帰省

宮城咲都

第1話 暁闇

4月10日


朝起きると、いつも起きる時間よりも1時間早く起きてしまったことに気づく。

 時間は午前5時0分で、外はまだ薄く暗く、それでも水平線は淡い赤に彩られている。

 4月の早朝は思ったより肌寒く、早々にクローゼットにかけてあるパーカーを羽織り、コーヒーを用意しにキッチンへ足を運ぶ。

 コンセントにつないだ電気ポットが悠々と”ウォンー……”という微妙な唸りを上げるにつれ、先ほどまで暗かった空も徐々に本来の青色を取り戻しつつあった。

 時間は5時30分、余裕を持った朝食は非日常なほど優雅で、朝の寝覚めの悪さを凌駕するほど心地い気持ちで横溢していた。

 鷹揚と進む時間をよそに、いつも通り高速で朝の支度を終える。無意味に身支度急いたところで待っているのは空虚な時間だけが待っているとも知らずに。

 未曾有のウイルス騒ぎで、マスクをつけることを余儀なくされた彼女(以外サヤカ)は、大学へ行くにも基本的にノーメイクだった。倫理的に、『女子大学生はメイクをすべき!』という通例に縛られることなく生活できるのも、この未曾有の大災害のもたらした唯一の恩恵なのだろうか……。

【黙食】、【過度な間隔取り】、【遠隔授業】の積み重ねにより人前で話すこともとうに珍事と化しているサヤカにとって、最早マスクを外して生活する日々を想像することは容易くなかった。

自らの顔のサイズに合わない大きめのマスクをはめ、部屋の電気を消す。薄紫色の光線が窓から差し込み、幻想的なリビングを背に、玄関のノブをひねる。

外へ出ると家にいた時よりも寒いことを察したは、再び寝起きに羽織ったパーカーを取りに戻る。幻想的な紫を浴びたパーカーは、それだけでInstagramによく映えるなどと邪な思考を巡らせていた。あの紫を再び拝むことのできた満足感に背中を押されるように、2度目の外出を遂げる。

サヤカもまた、私服にこのパーカーが似合うということを自覚している。

 

 サヤカは早々に最寄りの駅に到着するが、学生も社会人も誰一人おらず、それがいつもの日常と相変わらない一日であることに安堵する。

 それもそのはず、サヤカは敢えて通勤ラッシュを避けるように6時半の電車に乗るようにしている。しかし今日に限っては、例の無意味な早起きが起因となり、人もいない寂しさも相まって肌寒さを極めんとしていた。

 30分早く電車に乗り込んだにも関わらず、今日の電車は一番乗りであった。妙な優越感にとらわれ、思わずかばんを席の横に置き一人で二人分の席取る。これも早く起きた人間の特権と妙に意気込み、電車の上で足を組んで要らぬ虚勢を張る。

 そんなことをしている間に、自分の乗っている電車は徐々に前進する。サヤカの通う学校は自宅から約30分のところに位置し、いつもは好きな小説や英単語を目で追いながらいつの間にか寝落ちしているというものであったが、今日だけは違った。

 この時期は通学路の桜の花びらもほぼほぼ散り終わり、電車窓から覗くことが出来るのは桜吹雪……、ではなく桜絨毯の様である。その散った桜の花びらが一斉に下流に流され、在原業平の著した竜田川さながらの桃色であったからだ。(あの詩では唐紅であるが)

 そんな神代も聞かない光景にサヤカはうっとりと顔面を綻ばせて悦に浸る。こんな体験をまじまじと独り占めが出来るのも、この疑似貸し切り電車ならではのことだ。

 開いた本をそっちのけで、柄にも合わず窓を開けて身を乗り出す。時折こちら側に入ってくる桜の花びらが、毛先だけ染めたサクラ色の髪とこれまでにない調和を醸し出していた。

ここにいるのがサヤカではなく他の誰であっても、これを綺麗と言わずしてなんといえるだろう。

 そんな光景も刹那、辺り一面は高層ビルに囲まれた開発都市に姿を変容させ、サヤカの下宿先から望める景色とは正反対のそれが広がっていた。

 度重なる都市化とドーナツ化により、サヤカの下宿先は急速な過疎化と高齢化を極めていた。そこから大学に行くにはどうしても大都市に何時間も掛けて行かざるを得ないのであった。

 とうに覗かなくなった本を膝の上に置き、イヤホンをつけて睡眠の態勢に入る。ここから電車内の人の出入りがさらに激しくなるだろうと思ってのことだ。

 予想も的中し、学校まであと10分という所で、急に賑やかになったと思うと同時に、人が我をも忘れて狭い入口に向かって殺到する。

 席に座れなくとも……、せめてつり革だけでも握りたい……という欲望が表皮に現れた結果だった。

 異形の音も光景も、サヤカの塞がれた耳目には到底侵入できようもない。


 彼女は既に、夢の世界へと誘われているのだから。

                            

                            【完】

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