3.約束のカケラ —謎—-1

「ネザアスさん、それ、痛くないの?」

「あん?」

 文月のエリアは、基本的に気温が高い。

 黒騎士奈落のネザアスは、綺麗好きというほどではないのだが、意外とシャレたところがあり、身だしなみはまあまあ気にしている。

 派手好きというか、正直、奇抜なファッションセンスはどうかと思うこともあるが、意外と伊達男の一面もあるのだ。

 それで、先程の戦闘で汗をかいたらしく、ネザアスは、早速、入り込んだ施設でシャワーを浴びてきた。と言っても、ネザアスは、いわゆる体臭を持たないので、強い汗のにおいなどがすることはないのだが、変なところで几帳面だ。

 このテーマパーク廃墟は、システムやインフラが生きているところが多い。すぐにお湯のシャワーが使える環境は、年頃の娘のフジコにもありがたい。

 今日のネザアスは軽装だ。

 ネザアスは、自分が長身痩躯、やや病的に痩せていることを貧相だと気にしていて、彼女の前で薄着になることはまずないが、流石にこの暑さに負けていた。せめても体のラインを隠したいらしく、バスタオルを羽織っていたが、タンクトップにスウェットの下という軽装になっている。

 尋ねられて彼は小首を傾げる。

「痛くって? なんか、おれ、怪我してるか? んー、俺たち黒騎士は、つい痛覚を遮断しちまうからな。気がついたら怪我してることあるから」

 それでなくても、ネザアスは傷だらけだった。ネザアスの眼帯の下の右目は失明しているし、顔には傷もある。それに右腕も失っていた。

 ネザアスに言わせると、それはそういう設定でデザインなのだというのだが、彼が壊れているのも確かで、今は本来使えた修復や機能回復のアタッチメントすら、使えないのだという。

「う、ううん、そうじゃなくてね。胸の……」

 けれど、フジコだった彼女が痛々しく思ったのは、左胸、鎖骨の下にあるコードだ。心臓の上に当たるように描かれたそれはバーコード付きの製造コードなのである。それに大きくYの字が描かれていた。ユウレッド・ネザアスの頭文字だ。

 それは、この世界を構築した"創造主"の恩寵を表すもので、いうなれば神様のご贔屓の証であり、彼等の忠誠の証だった。

 その文字が刻まれた騎士たちは、恩寵騎士と呼ばれて特別扱いをされるらしい。

 といっても、ネザアスの場合、すでに創造主からの興味は薄れていて、たまに危険な実験に利用されることがあるくらいだ。

「これか? 刺青みたいに見えるから、確かに痛々しく見えるらしいよなー」

 ははっ、と彼は苦笑する。

「でも、なんか削れているというか、少しただれてない?」

 特にYのところが。そういうと、彼女の肩にいた機械仕掛けの小鳥のスワロが、ぴぴーと鳴いて同意する。

「ウィス」

 奈落のネザアスは、目を伏せた。

「これは、アイツの、創造主アマツノの愛情を示したもんだ。俺に対してアイツが興味無くなれば剥奪される。まあ、まだ残ってるってことは、かろうじて気に入ってくれてんだろうよ。綺麗に塗り直して更新してもらえないだけだ」

「そんなこと!」

「ウィス。よせよ。そんな顔すんな」

 ネザアスは困ったように笑う。

「それでも、これはすぐには消えねえから。これがある限り、おれは恩寵の騎士でいられる。恩寵の騎士でなければ、おれの力はもっと制限されちまう」

 ネザアスは、諦めたように言った。

「おれは自分が製造番号振られてんのは、正直ムカついてるけどな。この恩寵の文字だけは、まだ失いたくないんだ。これがねえと、おれはお前も満足に守れなくなっちまうからな。ただれかけて消えかけてても、まだ残っている限り、おれはまだ戦える」

 奈落のネザアスは、本来、戦う為だけに作られた黒騎士だ。彼は、兵器であることを自認していた。

 最終的に彼は自分の存在意義を、戦闘の中でしか見出せなかった。

「おれはまだ戦えるんだぜ」

 だから、彼はそれを失うわけにはいかなかったのだと、今なら彼女はわかる気がする。



「コれ、なんだロう……」

 彼は、自分の首にあたる部分の下を撫でてみた。そこにかすかに凸凹がある。エンボス加工された文字みたいではあるが、ところどころ削れてしまっていた。

「うーん、わからナイ。なんダロ」

 今日はいつもより早く昼寝から目覚めて、彼は夕方に向けて準備をしていた。

 入江の寝床は、静かな潮溜まりがあってそこでうっすら自分の姿を映して、身だしなみをチェックしていたのだ。

 あの人魚の歌を聴きに行く前に、彼は一応身だしなみを整える。

 といっても、不定型な体、ヒラムシみたいなふよふよした彼の姿は、取り立てて整える身だしなみもないのだし、第一、彼はこの姿を絶対彼女にさらさないようにしているから、見られるはずもないのだが。

 これは多分癖のようなものだった。

 それにしても、前から何かあるのは知っていたが、改めて触ってみると文字らしきものが刻印されている気がする。

「なァ、ノワル。お前、コれ、なんだロうナ?」

 彼は水槽の金魚に話しかける。金魚と言っても、小さな泥の塊。彼に懐いているだけの汚泥だが、出目金に似ていて可愛いので、彼が飼っている。

 水槽にうっすら映すが、やはり読めない。

 ノワルが口らしきものをぱくぱくする。

「謎、ダナ」

 彼はため息をつく。

「なんカ、名前ダト思うノニ」

 彼にはこうなる前の記憶がない。

 気がつくと、深い海の底で目を覚ましたのだ。名前など知る由もない。

 記憶がなくても、何も困ることはなかった。

 勝ち続ければ、傷つくこともない。強いものが正義なだけの、海の中。複雑なことを考えることもない。悩みがなければ悲しみもない。

 それなのに、時々彼は不安になるのだ。

 重大なことを忘れている気がする。

 夜になって月を見上げた時、不意に焦燥にかられることがあり、けれど、それが何かがどうしても思い出せない。そういう夜はうまく修復できない体の右側が痛むのだった。

 昔飼っていた気がするのに、どこかに行ってしまった小鳥のことを思い出す時のように、もどかしくて仕方がなくなる。

 特に夜は、そういうことがひどくなる。

 そして、泥の獣の気配で心がざわついて攻撃的になる。思い出せない何かに惑わされるより、闘争に明け暮れる方が楽だ。

 夜は、彼の活動時間だが、本当はあまり好きではなかった。ゆっくり眠ることもできない。

「おレ、謎が多イんだ。ノワル、お前も文字がワカったら良かっタナ」

 ノワルがすいーっと一周する。

「鏡ミルのモ良いケド、おレ、自分ちゃんトミルの怖イし」

 自分が醜い化け物だから。

 だから不鮮明な水鏡と手探りだけで、調べている。しかしわかるのは、その番号が一部大きく削り取られていることだけだった。

「痛クないハズだケド、なんカ、ズキズキすル」

 それを知覚するといつもそうだった。

「オれ、まダ、戦エるのニな」

 何も覚えていないのに、何故か、彼はそんなことを呟いた。


 *


「こんばんは、ネザアスさん。スワロちゃん」

 黄昏の灯台守宿舎。

 種火の部屋に、魔女の衣装のウヅキ・ウィステリアがやってくる。

「今日は昼寝してしまったの。また昔の夢を見たわ」

 ウィステリアは写真の、ネザアスの左胸あたりをなでやる。

「最期まで、ネザアスさんは、恩寵の騎士でいられたのかな」

 せめてそうであってほしい。

 結局は彼を道具として使い捨てた、あの気まぐれで冷徹な創造主カミサマが、ずっと彼を愛していたわけではないだろうけれど。

 こんな場所の、小さな自室しか与えられていない彼が、消えていく恩寵の証に絶望しながら過ごしていたと考えると、それはあまりにも悲しかった。

「ううん、ごめんなさい。あたしが言っても仕方ないよね」

 ウィステリアはため息をつき、写真から手を離した。

「今日は新月。お昼寝したせいでちょっと遅くなっちゃった。さっと終わらせてこなきゃ。気をつけて行ってくるね。おやすみなさい、ネザアスさん、スワロちゃん」

 ——夏の夕暮れはな、ウィス。

 不意にネザアスの声が聞こえた気がした。幻聴のようなものだが。

 ——日が落ちるのが長いせいか、泥のアイツらも活発だ。気をつけるんだぜ。


 外は、予想外に暗くなっていた。

 暗い夜は、穢れたものである汚泥や囚人の活動が活発になる。何故か彼らは夜間に活発化するのだ。

「寝過ぎちゃったわ。今夜は荒れないといいけれど」

 ウィステリアは、種火を大切に守り、帽子をかぶってローブを引きずりながら桟橋を歩いて灯台に向かう。

 浄化の魔女は、この世界の穢れを取り除くべく作られた娘たちだが、高位の魔女の十二人のうち現役なのは半数に満たない。

 ウヅキの魔女、ウヅキ・ウィステリアはその生き残りだ。

 灯台の島は居住区の果てに近い場所にある、花の咲き乱れる美しい島だが、場所の都合で人が寄り付かない。

 海に囲まれているが、内陸側以外に船は見ない。ただ黒々とした海が広がるだけなのだ。

 なお、安易に海に近づくものもいない。海は汚泥に侵されており、人喰いの怪物が出るとされている。それらは泥の獣、今では管理局により囚人プリズナーとよばれている。

 彼等の侵入を防ぐ為に、ここには灯台が設置されていた。そして、彼らの嫌う、なんらかの事情で彼らが嫌う、魔除けの火を守るため、そこに灯台守の魔女が派遣されてくる。

「本当に酷い海ね。島は綺麗なのに」

 灯台から外を眺めて、ウィステリアはため息をつく。

 下の海に黒く沈むのは、かつて神の万能物質と呼ばれたものの一種黒物質ブラック・オールマイティ・マテリアルだった。

 万能物質の中でも、最高の傑作と言われた、柔軟性を持つものは従来品と区別するためと柔らかな性質を持たせる為に黒く着色され黒物質と通称されていた。

 それが沈んだのがこの海だ。

 万能な神の物質が過去の遺物である『敵対的な指令』とそれが結びつくことで、人を侵す危険な泥となることが知れ渡った為、夢の物質は危険なものとして排除された。

 しかし、回収されて廃棄されるはずのものが、タンクから漏れ出して収拾がつかなくなった。

 それは感染性のある汚泥と呼ばれるものとなり、そこから変異した怪物が生まれた。

 強化兵士の黒騎士や白騎士は、それに対抗するために作られた。汚染に弱い白騎士に比べ、黒物質を精製して作られた黒騎士は、身体強化の度合いも強く、ほとんど感染もしない。しかし、とある事件の際に一斉に発狂して叛乱した。

 奈落のネザアスはその時に発狂しなかった、彼らの生き残りだった。そんな彼も発狂したことにされて、処刑された。

 それらの騎士たちとは別に、灰色物質アッシュ・マテリアルと呼ばれた特殊なナノマシンを与えられ、黒物質を操る力を与えられた女達が、魔女と呼ばれる彼女たちだ。

 彼女達は必要とされながらも、穢らわしいものとして畏れられる立場であった。

 そして、ある程度脅威が落ち着いた今は、排斥される存在であった。

 ただし、この土地はまだ魔女の力を必要としていた。居住区に近しいが、強い泥の獣の流入が見込まれたここは、魔女による黒物質の足止めが必要だ。

 何年か前から、ここには魔女が派遣されてきた。

 前任者のヤヨイの魔女、ヤヨイ・マルチアが失踪した後、彼女がここにきたのはそうした事情だ。魔女なしではここは落ち着かない。

 灯台の島には何もない。今は人も魔女以外いない。

 宿舎の近くに桟橋が張り出て、船着場があるが、船は用意されていない。対岸に渡るには、連絡して手漕ぎの船を手配する必要があった。

 ていのいい島流しのようなもの。しかし、魔女がいなければ、居住区に囚人が侵入してしまう。

 朝、魔女を統括する中央局の監視役のグリシネが、強めに彼女に浄化するように要請したのも、実のところ他に対抗措置がないからだった。

(だったら、もっと大切に扱えばいいじゃない)

 ウィステリアは、そんなふうに辛辣なことを考える。

 とはいえ、ウィステリアも協力する気はあった。

 ここはウィステリアにとっても、思い出の深い場所だった。

 あの黒騎士の残した気配のあるこの場所を、化け物に荒らされるのは彼女も忍びない。

 それに、ここで歌うのは、あの黒騎士の為でもあるのだ。

 しかも、奈落のネザアスを溶かして殺したのは、人魚姫とあだ名された美しい魔女。彼女の前任の灯台守でもあるヤヨイ・マルチアの涙である。

 彼女の魔女としての力は毒の涙だった。その涙は、黒物質ブラック・マテリアルを初期化してしまい、バラバラに溶かしてしまうことにあった。

 黒騎士の彼にもそれは適用され、彼は涙を使った弾丸で、右半身を蜂の巣にされて溶けて海に沈んだ。

 ウィステリアがそうだったように、マルチアにとっても、奈落のネザアスは初恋の男だったらしい。その頃彼女は、別の男に恋をしていたけれど、その男のために、初恋の彼を知らず殺してしまった。

 以降のマルチアは、ここに閉じ込められていたが、精神に異常をきたしていたと言われている。そして、ある時、いなくなってしまった。

「不思議な、縁よね」

 ウィステリアは、奈落のネザアスにもらったお守りのペンダントをぎゅっと握る。

 子供向けのアニメの魔法少女ステッキをかたどった透明の瓶に、紙切れが丸めて入れてある。その紙にはネザアスのおまじないがしてある。彼が血文字で書いたまじないは、上位互換の黒物質の塊である黒騎士の彼の威光を帯びて、彼がいなくなった今でも弱い汚泥を怯えさせる。

 彼は「俺が守ってやる」と騎士らしいことを常々言っていたが、このペンダントはそんな彼の、残されたひび割れた約束のカケラだった。このペンダントのおかげで、彼女はまだ守られている。

「この海のどこかにいるのかな。ネザアスさん」

 マルチアの毒の涙に溶かされて、黒い海に沈んだ彼が、自分がかつて住んでいたこの島の周りに、戻ってきているような気がする。

 

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