尚希の憂い
「……え?」
血の香りがするという拓也の発言に尚希が目を丸くする。
そして、嫌な顔をする拓也から視線を実へ。
「………」
実は何も言わない。
「………」
沈黙が部屋を満たす。
「………」
直後。
「はーい、実! ちょっ~と、じっとしてろよー?」
「わっ…!?」
にこやかな笑顔で寄ってくる尚希から、実が慌てて逃げようとする。
そんな実の両腕を素早く掴んで離さない尚希と、尚希にそれ以上の接近を許さない実との間で、状態は
「な、なんにもないですって!」
「嘘つくな。拓也の鼻を甘く見るんじゃねぇぞ。あいつの嗅覚は犬並みだ。」
「ちょ、ちょっとすりむいて怪我してるだけですって…っ」
「往生際が悪いな。それなら、別に見せたって構いやしないだろ?」
「いや、それは……―――いった!」
押し問答を繰り返している
自分でも無意識だったのだろう。
ハッとした顔には、〝しまった〟と書いてあるように見えた。
「実?」
「……分かりました。白状しますよ。」
実にぐいっと押し返された尚希は、今度は特に抵抗せずにその手を放した。
実の表情に、これ以上抵抗する意思がなかったからだ。
実は観念したように目を閉じると、ズボンの右側の袖をまくった。
「やっぱりな。」
尚希が呟く。
ズボンの下には、包帯がぐるぐると巻かれていた。
白い布の一部が血を含んで赤く染まっており、怪我をしてから、まだそんなに時間が経っていないと知れる。
「まさか、においでばれるとは…。今度から、においも消さないとだめか……」
「そ、そういう問題じゃないだろ!! こんな怪我して、大丈夫なのか!?」
拓也が怒鳴るが、実はそれを空気のように受け流す。
「大丈夫だよ。治癒魔法はかけてあるから、すぐに治るって。」
実の口調はかなり軽い。
まるで自分の怪我のことなど、どうでもいいと言いたげな態度だ。
そんな実に、尚希は心の中だけで溜め息をついた。
実が過去の記憶を呼び覚ましたことで、アズバドルに関する様々なことを説明する手間は省けた。
自分の身を守るには十分すぎる実力もあるので、実の危険に関して、こちらが神経を尖らせすぎる必要もない。
これから起こるであろう面倒事を迎えるには、きっとこれが一番いい状況だ。
しかし実際のところ、今の実との接し方がまだ定まらなくて、困るところがある。
本人も努力はしているのだが、やはり本能的に、周囲を警戒しすぎてしまう部分が出てくるようになった。
こちらより一枚も二枚も上手になってしまって、丸め込まれることもしばしば。
極力顔には出さないようにしているが、実の変容ぶりについていくのは戸惑うことが多いのだ。
(封じられていたのが、単純に魔力だけだったなら、実自身もよかっただろうに……)
考えても
「今日、拓也にも分かるくらいに魔法の痕跡が残ってたのは、この怪我のせいだな?」
「……はい。今回は出血量が多くて…。治癒の方に神経を使ってたから、魔法の跡が完全に消せなかったみたいです。」
全然深刻と思っていない実の物言いに、拓也が目元を険しくする。
「消せなかったって……もういい。怒る気が失せた。」
言葉の途中で疲れたように息を吐き出して、拓也は実の隣に腰を下ろす。
「でもさ。なんで、おれらに隠す必要があったんだ? 別に、隠す理由なんてないだろ?」
拓也は、思ったことをそのまま告げる。
実の話を聞く限り、一連の出来事に関して、実に非がないことは明らかだ。
実に後ろめたいことはないはずだし、早く話してくれれば、自分たちだって手伝うことができたかもしれなかったのに。
拓也の視線を受け、ここで初めて実が「う…っ」と言葉につまった。
そんな実の微妙な変化を見
「そこはオレも聞きたいな。理由もなく隠すのはおかしいよな? 言う機会なら、たっぷりあっただろう。学校でとか、色々。」
「学校でだけは、絶対に言えない……」
沈んだ声ではあるが、実ははっきりとそう言って首を左右に振った。
「ああ……
拓也の言葉に、実は大きく頷いた。
「梨央の奴、あれ以来俺らにべったりだったじゃん? 気にしてくれてるのは嬉しいんだけど、やっぱり巻き込むわけにはいかないからさ。だから、学校では絶対に言えなかった。でも拓也って猪突猛進な節があるから、俺が向こうに行ってるって気付いた瞬間、どこだろうと怒鳴りに来そうだったし…。じゃあ、ほとぼりが冷めるまで魔法の跡を消して、隠すしかないかなって思って。」
あいつもすぐに飽きると思ったのに…と、実は面倒そうに頭を掻いた。
「でも、よくおれの家に寄ってたんだから、その時に言えばよかったじゃねぇか。」
拓也はなおも食い下がる。
「ああ。もうそこからは、面倒になっちゃって。」
「……はあ?」
予想を斜め上に飛び抜ける実の答えに、拓也は思わず間抜けな声を漏らしていた。
実は先ほどとは打って変わり、あっけらかんとした口調で続ける。
「だってさー。あんなに手間かけて隠してるのに、わざわざ言うって二度手間じゃん。だから、ばれるまでいいかなぁ~って思ってさ。」
無駄に明るい笑い声。
拓也はがっくりと頭を落とした。
「まったく、お前って奴は……」
とりあえず今回のことは、実の中で反省すべき事項ではないことなのはよく分かった。
だが、個人のことに深くは口を出せないし、アズバドルでのことに関して、自分たちへの報告義務があるわけでもない。
不満はあるものの、怒るに怒れないのが歯
拓也は一つ息を吐き出す。
「……で、今度はいつ行くんだ?」
さりげなく訊いただけだった。
だがその問いを境に、実の雰囲気が一変する。
「さあ……どうだろうねぇ。」
その声は、妙にねっとりと絡みついてくるようだった。
拓也と尚希の背筋を、まるで蛇がうねるようにして
思わず実の顔を見ると、そこにはあの独特な冷笑と、全てを見透かしているような空虚な瞳が。
その後、拓也と尚希がどれだけ探りを入れても、実は話をはぐらかすか、答えを返さないかのどちらかだった。
未練がましそうに実の家を振り返る拓也と、そんな拓也を軽く引っ張りながら離れていく尚希。
そんな二人の様子を窓のカーテンの隙間から見ていた実は、それまで笑みをたたえていた表情をふと曇らせた。
「人を殺したことのない二人に、あれを倒せる? ……俺でさえ、息苦しい気分になるっていうのに……」
右腕を握る手に、思わず力がこもる。
彼らは知らない。
きっと、知らない方がいい。
遠ざかる二人の姿を無感動に見つめ、実は細いカーテンの隙間から空を見上げた。
いつの間にか空は、夕陽によってオレンジ色に彩られていた。
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