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静寂。この中にしか、存在しないものがある。どうしても、それが欲しかった。
この静かな湖面を、画面上のなだらかな線の上を。音が。跳ねていく。
クラブ。
ありがちな、夜の光景。
ひと。そう。この街のひとは、乗りがわるい。良い意味で。
「おいっ。じじばばみてぇな盛り上がりだなぁおいっ」
言い得て妙だった。じじばばっぽい。ゆっくりとしていて、穏やか。急いでいるものが、何もない。
それでも、音は跳ねていく。上がっていく。
この街に、クラブを作るのが、自分の夢だった。
金額的なものは、既にクリアしている。これでも、都会のフェスやナイトパーティでは人気のプレイヤーをしていた。客の要望に合わせて、安っぽいジャズを高級なナイトコアに仕上げたりもする。機材も、借り物で。道具は選ばない。いつか、自分の手で欲しい機材をさわるまでは。
「よぉ。いい音楽じゃねぇか」
さっきから、馴れ馴れしい奴。ここのクラブのオーナーだろうか。
あまり気にせず、音楽のレベルを上げていく。そろそろ、弾けてもいい、頃合い。
「おっ」
馴れ馴れしい奴。肩を叩いてくる。
ディスクをさわってる人間に、ふれるんじゃねぇ。
「見てみろよ」
指差された、先。
ひとが、少なめの。フロアの端。
踊る、女がいる。
いや。
跳ねているのか。
ちょっとだけ、跳ねて。
ふわっと、着地して。
また跳ねる。今度は、ほんのすこし、長く。
「バレエかな?」
違う。跳ねているだけ。それに、音楽が乗っていて、踊りに見えるだけ。コンテンポラリーでもない。どちらかというと、パルクールのような。跳ぶことそのものに、意味があるような。そんな感じ。
それが、彼女との出逢いで。
長くて短い夜の、始まりだった。
「抜け出してきたの。ホスピス」
彼女。
こちらが喋れないことを、気にするふうでもない。
「あれ。なんていうの。曲。たのしかった」
手元の端末で、同じものをかける。
「あれ。こんな曲だっけ?」
流れに乗らなければ、同じ感覚は得られない。
別な曲をかける。
そして、そこから更に別な曲。
そして、最後に、同じ曲。
「すごい。なんか、こう、ぜんぜん違う」
耳をだましてるのと同じ。
「すごいね。すごい」
心からの、驚き、なのだろうか。楽しそうにしている。
こんなに、楽しそうなのに。
「うん?」
彼女。こちらの視線に気付く。
「うん。もうすぐしぬよ。わたし」
しぬ。その響きだけが、どこか浮いている。
「心がね。ちょっと、だめで」
心。
「でも。なんか。今日跳ねてて。しんでもいいかなって。思っちゃっ、た」
ちょっとつまづく。そして、少し黙る。どうやら、喋る言葉を探しているらしい。
「心がね。すりへっちゃってて。なんかね。よく分かんないの。分かんなくて。しにたいのかそうじゃないのか、分かんないまま、わたしは、しのうとしてて」
また、静かになる。言葉を探す彼女は、真摯な感じだった。音楽をかけたかったけど、邪魔をしそうで。やめた。
「今日の曲。聴いて。跳ねてて。たのしかった。しんだら、ずっと。跳ねられるのかなって。ちょっとだけ思った」
彼女の頬を。
涙が。
ひとすじだけ、流れていった。
「ありがとう。たのしかった。今度会ったら、また色々。曲、聴かせてね」
跳ね立ち上がる。彼女。生きている。そして、もう、次は。
「あ、そうだ。次会うときは。声も聴きたいな」
手を振って、走り去っていく。
もう、次はないだろうに。
「変性同一人格衝突」
「私が勝手につけた名前だけどね。彼女の心を、壊しているものの元凶だよ」
オーナーみたいな奴。さっきまで彼女がいたところに、ゆっくり、座る。音も立てずに。
「同じ人格が、ふたつある。そして、それぞれが、それぞれを主張している。要するに、同一人格の二重人格みたいなもんだよ。思春期って言ったほうが近いかな」
彼女は、普通だった。
「ただ、常に心が半分ずつ、引き裂かれ続ける。耐えられるはずのない、人格衝突のなかで、彼女はここまで生きた。すごい子だよ」
そして、自分の曲が。とどめを刺した。
「おい」
端末に。文字を打って。見せる。いつぶりだろうか、こうやって人にアクションをとるのは。
「いくらかかるって、そんな」
ちょっと、考え込む。
「ちょうど、あんたの建てようとしてたクラブぐらいだよ。立地含めてね」
送金画面を出した。
「おい」
有無は言わせない。
彼女がしんだのは、次の日だった。
声が、出るようになった。歌うのはまだむずかしいけど、普段の会話なら、短い言葉でなんとかなる。一度も動いことのない声帯が、彼女がいなくなってから、急に動いた。
「あ、はい。じゃあ。それは。明後日にでも」
この街に、住もうと思った。すぐにそこそこの物件を紹介してもらって、クラブの営業許可もとった。もともと話は通してあったのと、あのオーナーみたいな馴れ馴れしい奴の口利き。
自分のクラブに使うものは、もう、ない。そして、彼女も、いない。
それでも、この街に住んでいようと、思った。思ってしまった。
「分かりました。すぐに。送ります。では」
用意しておいたミックスを、沿革で流す準備。この街に、少しでも、長くいたい。彼女のいた、この、街に。
「おはよ」
彼女が、部屋に来た。
夢だと、思った。
「しんだのはわたし。いきてるのもわたし」
どうやら、人格を2つに分けて2つの体にいれたらしい。そして、片方はすぐしんだ。
「あなたの声になったのかな」
そう言って、ちょっと笑った。
「クラブのほうのやつは、ちょっと待っててね。なんか、わたしで試した治療方法を製薬会社だかどこだかに売るんだって。10倍になって帰ってくるみたいだよ?」
それを聴いて、今度は私が笑った。
「いい声」
「どこが」
かすれた声。声帯のゲインのマックスすら、まだ分からない。
「ねぇ」
「うん」
「あなたのクラブで、跳ねさせて。あなたのかける曲の中で、わたしは生きていたい。跳んでいたい」
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