別離
ロンバルディア教国第65代女王マリエッタの直接の死因は、心臓病であったとされる。
彼女はその死の数年前からしきりと胸痛を訴え、宮廷医の記録によれば頻脈性の不整脈が確認されたとある。心臓を病んでいた要因としては、まずは栄養の極端な偏りによる糖尿病であり、いまひとつは反抗的な貴族家との断続的な争いからくる強度のストレスであろうと言われている。
後者に関しては、特にカロリーナ王女の実家であるトスカニーニ侯爵家や、義妹のマルチーヌの婚姻先であるトルドー侯爵家、さらにそれらと血縁関係にある貴族家との折衝に手を焼く日々が長く続いた。
マリエッタ女王の治世において、後世に残るような有意な治績がほとんど見られないのは、マリエッタ自身があまり政治に関心がないこともあるが、貴族家との対立によって身動きがとれなかったためという説もある。むしろ15年以上にわたりそのような状態で国を運営できたことが、教国官僚団の優秀さを示しているとも言えよう。
またその晩年においては、隣国のレガリア帝国との外交関係に不穏なものがあり、これらの要素が、マリエッタに過度な心労をもたらしていたと見てよさそうである。
さらには、エリン女官長の病死やブランシュ近衛兵団長の退任などもあり、心の
マリエッタの死期が近いことは、内情として官僚団や貴族家にも伝わり、その頃から各貴族間の連絡が目立って増えた。特にその死の数ヶ月ほど前から、体力も衰えしばしば
彼らには第二王女カロリーナという掲げるべき旗印がある。仮に第一王女であるプリンセス・エスメラルダが王位継承手続きに入ったとしても、彼ら大貴族の力を結集すれば、これを阻止あるいは排除することができるかもしれない。
そうした陰謀が同時進行しつつ、マリエッタの予後は悪い。ミネルヴァ暦1394年も5月に入ると、ついにベッドから起き上がることすらできなくなった。彼女の心臓は、まさに力尽きようとしている。
彼女の心残りは、プリンセスのことだけであった。能力にも人徳にも恵まれないながら、運の巡り合わせで女王になった。たまさかエスメラルダ少女と出会い、これを第一王女とした。死を間際にして、彼女が絶え間なく涙を流してまで心配したのは、プリンセスが女王として国を保ち、幸福に生涯を送れるであろうか、その点のみであった。
マリエッタは、枕元に枢密院議長のマルケス侯爵を呼び、プリンセスの後見を託した。
「何卒、プリンセスをよしなに」
マルケス議長はプリンセスの政治学の師であり、プリンセスの資質を買っているとともに、個人的にも親しい。教国官僚団の長者として、間違いなくプリンセスを強力に補佐してくれるであろう。
続いて、枢密院副議長のフェレイラ子爵、神官長のジルベルタ女史ら文官の長、さらに軍の重鎮たちも
「よしなに、よしなに」
ただただ、そればかりを繰り返すのみであった。
マリエッタがこれほど痛切に願うのも、本来であればこの場に呼ぶべき三人の重要人物がいないからである。
第二王女カロリーナ
第三王女コンスタンサ
トルドー侯爵夫人マルチーヌ
彼女らはそれぞれの領地あるいは実家に帰省したまま、マリエッタの重病を聞いても駆けつけようとしない。カロリーナとコンスタンサは彼女の養女であり、マルチーヌは義妹である。マリエッタが病で危篤にあるとなれば、何をおいてもこの場に参上するべきであろう。
が、現実は姿が見えず、王宮から離れた地方で静まり返っている。
最大の気がかりはこの三人であった。もしも三人がマリエッタの死後、結束してプリンセスに対抗したら、新政権は転覆しかねない。カロリーナのプリンセス嫌いは例の贈答馬の扱いをめぐって争いが生じて以来、いよいよ激しくなっており、マルチーヌも利己的な目的で叛乱を
彼女らがその影響下にある貴族を結集すれば、その私兵集団は無視できない規模となる。教国の直属軍からも離反者が出るかもしれない。
だからこそ、マリエッタはくどいほど政府や軍の高官らに懇願した。
「プリンセスを何卒、よしなに」
と。
女王位は、生前に退位手続きを済ませられない場合、最終的には枢密院の最重要閣僚である議長、副議長、神官長の合議によって決まる。彼らには特に念入りに後を託した。
すべての布石を打って、マリエッタはようやく安心し、最後にプリンセスを呼んだ。部屋にはその死を見届けるため、宮廷医長のベルッチと、マルガリータ女官長、そして今や近衛兵団長にまで累進したエミリアが残っている。
「プリンセス、母はもうあなたとは生きられない」
「母上、母上」
もはやベッドから起き上がることすらできなくなった母を前に、プリンセスはかつてないほど悲痛な涙で頬を濡らしていた。
プリンセスにとってマリエッタは、確かに血のつながりのない養母ではあるが、人生の三分の二を母であり娘として過ごしてきただけに、実の母以上の存在である。それが亡くなるとなれば、彼女の半身をもがれるような思いなのであろう。彼女を貧しい孤児院から拾い上げ、王宮に住まわせ、この国で最も高貴な存在にしてくれたのは、今まさに命尽きようとしている母なのである。しかもその道程は、必ずしも平坦ではなかった。官僚の反対や貴族の反発を力ずくではねのけてくれて、ようやく
マリエッタにとってのプリンセスとは、もはや言及するまでもないであろう。
「エスメラルダ」
マリエッタは、その生涯の最後、彼女の愛を独占した美しきプリンセスの名を呼んだ。その目は、初めて出会った日と同じ栗色の瞳を持っていて、それが最前からとめどなく涙をあふれさせている。手を握ってくれているが、末端の神経が死滅しているのか、それとも神経からの情報を知覚する脳の死が近いのか、指先にはもうほとんど何も感じられない。
娘に対し、遺言を伝える必要がある。
「エスメラルダ、次の女王はあなたです。何事も、あなたの思うとおりにやりなさい。あなたなら、余よりも、ほかの誰よりも、立派に女王が務まるでしょう」
「母上、私には務まりません」
「いいえ、必ずや務まる。あなたが余の申し出を受けてくださったあの日、あなたは自分に王女が務まるかどうかを考えた。以来、余も、余自身に女王が務まっているかどうかを考えていた。余には務まらなかった。しかしあなたは余よりも聡明であり、余よりも強く、余よりも心が清い。あなた以外に、女王が務まる者はいないでしょう」
「母上、私は母上なくして、どう生きていけばいいのか分かりません」
「迷いかけたときは、臣下に
「肝に銘じます」
ぐっ、とプリンセスは母の手を握る掌に力を込めた。マリエッタにはようやく娘の手の感触を知ることができて、力なくも微笑んだ。小さくかすれた声だけがゆっくりと出た。
「余は幸せだった。ただただ、あなたに出会えて、ともに過ごすことができて」
「私も、母上と過ごした時間を決して忘れません。あと一年、いえ一ヶ月でも、母上とともに過ごすことができたらと。私は何も孝行して差し上げられませんでした」
「孝行ならばもう充分だ。あなたは、余のためにドレスを編んでくれた。余のために花を贈り、余のために……」
声が途切れ、遺言を記すマルガリータ女官長の速記が止まった。プリンセスが何度か呼びかけ、病気のため別人のようにしぼんだ体を揺さぶったが、反応はない。ベルッチ宮廷医長が脈をとって、静かに女王の
しばらく、プリンセスの子供のような泣き声だけが部屋に満ちた。
やがて、エミリアが近衛兵団長としての儀礼に従って告げた。
「プリンセス、これより第一王女であるあなたを、次期女王として近衛兵団の最優先警護下に置きます。また枢密院の閣老方には女王陛下逝去のむねを通告して王位継承手続きに入り、国葬及び
息の詰まるような、沈痛で重い時間が流れた。エミリアがさらに声をかけようとして、プリンセスは涙をぬぐいつつ立ち上がった。その後ろ姿には、王位を継ぐ者としての高貴な覚悟と勇敢な決意とがにじんでいる。
ミネルヴァ暦1394年5月20日、ロンバルディア教国第65代女王マリエッタ
生前、その統治は大貴族との度重なる衝突に悩まされたが、次代エスメラルダの王位継承までの間に勃発した大規模な内戦の過程で、旧勢力が一掃され、以降、エスメラルダ女王による親政が幕開きを迎えることとなる。マリエッタ女王が意図せず生み出した大貴族家との激しい対立は、結果としてそれら勢力を根こそぎ消滅させることにつながり、教国史における最良最高の治世とされるエスメラルダ女王時代の
ひとつの時代が終わり、新たな時代が始まる。歴史とはただ、その連続である。
ここで語った一連の物語も、その歴史の脈々たる流れのなかの、ほんのささやかな一群にすぎない。
平凡な女王が、奇跡のプリンセスを迎え、そして新たな時代が訪れる。
プリンセス誕生【ミネルヴァ大陸戦記外伝】 一条 千種 @chigusa_1
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