第47話 陰と陽
この喫茶店は一人でもよく訪れるので店主とは顔が馴染んでいた。ちょっと前に、店内から女子高生二人と突然行方不明になった件については、その後僕のパソコンを取りに来た道地君が警察手帳を見せて何か適当にごまかしたらしく、特に不思議がられるようなことも無かった。
それにしても、木戸の方から札幌へやってくるとは……。
僕は、彼女からのメールが届いた午後を思い出した。件名は「木戸です」というものだったが、僕はパッと見てそれが他の迷惑メールとの違いが分からなかった。そういう類いのメールは山と着信しているのだ。それに「木戸」という苗字の漢字も、検討は付いていたとはいえ改めて提示されるとあの<伝道師>とイメージが結びつくまで一呼吸が必要だったんだ。それに、彼女が僕の持っているメールアドレスをどうやって特定できる?
だが、僕はそれが出来ることに気が付いたのだった。<留巌村>にはインターネットの環境が整備されていたようだし、<伝道師>である木戸が<ミトリさま>の掲示板を見ていない筈が無い。加えて、僕が及坂と出会った経緯については木戸の目の前で喋っていたのだ。彼女からすれば、ログを遡るまでも無くダークウェブの掲示板で連絡先を曝すような変人のことが印象に残っていたんだろう……。
そして、そうと分かってからは「木戸です」という簡素な件名に妙な圧迫感を感じたものだ。内容などはあってないようなもので、「お話があります。直接会えませんか」というものだった。それから数度のやり取りをして――今日。この喫茶店に木戸が現れる。
約束の時刻を過ぎても、木戸は中々現れなかった――机の上でPCを開いてはいるが、出入り口に現れる筈の彼女が気がかりで仕事の連絡も手が付かない。僕は怖がっているのだろうか? ふとトイレでも済ませておこうと席を立って、用を済ませて戻ると店内に彼女がいた。
誓って言うが、僕は人の人相の覚えが悪いわけではない。
しかし、僕はそれが木戸だと気が付かなかった。あまりにも人相が変わりすぎていたのだ。前に会ったときは小綺麗で、どことなくオーガニックな雰囲気を湛えていた彼女が、今では痩せさらばえ、髪は所々白みがかっている。唇はカサカサに乾燥し、目は落ち窪み、頬が痩けている――それが木戸だと分かったのは、彼女があの少年と手を繋いでいたからなのだった。
「……木戸さん!?」
僕が驚いて声を掛けると、うすらと笑って「お久しぶりですわ」と答える。やはり彼女は木戸なのだ!
ひとまず、彼女と少年を向かいのソファに座らせて僕は言った。
「どうしたんですか。一体何が……何かあったんですか?」
木戸は鼻を鳴らして、自分のささくれだった指先を見た。店員が怪訝な顔をしながらも彼女たちの飲み物を運んでくる。木戸はアイスティー。少年はメロンクリームソーダで、初めはソーダに浮かんだアイスを不思議そうにスプーンで沈めて遊んでいたものの、すくい取って口に入れるとその年頃らしいホッとした笑顔を見せた。
「私のことなら気にしないで下さい。――最近、悪い夢を見るんです」
「悪い夢、ですか」
「ええ。他人の夢の話ほどつまらないものは無いでしょう? それより話というのは<ミトリさま>のことです」木戸はアイスティーには一口も付けないまま本題に入った。「……一体何をしたんです?」
「何をした、とは?」
「惚けないでください。あなた方が札幌に帰ってしばらくしてから、明らかに<ミトリさま>は変質してしまった――もっと言いましょうか? <ミトリさま>の呪殺がパタリと止んでしまったのです」
「そうですか」
僕はホッと溜息を吐いて頷いた。やはり、<ミトリさま>の呪殺は止まっていたのだ。僕の計画は上手くいった、ということだ。
……あとで、及坂に連絡してあげよう。札幌で別れる際に、偽物ではない本物の連絡先を僕らは交換している。
「……ちなみに、木戸さんは僕がやったことについてどう考えているんですか?」
木戸は痩せ細った顔に怪訝な影を落とした。
「いえ、別にただの好奇心ですがね」僕はコーヒーに一口付けて続けた。「僕が考えた<ミトリさま>の攻略法は、僕にすれば唯一無二のものです。……が、<伝道師>であるあなたなら、あの夜の態度はどうあれ<ミトリさま>を止める方法は幾つか心当たりがあったのではないかと思うんですよ――どうなんです?」
「前にも言ったとおり、<ミトリさま>を止める方法はありません」
「本当に?」
「……」木戸はしばし少年がクリームを突く様子を眺めた後語り始めた。「<ミトリさま>はブロックチェーンをモデルとしたネットワークです。非改竄性、信頼性、分散性。それらメリットと言える特徴を備えています。ですが、だからこそ……そのメリットの裏にある課題も備えている――と考えられる」
「そうですよ」僕はノートパソコンを閉じて言った。「そもそも、この世界にはまだ完全なネットワークなんてものはありゃしないんです。光が有れば影が有るように、メリットの裏にはデメリットがある。例えば、責任を分散する、ということはそこに問題を解決する管理者が存在しないことを意味します。それに、電気代です……<ミトリさま>の文脈で言えば、一人あたりに掛かる処理負担とでも言いましょうか。これはこの間の及坂さんの様子を見た僕の勝手な想像なんですが、やっぱり、能戸たちは皆疲れているのではないかと思うんですよ。当然のことです……マイニングに使用したGPUは、通常の使用より寿命が早まりますからね」
「……処理負担についてはどうでしょう。人間は電子機器ではないのですから。自分で栄養を補給し、休みもするんです」
「それにしても、ですよ。……あなたもお気づきなんでしょう。一人が負担できる処理は無限では無いんです。だから、原則的に<ミトリさま>は増え続けなければならないんです。そうでなければ、やがてネットワークの全てのノードは疲弊して無力化してしまう。……寿命が訪れるんです」
「……」木戸は返す言葉が無いようで、ヘラヘラと笑い出した。以前の彼女であればそれはまだ嘲笑的に見えたのかも知れないが、痩せ細った今の彼女に張り付いた作り物の笑顔は哀れだとすら思わせるような痛ましさだった。「ですが、<ミトリさま>は死んでいない……!」
「勿論、僕としては<ミトリさま>が静かに死ぬのを待っている程悠長にしたつもりはありませんがね」
「じゃあどうして……!」
「51%攻撃ですよ」
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