CASE:Shuri

ベイビィ・ドール

 あたしはその日も機嫌が悪かった。

 こんなことならあの鳥籠に居た時の方がずっと自由だった、なんて悪態を吐き出せないまま唇を噛んで。手慰みに爪を塗って拭えもしない苛立ちをそのビビッドピンクで上塗りするみたいにして。

 あたしのハウスは何人もの女たちを抱えた雑居ビルの一番上にある。毎日のように入れ替わり立ち替わりやってくる彼女らはベイビィ・ドール一枚で男たちを出迎えてはひとときばかりの癒しという名のインスタントで乾き切った愛を売る。……なんてのは同じようにおじさんを相手にしていたあたしの言えた義理ではなかったけど。

 やっぱり、気分よくはならないのが人間の面倒くさいところ。

 壁の時計は深夜をとうに過ぎて朝の四時を回る。朝の光が嫌いなあたしは厚い遮光カーテンを開けないから部屋は手元を照らすLEDの青白い光ひとつ。お気に入りのインセンスを焚いて、お気に入りの歌を聴いていても気分は晴れないまま、たった一人を待っている時間。

 もうじき、あの人が帰ってくるはずだった。酒でもなく、ギャンブルなんてものでもない。


「ただいま、シュリ」


 背後に受ける声にあたしは静かな深呼吸をする。

 それから、作った最強の笑顔で振り返ってみせる。


「おかえり」

「……怖いよお嬢。今日はこれでも早かったデショ」

「なによ、怒ったらダイナシだって言うからやってるのに。あたし、やっぱり引っ越したい」


 この人にはあたしの笑顔は通じない。おじさんなら騙せたのになぁって考えてはいつも辛くなる。この人の前ではあたしのビスクドールと呼ばれた容姿だって関係ない。コドモだから。

 わかりやすく唇尖らせたら、指先で唇を抑えて彼は微笑う。


「離れたって問題は解決しないだろ、シュリの場合。わかってくれとは言わない」

「……ひっどいセリフ。取り繕うつもりもないんだ」

「そんな慰めがほしいんじゃないだろ」


 知ってるよ、と笑いながら零して煙草に火を点けたあの人は煙が届かないようにキッチンまで離れる。良くも悪くもあるがままの人。おじさんを手玉に取るのは簡単だった。機嫌を窺うことで大概は与えた以上に何かを返してくれた。お金だったり、物だったり、時々は面倒な愛情も。

 だから、同じように行かないこの人が面倒くさく、煩わしく、もどかしい。

 あたしは流しっぱなしの気怠い歌を止めてベッドに身を投げた。ビロードの枕を横抱きに、あの人が隣に来るのを待つ。


「だからって、ほしいものくれるわけじゃないくせに」


 おじさんのようにはいかない。仕事でたくさんの女の面倒を見、時には教育もしているあの人には色香なんてものは通用しないしそこに絆されることもない。この生活も半年が過ぎようとしていた。

 十八を迎える夏までもう半年もない。誕生日を迎えたら――あたしはどうして行くんだろう。

 一緒に居ることを望めば望むほど胸のもやつきは増えて行く。胸いっぱい、ホワイトティーの匂いを吸い込んだら、どうしてだか泣きたくなった。


「……ほしいもの、ね」


 ベッドが軋む。添い寝してほしいと頼んだのはあたしだった。人肌に慣れたあたしにはそれが一番の安定剤だったから。

 それを拒まれなかったことは今となっては不思議だったけど。煙草交じりのあの人の香水を嗅ぐとそんな考えがどうでもよくなる。

 背を抱くように添う身体。右指で肩を流れた薄桃のウェーブ髪をくるくると束ねては滑らせて遊ぶのが擽ったい。


「俺はお嬢を一流にしたかったんだけどね」

「娘を一流のセックスワーカーにしたがる父親ってどんな虐待」

「……と思うようにもなったわけで。だったら俺がお嬢にできることってなんだろうなってこの頃は思うよ」


 そもそもどうして性産業の担い手が同じ性産業の孤児を保護できたのかとか、大人の闇ってやつ。結局、建前の聞こえのいい「里親制度」であって、その先にどんな保証もないんだとあたしは思う。

 それって、逆に例えるならあたしはまだまだずっとマシな相手に保護されたってことだとも言えて。

 なんてもう何度目かわからない思考。こうして衣食住と、「安定剤」を保障してくれる相手なのだからあたしはきっと幸せなんだと思う。


「十八になったら」

「……そのハナシはしたくない」


 まだ、答えが出せないし考えたくない。

 赤子みたいに背を丸めたあたしは目を伏せる。

 あたしはこの鳥籠が嫌いだ。だけど、そこから飛び立つ勇気もない。自由をほしがるのは虚勢でしかない。

 諦めたのだか微笑ったのか、ふっと掛かる息の後にそっと髪を撫でた手がシーツを引き上げる。


「シュリ、おやすみ」


 優しい声に、この人は本当に優しいんだな、とも思う。こんなわがままな子供を構い続けるなんて酔狂だとも。

 温もりは目覚める頃には居なくなる。ちゃんと自分のベッドで眠るのが彼の習慣で、それが当然だと言うように。


「おやすみ、……瀬名」


 あの人の前ではレース刺繍のベイビィ・ドールはただの服。わかっていてそれを着るあたしの気持ちはまだ揺れ動く。いっそ、女たちのようになれたら一度は――。

 独りになったシーツの中、弄る指の潤いに息が零れた。

 あたしはきっと永遠のベイビィ。

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