隠さない鋭さで「御老人」と声を掛ける。

 一心不乱に石碑に向かって何事か語りかけていた老人は、劉彗の声に呼ばれてゆっくりと頭を持ち上げた。生気の籠らない瞳をこちらへと向ける。

貴方あなたは、乱の関係者か? もしそうなら、当時の事を何かご存知ではないだろうか」

「何か、とはまた嫌な尋き方をする」

 老人はゆっくりと立ち上がった。若い頃はそれなりに体格が良かったのだろう。襟元から覗く鎖骨は骨と皮ばかりになっているものの。その肩幅は広く、浮き出た鎖骨は太く逞しい。

「お前達は官吏か? 今更ここへ、何をしに来た」

 老人の声は相変わらず低く、くぐもった声は波に打ち消され気聞き取りにくい。劉彗は警戒を解かぬまま、鋭い視線を老人へと投げつける。

「我々は王都から来た文官だ。岩嶺の乱について調べている」

「王都か……」

 老人は、小さな声でそう呟く。忌々し気な口調だった。

「あの男の指示か? 王都であの男がまだ生きているとは、実に皮肉なものだ。彼奴きゃつのせいで皆死んだと言うのに。男も……女も……子供までも…………」

「あの男、とは? 崔偉さいい武官長のことか?」

 劉彗の言葉に、老人は僅かに表情らしきものを浮かべた。自嘲的、な笑みだった。目が笑っていない。相変わらずその瞳には空虚な闇が沈んでいる。

「崔偉、か。あれは、救いようのない。最低な男だ。あの男のせいで、多くの者がここで死んだ。残ったのは遺恨いこん憤懣ふんまん怨毒えんどく……そんな、弔うこともできぬ呪いの残渣ざんさばかり……」

「それは。後悔の気持ち、のことでしょうか?」

 莉恩はその言葉に思わず、劉彗の背後から身を乗り出すようにして問いかけていた。

 その言葉に、老人の表情が僅かにたじろぐ。真っ直ぐに見つめる莉恩の瞳から、苦し気に顔を背けると。その口から洩れたのはただ、吐き捨てるような呟きだった。

「後悔など、何の役にも立たぬ。本当に辛かったのは、殺された者達の方だ」

「ではなぜ、浅霞あさかは乱など起こした!」

 劉彗が鋭い声で切り返す。その言葉に反応するように、それまで死んだように虚ろだった老人の瞳に。

 突如、雷光のような閃光が走った。

 そのあまりの威圧感。これを、気迫と呼ぶのだろうか。勢いに押され、劉彗が一瞬たじろいだほどだ。

「浅霞はただ、過ちを正そうとしただけだ! この国の民が安穏と過ごしていられるのも、浅霞あってのことだということを忘れるな」

「それは、どういう……?」

 思いもよらない言葉に。劉彗が咄嗟に、呆気に取られたように肩の力を抜いた。その瞬間、沖から強く風が吹き付ける。つぶてのような飛沫しぶきが劉彗と莉恩の顔を強く打った。思わず顔を手で覆った二人が。その手を下ろした時には。

 老人は、二人の目の前から忽然と姿を消していた。

「逃げられたか」

 劉彗が舌打ちとともに吐き捨てる。莉恩は目の前で起こったことが信じられず、思わず自分の体を自分で抱きしめていた。

「ここって、大勢人が死んだ場所なんでしょ……? もしかして今の……」

 魂魄こんぱくの類では。そう言いかけて、言葉を呑み込む。仮にも官吏の末端に属する自分が、そんな絵空事を口にしてしまってよいものかと躊躇ためらったのだ。困惑する莉恩を尻目に、劉彗は心底呆れたような顔を向ける。

「お前、何言ってるんだ? 今のは明らかに生きてる人間だったろ」

 そうして周囲の岩に囲まれた岸壁を見渡す。

「この辺りは岩窟がんくつが多い。そのどれかに逃げ込んだんだろう」

「そ、う。なの……?」

「ああ、身を隠すには打ってつけの場所だな」

 苛々とした様子で、劉彗が周囲を見回している。ここは劉彗の出身地、華清府からほど近い。地元民なら知っている話、なのだろうか。莉恩は劉彗の言葉にようやく緊張を解いた。

『皆良く知っている』と老人は言っていた。彼にとって、この慰霊碑に刻まれた文字は死者を悼む鎮魂のためのものではない。この地でともに生き、笑い、言葉を交わし合った相手が。確かに生きていたという証なのだ……。

 劉彗は周囲を警戒しつつ、波打ち際まで出て沿岸の様子を見て回っている。岩の上を身軽に移動しながら周囲を散策し、暫くして戻ってくると莉恩の名を呼んだ。

「なあ。ここへ来る前俺は、夏朴が話し合いの為に浅霞あさかを呼び出したって話を鵜呑みにしてたんだが……」

 そうして足元の岩に目を落とす。波打ち際からその先へと、大小の濡れた岩がいくつも転がっている。

「思い出したんだ。この辺りは岩礁がんしょうだが、満月の日にはかなり水位が上がる。小船なら難なく岸に舟を着けられただろう。夏朴があの日、話し合いではなく。浅霞たちをどこかへ逃がそうと考えていたら……?」

 莉恩も劉彗の視線を追って周囲をぐるりと見渡す。ここは外からの視線が遮られ、身を隠す岩窟も多い。何度かの話し合いの末、ここへ浅霞たちを呼び出したという夏朴。

 そしてそれを騙し討ちのように一網打尽にした、崔偉軍。

「もし、それが本当だとしたら……」

 莉恩は湾に視線を向けたまま呟く。

「崔偉武官長は、一体誰の指示でそんなことを……?」

「乱の発端となった勅令に、玉璽ぎょくじを押した奴がいたろ」

 劉彗が忌々し気に吐き捨てる。莉恩は慰霊碑に目を向けた。

 老人の持ってきた大輪の菊の花が、台石だいせきに寄り添うようにして供えられている。その、花弁を。強い海風にあおられた波が、無遠慮に何度も洗った。


 次第に白波のはざまへと。引きずり込まれるようにして呑まれてゆく、白と黄色の花弁。莉恩はそれを、ただじっと見つめていた……。

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