五月十日 夕刻(2)
宇陀彰。私はその名前を知っている。同校サッカー部2年のエース。成績優秀文武両道、容姿端麗の完全無欠の先輩である。その存在が私の目の前にいる。
「茅吹さん、でいいかな。はじめまして」
これは彼にとってきっと何かの天罰なのだろう。私は今ここに来てこの世界の残酷さに気付かされた。前の世界の記憶を持ったまま、……それも優れた顔を持っていたという記憶を持ったままこの世界に来た人間の感情。ここは彼にとって存在の感情、アイデンティティの欠落した創世期以前の宇宙よりも遥かに無情な現実かも知れない。
「俺たち以外、誰も気づいていないんだよな。顔がなくなったことに」
大きな間を置き、「なくなっては、ないんじゃないですか」と紙の掠れるような声でつぶやいた。
「そう……かな」
私の気まずさを察知してか先輩の足は私から遠ざかる。離れるべき運命なのだ。交わってはいけない。これは私に対する制裁なのだ。深く考えず、私だけが良ければそれでいい良いという傲慢さを私に気づかせるがためだけにある
そんな期待を先輩は亡きものにした。足を止めて振り返る。
「あのさ、少し話さない?」
____________________________________
暮れなずむ街の坂道を私は先輩と下った。気障な男は苦手だが、ことこの先輩に関して言えば、嫌な感じは一切ない。体は痩せ痩せとしていながら、しっかり筋肉もあって……下らない観察は止めておく。
顔のあった頃の先輩の姿を思い出した。人気のボーイズグループにいそうな顔、としか形容できない。しかし今となっては私のせいで、その端正なお顔は綺麗な菩薩にされてしまっている。
申し訳ない気持ちはあった。謝りたい気持ちもあった。でも口に出すことは出来なかった。それは先輩を男として意識していたからではない……と思う。嫌われたくないという感情の前に、私のしたことが間違っていたと認めかねている自分の存在があったからだと感じている。
サラサラと流れる初夏の疎水を渡る。にわかに先輩が切り出した。
「俺のこと、大仏に見える?」
「先輩の言う大仏が何を指しているのかわからないですが、そのお顔は菩薩様です」
先輩はキョトンと目をまんまるにしたかと思うと、間を開けて吹き出した。
西山に沈みゆく夕日を受けた優しい顔容が私の心を和ませた。笑ってもらえると、嬉しく感じるものだ。
「そっか、菩薩サマか。なんでもいいや。俺も茅吹さんのことは菩薩サマに見えてるよ」
「言われなくてもわかります」
すましたようなことしか言えないのは私の欠点だ。動じることなく、先輩は続けた。
「俺、正直すごい安心してるんだ。茅吹さんみたいに俺と同じ境遇にいる人がいるってわかったから。朝起きて、鏡を見たらこんな顔になってたときは、もうどうしようもないと思ったよ」
どうしようもないのは私の方だ。
「でもこの世界、他にも所々おかしいんだ」
「服のことですか?」
「もっと根本的なところだよ。例えば……そう、洗顔剤だ。俺、洗面台に確かに洗顔剤があるのを見たんだよ。この頭じゃ使い物にならないだろう。朝、テレビで見た芸能人は化粧もしていなかったし」
「別にこの顔でも美容に気を使うことくらいあるんじゃないでしょうか。私も来たばっかりなんでよくわかりませんけど」
「うーん、それじゃあ制服。個性を出す場が基本的に服装しかないなら、どうして制服なんかあるんだ?ただでさえ人の判別は難しいのに」
「識別することが必要でない機会だってありますよね。全校集会なんかであのコスプレ大会が広げられると少しは迷惑なんだと思いますよ」
我ながら立派な
「それなら……ああ、ワックス、ワックスだよ。この髪でどうワックスなんか使うんだよ」
それは……私はこちらの世界にワックスが存在していることを知らなかった。一枚取られた。
「面白いな。千聖って」
はにかみながらの急な呼び捨てが不思議な情をフワリと湧かせた。
『茅吹さん』
不意に後ろから呼ばれた気がした。黒水通りという大通りにもう少しで差し掛かるというところだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます