五月十一日 朝刻(1)
「この世界は、まだ完成されてないわ」
洲上エリの口から出たその言葉に俺は救われたような気がした。
――五分前
いつもどおりの通学路をいつもと違う顔で登る。疎水を渡り、急な坂道に差し掛かると生徒の数も増え始め、俺は肌をソワソワさせ始める。大仏……いや、昨日の千聖の言葉を借りれば「菩薩」、がまばらながらも列を組むその流れは学校まで続いていく。
『そのお顔は菩薩様です』千聖の言った言葉が未だに胸にわだかまる。俺は菩薩なんかじゃない。俺は俺だ。そう心に言い聞かせて鏡を見ても、映る現実は冷たいもののままなのだ。千聖は何か知っているのか。そんな思案が脳に過ぎったが、ことの原因を押し付けているようで、そんな自分が無責任に思えてしまうのだった。
そんなことを考えていた時のこと、突然だった。
洲上エリ。
俺ははっきりその姿を見た。一瞬で識別できた。その【顔】があったからだ。
気がついたときには、足は速めいていた。メイド服に身を包む洲上エリ。同じクラスの名簿番号は十番代。席替えのときは決まって窓際の席を引く洲上エリ。物憂げな様子でいつも小難しそうな小説を読んでいる洲上エリ。
彼女の後ろから、もう一人、彼女を追いかける女を見つけた。誰かはわからない。しかしそのスタイルと焦燥具合からして昨日の千聖と見て間違いないだろう。
千聖は洲上を捕まえると間もなく横道の方に引っ張っていった。俺も追ってそこに入る。こうして今に至る。
路上で洲上の背中越しに放った言葉を俺は確かに聞いた。
「この世界は、まだ完成されてないわ」
悪魔の美貌とまで男子から形容されるその顔つきは、今の俺にとっては天使に見えたのかも知れない。世の貴賤の一切を拒絶する身なりをはらりと翻し、千聖を横目に軽やかに歩みを始める。
「待ってよエリちゃん」
千聖が洲上を呼び止める。
「エリちゃんは何か知っているの?」
「私が知っているのは元の世界に戻る方法だけ。私の教えることができるのはそれぐらいよ」
気持ちが高揚する。帰れるというのか、元の世界に。千聖が俺に気づく様子はない。しかし洲上は俺に気づいたのか、歩みを止めた。
「どうしたの、宇陀くん?」
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