第三章 第2話

 斎国さいこく上位二官位までの官吏が参加し、この国の行く末を参加者の多数決で決定するその会の名を。

 斎国最高官吏閣議。略して、『国議こくぎ』と呼ぶ。

 国議には武官と文官の二系統があり、互いの業務が適正であるか常に監視しあっている。

 国儀の配下には六省あり、信簡局しんかんきょくはそのうちのひとつ、吏部省りぶしょうの管轄だ。吏部省は官吏の任免ひめんや進退を取り仕切る部門で、さらにその下に置かれた信簡局しんかんきょくでは、王都に勤務する官吏の全ての私信を検閲けんえつする責務を負っている。

 これには城内で見聞きした重要な情報が漏洩することの防止や、謀叛むほんの企みに対する牽制けんせいの意味があった。

 そう説明をしてくれたのは、戴士式たいししきのあと信簡局の案内をしてくれた志殷しいんだ。


 新人文官が覚えなければならないことは、莉恩りおんが想像していた以上に多かった。

 最下級の官位である莉恩たち新人武官に最初に任される仕事は、掃除や雑務が中心だ。それらの仕事をこなしながら、自分たちが配属された部署が日々どのような流れで業務を行っているのかを学ぶ。

 勤務の、初日から。いや。あの面接試験の日から、なのだろうか……。劉彗りゅうすいの、莉恩に対する態度は一向に変わる様子がなかった。

 彼は莉恩と顔を合わせれば不機嫌か仏頂面で、そのうえ常に居丈高に物を言う。

 出来れば一緒にはいたくはなかったが……。しかし劉彗と同期というだけで、莉恩は何かにつけて席を同じにされることが多かった。

 劉彗は体格が良く威圧感があるためか、同じ局に所属する先輩文官たちも嫌煙してなかなか近付こうとしてこない。

 思うように先輩風を吹かせられない彼らは代わりに、溜まった鬱憤うっぷんを莉恩に向けることにしたらしい。

 もし。莉恩がもっと、人付き合いがうまければ。

 もし。莉恩がもっと、愛想が良ければ。

 今の状況は何か、違っていたのだろうか。

 それは幼い頃から。ずっと、ずっと。何万回も、莉恩の心の中で繰り返されてきた問いだ。

 しかしどれだけ願ったところで、人はそう簡単には変われはしない。莉恩は十六歳になった今でも人との軋轢あつれきが苦手だし、幼い頃から集団に属したことがないために忖度そんたくや配慮も足りない。

 そんな莉恩には、ここでどう立ち回ることが正解なのか。

 それすらも、理解できずにいた。


 信簡局しんかんきょくで孤立している莉恩りおんに、唯一変わらず接してくれるのは。配属初日に案内してくれた志殷しいんだけだ。

 彼はいつもどこか他の同僚たちとは一線を画していた。他の局員たちのように莉恩へ対して露骨ろこつな態度を取ることもしないし、それどころか常に莉恩のことを気にかけくれる。

 志殷しいんとする他愛もない会話が、いまの莉恩には唯一心安らげるひとときとなっていた。


 その日も、人気ひとけのないのを見計らったように志殷に呼び止められた。

 ほんのひと時の立ち話。

 志殷はこうして時折人の居ないときを見計らっては、気さくに声をかけてくれる。これは人の目のある所で莉恩に話しかけると、他の局員が莉恩を批判する口実を作ることになるので彼なりに気遣ってくれているのだろうと。莉恩は志殷の心遣いに内心深く感謝している。

 入局しておよそ二ヶ月。

 盛夏のこの頃、莉恩たちはようやく信書類を開封することを許されたところだった。基本的に検閲けんえつは、信書の受け取り手と同程度の官位にある文官でなければ中をあらためることができない。莉恩たちが取り扱えるのは、下級官吏宛の信書類だ。

 記載内容を判断するところまでは許可されていないので、開封後は軽く中身を一読したうえで、特に気になる点がなければそのまま担当者ごとに振り分ける作業を行っている。

「仕事はだいぶ慣れましたか」

「あ、……あの。はい、……そうですね」

 志殷に穏やかに問われ。その仕事の内容を思い出した莉恩の表情は、思わず曇った。

 目敏い志殷はその様子に何かを察したのだろう。どこか得心した様子で、すぐに先輩らしい余裕をその顔に覗かせる。

「ああ、やはり。……恋文が、多いのでしょう?」

「……はい」

 莉恩は瞳を伏せ、ごく控えめに肯定の言葉を返した。

 城郭区内に勤務する官吏の殆どが男性だ。だが王都には王族や上級官吏の身の回りの世話を専門に行う、女官と呼ばれる職業が存在する。

 女官になれるのは選ばれた女性だけだ。見目麗しく、そのうえ高い教養と躾の行き届いた行儀作法を身に着けていなければならない。

 そんな女性たちが身近にいるのだから、王都の男性が目を奪われないはずはなかった。

 昔から王都を舞台にした読み物と言えば、恋物語が定番だ。

 だが、信簡局で働くようになり。その内情を目の当たりにしてわかったことが、ひとつある。

 莉恩には少しばかり、刺激の強い内容が多いのだ。

「そうですねえ。お若い方々の信書に恋文が多いのは、以前からのことですが……」

 志殷は相変わらず、こちらの意を汲むことがうまい。言葉少なに話した莉恩の雰囲気から、その心中を察してくれたのだろう。おっとりとした声音で、ごく自然に。莉恩の気を紛らわせるようにして、さり気なく話題の矛先を変えてくれた。

「最近の恋文の流行は、蘭蛉らんりょうのようですね。そういうのを流行はやうた、と呼ぶらしいですが」

「あの。恋文、に。……流行があるんですか?」

「ありますよ。特に蝶は以前から人気の題材ですが、蘭蛉らんりょうの素晴らしさはこのところ王都でも話題ですから」

 志殷の心遣いはうまくいった。少なくとも莉恩の気持ちはそれまでの仕事の不安から、一気に蝶の話に向いたからだ。

 蘭蛉らんりょうとは、斎国の最西を流れる瑞浪ずいろう大河たいが川縁かわべりにのみ生息する貴重な蝶の呼び名だ。

 非常に臆病おくびょうなので、滅多に人前に姿は現すことはない。

 蜻蛉かげろうのように薄い羽は、銀の鱗粉りんぷんまとい。満月の晩にそらを舞う銀翅ぎんしは、月明りを淡く反射する。その様はまるで月の光が揺蕩たゆたうが如く幻想的で、見る者全ての心を魅了するという……。


『ほら。莉恩のおかあさまが会いに来てくれたよ』

 伸ばされた指先に、銀翅ぎんしの蝶がたおやかに寄り添う。

 愛しい人が蝶の姿を借りて会いに来てくれたのだと。

 そう、教えてくれたのは……。


 ――この記憶は。一体、いつのものだろうか。


「まあ、城郭区ここは他に娯楽もないですし。その程度の楽しみがあっても良いのではないでしょうか。とはいえ、わたしにはまったく縁のない話ですが」

 冗談めかしてごく軽く言った志殷の言葉は、きっと。莉恩の不安を払拭ふっしょくしようとしてくれたものだ。

 そうして志殷は。「しかし」と、そこでひとつ言葉を区切る。人差し指を、莉恩の目の前に立てて見せ。

検閲けんえつに私情は無用ですよ。いま莉恩さんがおっしゃったお話など、わたしには返って新鮮に感じますが……。きっとすぐに、慣れるでしょう」

 志殷の言葉に、ようやく莉恩はこのところ張り詰めていた緊張をほんの少しだけ解くことができた。普段から気に掛けてくれる志殷に対し、少しばかり気を許していたこともあり。莉恩の口元には無意識のうちに笑みが浮かぶ。

 志殷と話をしていると、自分は一人きりではないのだと思うことができる。

 それが。

 今の莉恩にとっての、唯一の救いだった。

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