愛したりナイ
ちくわ書房
そう云うのなら
今日の日付はなんだったかしら。今年首領からいただいた御手紙は一六九通。今日で一七〇通。寝台に広げて一から読み返す。
「卯羅、今日の夜は予定ある?」
日付を数えていたら首領がいらして、手紙の散らばる寝台に腰掛けた。
「貴方が作らなければ無いわ」
「じゃあ食事をしに行こう。仕事が終わったら、何か旨いものを食べに行こう」
「私はその護衛?」後ろから抱き締めたら、頬に口付け。
「君だろう?私に誕生日は祝うものだと教えたのは」
「じゃあ今日は六月十九日ね」
「何食べたい?」
「貴方が食べたいもの」
「そうだなあ」私に体重を掛けてきたと思ったら、そのまま背で押し倒された。「一番食べたいのは後菓子だし」
悪戯な首領はそう云うと、私の二の腕に舌を這わせた。
「食前酒を御所望かしら」
「甘美なる食前酒だが、その為には果実を搾らねば」二の腕の次は胸の横に口付けて。そこから這い上がるように顔へと迫る。「仕事が終わったら、また来るよ。支度をして待っていて」
唇に触れるだけのキス。
何を着ましょう。御化粧は何色が善いかしら。衣装箪笥を開けて端から眺める。一度着れば首領が新しいのを買ってくださる。況してや普段は化粧着を着ているから、服は溜まるばかり。でも折角だから、昔好んでいたのを着ようかしら。
「終わった」一時間も経たないうちに再訪。化粧着を脱ぎ捨てた私に笑いかけ、拾ったそれに口付けて、残り香に頬擦り。
「随分お早いこと」
「部下が非常に優秀だからね。あ、そうだ。護衛として、中也がどうしても祝いたいと云うから許しておくれ」
「二人きりでないの?」
「外に立たせておくよ。中には二人きりだ」
補正下着を着、長椅子に腰掛けた彼を振り向き見る。「卯羅、何食べたい?」
「貴方の誕生日でしょう?貴方がお決めになって」
「じゃあ和食。蟹雑炊と熱燗が佳い。あとね、割烹着姿の奥様が見たい」
私は着替える手を止めた。それから溜息一つ。「じゃあこんな着替えじゃなくて佳いわね」
「着替えは何だって佳いさ。どうせ脱ぐのだから」
適当にワンピースを取り、さっと羽織る。長椅子から立ち上がった首領が、腕を差し出す。それに手を重ね、部屋から出れば、中也さんを先頭に部下という部下が勢揃い。順に膝を着いていく様は夫の権威の表れ。
「首領、マフィア一同、この日を祝う喜びを噛み締めています。御身の御健勝と、更なる組織の発展を祈っております」
「ありがとう。その期待に応えなくてはね。却説、私はこの後、妻と出掛ける。留守は頼んだよ」
中也さんの運転する車が自宅への道をなぞる。懐かしい我が家。家というよりは小屋かしら。一間に必要最低限の生活空間が詰め込まれている。
「自宅なのに馴染みが無いというのもなんだかね」
「だって全くお休みにならないんですもの」首領となってから、一日も休まず。何を焦っているのかしら。
誰か掃除に来ているのかしら。綺麗に整えられている。台所に立ったものの、料理なんて暫くしていないのだから、上手く出来るかしら。
「夫婦の時間が欲しいんだ」食卓に座る彼がぽつり溢した。「二人だけの時間が欲しい」
「何時もそうでなくて?」私は土鍋を火に掛け、蟹缶を空けながら答えた。
「あんなのじゃないんだ。君が日毎にくれる手紙の様な時間が欲しい」主人は不満らしく、拗ねた子供の声を出した。
云いたい事は解る。無論解る。でもそれは望んではならない事だから。
「国王と娼婦の関係なんて高が知れてるわ」
「違うよ、女神とその下僕だよ」
何故か炊いてある白米を出汁の中に入れた。他にも何か云っていたけど、聞こえなかった事にした。
煮たったら蟹を入れてまた煮て。かき混ぜながら溶き卵を彩りに。熱燗の準備のために冷蔵庫を覗けば、蟹田と書かれた一升瓶。
「仕組んだわね?」
「こうでもしなきゃ君は妻として私に触れてくれないからね」
「最低よ」
何故泣きそうな顔を?この関係を望んだのは貴方なのに。
「治と呼んでよ」
「首領」
「意固地」
「分らず屋」
炊き上がった土鍋と、熱々の徳利を食卓に持っていく。返した言葉に落ち込んだのか浮かない顔。私は隣に座って、彼の背を撫でた。
「治さん」涙を浮かべて私を見て。「私ね、心の底から愛しているの。貴方の為になら滅びても好いの。でも貴方の名前を呼んだら、それが鈍りそうなの」
出来ることなら、貴方と何処か遠いところで、二人きり、幸せに暮らしたい。でもそんな事は許されない。何故なら彼はこの世の支配者だから。
「冷めてしまうわ。食べましょう」
「そうだね。折角君が作ったんだ。温かいうちに食べよう」
きっと他の夫婦は今日あった事を話したり、他愛ない話をしているのでしょうね。
互いが愛おしくて仕方ないのは私達も同じ筈なのに、何故?
昔はもっと気楽に話していたというのに、彼が首領と成ってから、いいえ、成る覚悟をしてから、全てが変わってしまった。
拷問のやり方一つでさえ、楽しく話したのに。今は私の機嫌を取ろうとするような会話しかしてくれない。
「美味しかった」
「御粗末様でした」
二人で片付けて、手持ち無沙汰。
「卯羅、ごめんね」
「何?」
帰りの車中で突然謝られた。「あの日、君から選択肢を奪ったのは私だ」
「いいえ、私よ。私が自ら捨てたの」
恩師を死の淵に追いやり、彼が継ぐことを赦したのは私。そして私はあの部屋に幽閉される事を承諾した。
太宰を殺したのは私かもしれない。
「お誕生日おめでとう、治さん」
「卯羅、傍に居てくれてありがとう」
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