第三章 第3話

 蝉の鳴き声がうるさい程の、盛夏。


 その日。

 短い休憩が終わって仕事場へ戻ると。

 莉恩りおんがいつも座っている席の傍に丸められた紙が落ちていた。


 莉恩は初め、隣の席で仕事をしていた劉彗りゅうすいが不要になった裏紙を丸めて捨てたのかと思った。だが劉彗は、口こそ悪いが仕事は人一倍きちんとこなす。少なくともこんな風に乱雑に物を扱うところを、莉恩は今まで一度も目にしたことはなかった。

 不審に思ってよく見れば。その紙は、普段業務で使用している記録簿専用の用紙ではなく、もっと特殊な……上品な薄紅色をした手漉てすき紙であることに気付いた。

 その場にそぐわない光景に。莉恩は落ちていたその紙を、そっと拾い上げる。

 手に取ってわかる。これはかなり上質な紙だ。まるで男性が、特別な女性に贈る恋文に使うような……。

 それがなぜか。ぐしゃぐしゃに握り潰され、床の上に放り出されていた。莉恩はその紙を破ってしまわないように細心の注意を払いながら、丁寧に皺を伸ばし広げる。

 紙面に書かれた文字を見た、その瞬間……。

 ――小さく、息を呑んだ。

 それは。

 莉恩宛の文だったからだ。


 慌てて差出人を確認する。

 そうして……言葉を失った。

 文の差出人は莉恩の幼馴染で、三年前に武官になるため郷里を発った漣壽れんじゅだったからだ。

 その文が、なぜか今。ぐしゃぐしゃに握り潰され、床の上に放り出されている。


 ――誰か、が。


 莉恩りおんに宛てた文だと知っていて、やったのだと。

 ……その意味に、気付いた瞬間。


 冷たい掌で心臓を鷲掴みにされたときのような悪寒が、全身に走った。



「なんだ、これ」

 不意に、莉恩の手の中から文が抜き取られた。

 はっとして顔を上げる。劉彗りゅうすいが少し遅れて部屋に戻って来たのだ。

 莉恩の手から取り上げたぐしゃぐしゃの手漉き紙にちらりと視線を落とした彼は。

 それから、蒼白な顔でその場に立ち尽くす莉恩に目を向けて。

 途端に、不機嫌に顔を歪ませる。

「これはなんだって、聞いてんだよ」

 それは、握り潰された文に対してか。

 それとも、文に記されている内容についてか。

 何も答えようとしない莉恩の心中を探るように。しばらくじっと、無言のままに莉恩りおんの顔を見下ろす劉彗の。その視線の強さに、いたたまれなくなり。

「……なんでも、ないの」

 莉恩はようやく、その一言を口にする。そうして文へと伸ばした莉恩の手を、劉彗はいとも容易たやすかわして避けた。

「なんでもないってのは、なんだ?」

 上級官吏の信書も扱うことのある信簡局しんかんきょく内で、信書の破損は良くて譴責けんせき。場合によっては懲戒処分になることもある。同じ作業を割り当てられていた劉彗もその責に連座させられる可能性があった。

 だからこその、明らかにこちらを責める強い口調。

 莉恩りおんは泣き出しそうになる直前の息苦しさを、必死に抑え込む。言葉はそれ以上、出てこなかった。

 ぎゅっ、と。上裳じょうしょうの胸元を握り締め。黙ったままの莉恩を見下ろして。

 劉彗りゅうすいの眉根が深く寄せられる。


「答えろ。『なんでもない』ってのは、一体。何に対しての言葉だ?」


 もう一度。

 今度はひどく低く、抑えた声で。

 劉彗がはっきりと問いかける。

 莉恩はきゅっと、唇を噛み締めた。それからゆっくりと、恐る恐る顔を持ち上げる。

 鋭い眼光で見下ろす劉彗の顔を見て一瞬怯えた。それから莉恩は、持てる限りの気力を以て込み上げる感情を無理矢理に押さえ込む。

「私、が。……悪い、の」

 莉恩りおんが人と、うまく関われないから。だからみんなに避けられ、嫌がらせをされている。

 そのことを十分に承知しているから。

 ――仕方のないこと、なのだと。

 諦めを含んだ莉恩の答えを聞いた、その瞬間。

 劉彗の瞳に一瞬宿ったのは……。

 怒りとも、侮蔑ぶべつとも違う。


 あの日。

 莉恩が縁談を受け入れると言ったあの日。

 父が見せた表情と、それは同じものだった。


「お前、は…………! っ、」

 咄嗟とっさに。激情に任せて何か言いかけた劉彗は。

 しかし、慌ててその言葉を抑え込んだ。

 目を閉じ。それから少し長く、息を吸い込んで。

 そうして何かの覚悟を決めたように。

 目を開き。

 莉恩を見る。

 ――静かに、真っ直ぐに。


「お前のそういう態度が。相手を一番苛つかせてるんだってことに。……お前いい加減、気付けよ」


 普段の威圧的な態度とは違う。

 激情を必死に抑え込んだ、劉彗のその声は。

 何故かひどく、苦し気だった。

 何も答えようとしない莉恩の顔を、しばらくの間じっと見下ろしていた劉彗は。

 不意に、全てを諦めたように。ふとわらった。

 それはひどく、酷薄こくはくな笑みだった。

「俺の言ってる意味が、まるでわかんねえって顔してるな」

 そうして劉彗りゅうすいはそれきり。まるでそれまでの会話の一切に興味を失ってしまったかのように。莉恩の顔を見ることもなく、ぐいと押し付けるようにして文を返して寄越す。

 ぐしゃぐしゃになった、薄紅の手漉き紙。

 意味もわからずにそれを受け取った莉恩にくるりと背を向けて。

 劉彗はそのまま、執務室を出て行ってしまった。


 劉彗の勢いに気圧されて何も言えないまま。呆然とその背中を見送った莉恩は……。

 手の中に残された文に、目を落とす。

 その紙面に記されているのは。

 漣壽らしく潔の良い。

 たった一篇のうただけだった。



     今まさに蝶へと羽化せむ麗しき

     其方そなたを支ふ我が若木の身



 莉恩りおんの口からふと。泣き笑いのような嗚咽おえつがひとつ、漏れる。

 ――なにを、想って。

 こんなときに。彼は、この詠を贈ってきてくれたのか。

 薄紅は。

 莉恩の、一番好きな色だ。



 結局その日、それきり劉彗は戻ってこなかった。

 劉彗が無断で離席した咎で三日間の謹慎処分になったのだと、莉恩が聞いたのは。

 翌日のことだ。

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