黒猫とカルピス

田中

第1話

 遠い昔、あれはまだ私が自転車に乗ることが出来なかった頃。

 季節は夏の盛り。空は青く高く入道雲が白く輝いていたのをよく覚えている。


 その日、友人たちは親に連れられ帰省していたので、私は一人暇を持て余していた。

 昼食を終え家から飛び出してみたものの、周囲に人の姿は無くこの世界に私一人しかいないような錯覚を覚えた。

 無論、そんな筈も無く、炎天下の住宅街でわざわざ外に出るような大人はいなかっただけだったのだろうが。


 そんな訳で私は探検気分で家の周囲の散策に出かけた。

 頭には麦藁帽、肩からは冷えたカルピスの入った水筒、地面に落ちた枝を片手に無人の街を練り歩く。


 そんな風に入ったことのない路地を網羅しているうち、私は本当に自分がどこにいるのか分からなくなってしまっていた。


「ここ、どこ……?」


 道を聞こうにも前にも後ろにも人影は無く陽炎が揺らめいているだけだ。

 今思えば、インターホンを押して助け求めればよかったのだろうが、元来、臆病な私にはインターホンを押す勇気はなかった。

 もし押して出てきた人が怖い人だったらどうしよう。そう思うと押すに押せなかったのだ。


 仕方なく見知った場所に出ないかと一人あゆみを進める。

 やがて私は住宅街には似つかわしくない古びた神社へと辿り着いた。

 境内には木々が生い茂り、伸びた枝葉が降り注ぐ陽光を遮り木陰を作っている。

 その木の下にベンチを見つけた私は、一も二もなく駆け出し火照った体を休めるためベンチに腰掛けた。

 手にした枝をベンチに置いて、水筒の蓋にカルピスを注ぐ。


「んぐんぐ……ぷはーッ……」


 水筒に入れた氷で薄まったカルピスは、太陽の熱で炙られた体に染み込むように感じられた。


「にゃーん」


 声に目をやれば、いつの間にか私が座ったベンチに一匹の黒猫が座っていた。

 猫は私が手にした水筒の蓋をじっと見つめている。


「何、猫ちゃんもカルピスが欲しいの?」

「にゃーん」

「うーん、でも猫はジュースなんて飲んじゃダメなんじゃないの?」


 はっきりとは覚えていないが、人間の食べ物は動物には味が濃すぎると家族の誰かが言っていた気がする。

 いや、あれはテレビで見たのだったか。


 私はダメだよと猫に告げたが、黒猫は喉が渇いていたのか逃げることも無く、水筒を見つめ何度も鳴いた。

 やがて根負けした私は水筒の蓋に半分ぐらいカルピスを注ぎ、猫の前に置いてやった。

 黒猫は置かれた蓋と私の顔に交互に目を向け、まるで飲んでもいいの? と尋ねるような仕草を見せた。


「飲んでもいいよ。でも沢山飲むと体に良くないから少しだけね」

「にゃーん」


 ありがとう。目を細め鳴いた猫の顔がそんな事を言っている様に思え、私もつられて笑顔になる。

 ベンチに腹ばいになり、ペチャペチャと音を立ててカルピスを飲む猫の顔を眺めながら、私は迷子になった事を黒猫に話した。


「ねぇ、猫ちゃん、私、迷子になっちゃったんだ。猫ちゃんは私のお家がどこか知らないよねぇ……」


 もちろん猫は私の言葉に耳を貸す事なく、一心不乱にカルピスを飲んでいる。

 そんなに喉が渇いていたのか。そんな事を考えながら私はつやつやの背中を優しく撫でた。

 黒猫は最初はビクリと体を震わせたものの、危険はないと感じたのかすぐにカルピスを飲むこと再開した。

 やがて、すべて飲み終わるとベンチを降りてこちらを振り向き、一声鳴くとお社の下へと姿を消した。


「あっ、猫ちゃん……」


 黒猫がいなくなると、途端に私は強い孤独感と不安を感じた。

 もうずっと家には帰れないのではないだろうか。

 きっと、お父さんもお母さんも私を探してる。

 見つかったら怒られてしまうんじゃないか。


 グルグルと不安が巡り、瞳に涙が浮かぶ。


「ぐす……おかあさん……おとうさぁん……」

「そこもとは何を泣いておる?」


 顔を上げるとそこには時代劇でしか見た事のない、月代にちょんまげのお侍さんが立っていた。

 着流しに羽織、腰には二本の刀と十手。今なら分かるがいわゆる同心というヤツだ。


「おさむらいさん?」

「いかにも儂は、この付近の諸事諸々の問題を引き受ける同心、黒川玉之丞なり」

「しょじ……ものもの? くろかわ、たま……たま?」

「うぐっ……」


 黒川玉之丞と名乗った時代錯誤な同心は、たまと私が呼ぶと胸を押え顔を歪めた。


「できれば黒川殿とでも呼んで欲しいが、致し方ない。そこもとは幼い故、たまと呼ぶ事を許そう」

「分かった、たま」

「して、なぜ泣いておった?」

「あのね、お家がどこかわからなくなったの……」

「ふむ、迷い子か……どれ……」


 たまは私が被っていた麦わら帽子をそっと取り、形のいい鼻を頭に近づけた。

 スンスンと匂いを嗅ぎ、その後、背筋を伸ばし首を巡らせ鼻を再びスンスンと鳴らす。


「たま、動物みたいだね」

「うぐっ……」


 私の言葉にたまは再び胸を押え、顔を顰める。


「よいかわらしよ。儂はこれでも一目置かれる存在ぞ。敬意をもって接するのが礼儀と心得よ」

「けいい? れいぎ?」


 たまと話す内、私の涙はいつの間にか引っ込んでいた。

 不安よりも、時代劇から抜け出てきた様な彼が不思議でしょうが無かった事を今でもよく覚えている。


「はぁ……もうよい、ほれ、手を出せ。家まで連れて行ってやろう」

「えッ、たまは私のお家が分かるのッ!?」

「うむ。さ、はよう手を出せ」


 今なら絶対、手を取ることはないだろうが……いや、いま会えたら逆にその手をつかんで放さないかもしれない。

 とにかく、その時の私は迷う事無くたまの手を握った。

 私の周囲の大人の男の手は、固くゴツゴツしていたが、たまの手は何故だかフニャリと柔らかく、ずっと握っていたい感触だった。


 そうしてたまは握った手を引いて、時折鼻を鳴らしつつ、日暮れ頃には私を家の近所、見覚えがある場所へと導いてくれた。


「あっ、おかあさんッ!!」


 玄関から姿を見せた母親に私は一目散に駆け寄った。


「どこ行ってたの? あんまり遅いと心配するでしょ」

「ごめんなさい……あのね、迷子になってね。それでたまっておさむらいさんが、お家まで送ってくれたの」

「お侍さん……そんな人どこに……?」


 振り返るとたまの姿はどこにも無かった。

 ふいに風が吹き、その風に乗って声が聞こえた気がした。


"たいそう美味な茶であった。また会う事があれば馳走になりたいものじゃ。ではな"


「たま……?」


 そんな幻の様な夏の日の出来事。

 あれから何度か神社を探したが、未だに見つける事は出来ていない。


 今も私のカバンの中の水筒には、氷で薄くなったカルピスが入っている。

 いつか、たまと再会した時の為に。

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黒猫とカルピス 田中 @tanaka210413

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