あなたのためのカトレア

月花

あなたのためのカトレア


 ライリーがやってきたのは、しとしと雨の降る夕方だった。


 そのとき私は八歳で、家で一人お留守番をしていた。けれど少しも怖くなんてなかった。

 お父さんとお母さんはいつだって二人でお出かけするから、その日もティディベアと手をつないで、玄関の前で座っていた。


 朝からずっと雨が降っていて、窓からは光が差しこまない。玄関にはごみの詰めこまれたビニール袋ばかり。靴はシューズボックスに入らない。シンクには皿が積み上がっていて、酸っぱいにおいが漂っていた。これが私のおうち。私の住んでいる場所。


 でもその日はお父さんもお母さんも全然帰ってこなくて、私は少しだけ寂しくなっていた。外はどんどん暗くなっていく。いつになったら帰ってくるんだろう。


 私が床の埃をなぞっていたら、ガチャッと音がして、扉がゆっくりと開いていった。

 私は立ち上がって裸足のままで駆けよる。でも。


「こんばんは、お嬢さん」


 扉の向こうにいたのは知らない男の人だった。


 お父さんとは全然違う顔。どこも似ていない。私はびっくりして、きれいだな、と思った。テレビとかポスターに映っている人みたいだった。さらさらの黒髪と、長い睫毛。煙草のにおいもしない。

 うちに来る人は、髭を生やして髪の毛を染めたような人ばかりだったから、ぱちぱち瞬きをしてしまった。


「君はここの家の子?」


 声が出なくてこくんと頷く。


「そっか。うん、君は父親似なんだね。ダークブロンドの癖毛なんてそっくりだ。顔立ちも何となく面影があるし」


 私はティディベアの手をぎゅっと握って、「お、とうさんは」と訊いた。


「お父さんは?」

「うん?」

「私のお父さん、どこにいるか、知ってる?」


 その人は傘をさしたまま、しゃがんで私と視線を合わせてくれる。それから困ったみたいに眉を下げた。


「君のお父さんはしばらく帰ってこれないんだ。ごめんね」

「なんで」

「僕が遠い所へ連れていってしまったから」


 私はぎゅっと両手を握る。


「お母さんは? お母さんは帰ってくる?」

「うーん、どうだろう。お父さんと一緒にいると思うよ」

「どこに行ったの? いつになったら帰ってくるの?」

「僕も知らないんだ。ほら、片道の切符をあげただけだから。もう帰ってこれないんだ」


 うちの中はやけに静かで雨音だけがザーザーと響いていた。

 彼はふふっと笑う。傘から水滴がしたたり落ちる。ぴちゃんと跳ねる。


「お父さんとお母さんに会いたい?」


 私はすぐに頷こうとしたけれど、彼が待ったをかけるように指を唇にあてた。そして私の伸びてしまった髪をすくって、「将来は美人さんになるね」と女の子を口説くみたいに言った。


「きっと君には選ぶ権利がある。だから選ばせてあげる」

「?」

「一つ目、君はお父さんとお母さんに会いに行く。どこへ行くのかは知らないけれど、僕がちゃんと送ってあげるよ。二つ目、僕は帰って君はこのままお留守番をする。さっきまでと同じだ、なにも怖くはない。それから三つ目――そうだな、これはあまりおすすめできないけれど、僕と一緒に来る」

「あなたと、どこへ行くの」

「悪い人がたくさんいるところ」


 彼は緑色の目を細める。


「そこで君は、うんと悪い大人になるんだ」


 そのとき私はもう、彼が悪い人なのだと直感していた。


 すっかり黙りこんでしまった私に、彼も何も言わないで立ち上がった。きっと帰ろうとしていたのだと思う。それを引き止めたのは確かに私で、私は彼のシャツの裾を掴んで離さなかった。私は私一人でいることがひどく不安だったから。


 彼は一瞬目を見開いたけれど、すぐに笑って「僕はライリー」と言った。


「お父さんとお母さんにバイバイしようか。もう会えないからね」


 ライリーに手を引かれて私はよろよろ歩く。いい子だったはずの私は、寂しさに耐えかねて悪い子に。そして私の人生は変わる。泥沼に沈んでいくみたいに。




 それから三日が経って、両親が行方不明になっていることを知った。もうしばらくしたころには、大西洋のどこかに沈んでいるか魚の餌になったことに気づいたし、そうしたのはほかでもない、ライリーであることもほとんど確信していた。


 私はたった一度だけ「騙したの?」とライリーを責めたことがある。


 でも彼は「嘘なんてついていないよ。選んだのは君でしょ」と笑うだけだった。私にはそれ以上どうすることもできなかった。帰る場所も、待っている人も一度になくしてしまったから。それにライリーは悪い男だったかもしれないけれど、酷い人ではなかったし。


 ただライリーは私の過去も未来も自由も、すべてを攫っていったのだ。

 私に残ったのはライリー一人だけ。






 アップヘアが崩れていないか鏡の前で確かめる。胸元のジュエリーに指紋はついていないか、リップはしっかり色づいているか。そして私は洗面台に手を付いて、「私はカトレア」と唱える。私はカトレア、今から人を殺す。


 カトレアというのは本当の名前じゃない。ライリーがくれた偽者の名前。


 私はこの名前が好きじゃなかった。カトレアは花の名前なのだと教えてもらったけれど、私は花なんて嫌いだ。昔、友だちからもらった花の種を植えて育てていたけれど、酔っ払った父親にすべて踏み荒らされてしまって、それからというもの、花を見るたび睨みつけたくなってしまう。


 私は深紅のマーメードドレスをひるがえしながら、長い廊下を歩いていた。ライリーからプレゼントされたこの服は、華やかなホテルに潜入するための仕事道具なのだ。


「ルームサービスです」


 目的の部屋について扉を四回ノック。扉が開いて、「ルームサービスなんて頼んでいないが」と怪訝そうな顔で言われる。女の声だったからかチェーンロックは外されていた。私はにこりと笑って、部屋に身体をすべりこませる。


 それからは簡単だ。


 後ろ手に扉を閉めて鍵をかける。距離を詰めた。「誰だ」なんて訊かれたから、「私、カトレア」と笑う。背後を取って左手で男の口を押えたら、もう片方の手で握ったナイフを首筋に。そして迷うことなく喉仏を掻っ切る。


 ぬるい飛沫が飛んだ。男はくぐもった声を漏らしたが、両手はもう力を失っていた。


 一撃で絶命させられるのは私に才能あるからだとライリーは言う。私に何もかも仕込んだのはライリーだったけれど、彼は思いのほか雑だ。つまるところ私は生まれながらこういうことに向いていたのだ。


「あーあ、汚しちゃった」


 ぐーっと伸びをして、ふっと脱力する。ドレスを脱ぎ捨てて、もう動かない身体の上に投げ捨てる。ブランケットみたい。そのままシャワー室に入って、べたべたになった全身を洗い流した。服は適当にクローゼットにあったのをもらって、ついでに男の胸ポケットを漁った。財布の中には紙幣がたくさん。


「ええと、一万が十六枚で、五千が三枚で、千が六枚……。全部でいくら?」


 分からなかったのですべてもらった。真っ黒なクレジットカードも忘れずに。カードは便利だ。出すだけでいくらでも物が買えるんだから。

 ライリーは「タダで買えるわけじゃないよ」と言ったけれど、お金を払わなくていいんだからタダと同じだ。私が首を傾げると、「君は馬鹿だなあ」と彼が苦笑いしていたのを思い出した。


 馬鹿って、酷い。思い出したら急に腹が立ってきたので、彼の名前しかない携帯を耳に当てる。


「もしもし、ライリー?」

「ああ、もう仕事終わったんだ。相変わらず早いね。もうすぐ後処理してくれる人が行くから、君は――」

「私、馬鹿じゃないわ」

「うん?」

「私は馬鹿じゃないって言ってるでしょ」


 電話の向こうで「何の話をしているのかな?」と困ったような声がしていた。私は「カードの話をしたとき」と言う。


「あなたが私のことを馬鹿だと言ったわ。どうしてそんな酷いことを言うの」

「ええ?」


 彼はきっと肩をすくめていただろう。


「僕の気と記憶が確かなら、それって一年も前のことだったと思うんだけど。もしかしてタイムリープとかしてる? 今って西暦何年何月何日?」

「ねえ、謝ってよ。私傷ついたんだから」

「はいはい、ごめんね。僕が悪いんでしょ。そんなことより早くそこを出なさい。秘書が見に来る」

「なんで? そんなの殺せばいいじゃない」

「君は人の仕事を増やさないということを覚えた方がいいね」


 私はベランダに出る。十四階の高さだと下から吹き上げてくる風も強い。私は柵を乗り越えて、下へとぶらさがる。サイズの合っていないシャツが風でまくれあがった。


「ライリー、また女の人のところでしょ」


 下の階へ降りる。繋いだままの携帯に耳を当てると、彼は「こっちも仕事」と苦笑した。


「いい情報をもらえたよ。まったく、上は人使いが荒いから困る」


 ライリーは私とは違って、殺しが専門じゃない。女の人と関係を持って情報を集めてくるのだ。彼の“恋人”はたぶん五十人を超えている。裏の世界に繋がっていたり、そんなことは欠片も知らない普通の人だったり素性はバラバラ。


 共通点なんて一つで、みんなライリーのことが好き。理由はとてもシンプルで、彼は欲しいものをちゃんとくれる人だから。私にはくれたことがないけれど。


「…………私、ピザが食べたい」

「また太るよ」

「なに、ライリー死にたいの?」

「君の思考回路って殺すか殺さないかしかないよね。僕、長生きできなさそうだなあ。墓地のおすすめとかある?」

「ライリーは殺さないわよ。たぶん」

「たぶん?」

「だってあなたのこと大事だもん」

「たぶんって何?」


 うるさいので私は電話を切った。






 私とライリーはあるホテルのツインで暮らしている。仕事が終わったら引き払って次のホテルへ向かう。そんなことの繰り返し。


 私の仕事はすぐに済んでしまうから、夜はたいていベッドの中だ。けれどライリーは数日帰ってこないことも珍しくない。今回の仕事はずいぶんと長引いているみたいで、もう七日間は顔を合わせていない。時々短いメールが届くくらいで、声も聞いていなかった。


 蒸し暑かったから、外で買ったアイスクリームをぺろりとなめた。ライリーがいないからベッドの上で食べたって怒る人はいない。


「…………つまんないの」


 秒針はカチカチと音をたてていた。カチカチ、カチカチ、馬鹿みたい。私は近くにあった枕を投げつけた。時計はガシャンと床に落ちて、それきり静かになった。私は満足して残りのアイスを平らげた。


 お腹いっぱいになったら眠くなってきた。私は電気も消さないままでうとうとし始める。


 しばらくすると扉のノブが回って、ライリーが顔を見せた。


「ただいま――」


 彼はむっとした顔で床を指さす。「これは何?」と訊くから、私は「時計」と教えてあげた。「すごくううるさい時計なの」と付け加える。彼は目元を覆ったままで大きくため息をついた。


「……中の電池を抜けばいいだろ……」

「そんなの分かんない。それに立つのは面倒くさい」

「それを片付ける僕の方が面倒くさいってことは分かる?」


 彼は時計を拾い上げてがちゃがちゃといじる。


「ああそうか、分かんないか。君は馬鹿だもんね」


 顔を上げたライリーはふっと鼻で笑った。私を小馬鹿にするその笑い方が私は大嫌いだ。


「酷い!」


 私はベッドの端にあったもう一つの枕も投げつけた。宙を切りながら飛んでいったそれは、ライリーの顔にばふんと当たる。そんなに痛くなさそうでむかつく。クッションも投げる。


「酷い、酷い。謝ってよ。謝りなさいよ!」

「そうだよね、僕が悪いんだよね。ごめんって」

「なによ、私がいなきゃライリーは仕事もできないんだから! 誰があなたの代わりに殺してあげてるか知らないの? あなたが下手くそだから、そのぶん私が働いてるんでしょ⁉ 私が上手じゃなかったらライリーはとっくに消されてたわよ!」

「…………はあ」


 息が続かない。ぜえぜえと肩を上下させる。ライリーは私の方をぼんやりと見ながら「そうだね」と呟いた。「でも君だって」と唇が動く。


「君だって、僕がいなくて何ができるの」

「っ! なんだってでき──」

「嘘」


 長いため息をついて、彼は椅子を引いた。どかっと腰を下ろしてデスクに両肘をつく。それがいつものライリーとは思えなくて、私は黙りこんでしまう。

 よく見ればお気に入りのネクタイはどこかに消えて、シャツのボタンの糸は乱れていた。少し様子がおかしい気がする。


「ライリー?」

「少し休ませて。すごく疲れているんだ。今はあまり話したくない」


 それきり彼は黙りこんでしまった。


 私はベッドから降りて彼のもとまで歩いていく。少しも振り返ってくれないから、腕を掴んで無理やりこちらを向かせる。彼は少し痛がるように目を見開いた。


「……!」


 乱暴に彼のシャツの袖をまくる。日焼けしていない白い肌には点々と赤い跡が散っていた。いつもの愛情表現のそれとは違う、火傷の跡だ。たぶん煙草を押し付けられたのだろう。


 私は息を飲んでいた。


 ライリーは無理やり腕を振り払おうとするから、ぎりぎりと握りしめてシャツの裾をめくり上げる。腹にも火傷があったし、青あざまで。


「誰」


上手く声が出せない。喉の奥がかすかに震えている。


「誰がやったの」

「言う必要ある?」

「言ってよ! 誰がやったの!」


 彼はへらっと笑って、「仕事の出来が悪いってさ」と吐き捨てた。


「まあ二日で終わる予定だったからなあ……。自分でも長引いちゃったなとは思ったよ。それにしても僕の仕事道具を傷だらけにするのはやめてもらいたいよ。ますます出来が悪くなったら責任問題だ」

「どうして黙って酷いことされるの」

「あの筋肉に色仕掛けしろって? あまり無茶なこと言わないでよ。吐きそう」

「殺しちゃえばいいじゃない! そうよ、邪魔な人なんて全員殺せば──」

「馬鹿だな」

「っ、ライリー」

「馬鹿」


 私が何か言うよりも先に、彼は腕を伸ばしていた。私の首に両腕を絡めてゆっくりと抱き寄せてくる。私はびっくりして、一瞬動けなくなってしまった。唇が開く。彼がそんなことをしたのは初めてだったのだ。


 彼の恋人か何かと間違えているんじゃないかと思って、とっさに突き飛ばそうとした。けれど彼は私の名前を呼んだ。「カトレア」と偽物の名前を。私はその名前が嫌いなのに。


「君だけだよ、そんなことを言うのは」


 私の肩に顔をうずめたまま、もう一度「君だけ」と呟く。彼の声は少しざらついていて耳の奥で反響する。私は彼の背を撫でてあげることもできなくて、されるがままだった。







 昔、ライリーと観覧車に乗ったことがある。今でもよく覚えている。


 ライリーが「遊園地に行こうか。花火もやるらしいよ」なんて急に言いだして、町で一番大きいテーマパークに連れていかれたのだ。甘いキャラメルがたっぷりかかったポップコーンとコーラを買ってくれて、私はどうしたらいいのか分からなかった。遊園地なんて初めてだったから。


 当時二十歳にもなっていなかったライリーとは、きっと仲のいい兄妹に見えていただろう。


 外のフードコートで「どれに乗りたい?」と訊かれて、私は散々困ったあげく、一番近くにあった観覧車を指さした。親にせがむこともできなかった観覧車。


 食べかけのポップコーン缶を両手で握ったまま二人で乗った。彼はチケットを二枚指先に挟んでずっと私を見ていた。私は外の景色ばかり見ていたのに、彼は私だけを見ていた。


「ライリーは、なんで」

「うん」

「なんで、悪い人になったの?」


 彼はようやく私から視線を逸らした。いつもみたいに静かに微笑んでいる。夜、下から伸びるまぶしい光が彼の横顔を艶やかに照らしていた。


「そうしないと僕は生きていけなかったから」

「なんで?」


 返事はない。私は聞こえなかったのかと思ってもう一度訊く。ライリーはうっすらと開きかけた口をゆっくりと閉ざした。


「見て、花火」


 ライリーは窓の外を指さした。真夏の空に散っていく光がきれいで、私は窓ガラスにべったりと指紋をつけながら眺めていた。こんなに近くで見たのは初めてだ。


 狭くて蒸し暑い観覧車のなかに閉じこめられた私たちは、お互いと外の花火だけがすべてだった。


「高いね」

「……高いところは嫌い?」

「そうだなあ、僕は地面の上にいる方が好き」


 ライリーは呟くみたいに言った。


 大して怖がっている様子ではなかったけれど、それから観覧車が下に降りるまで、私は彼の隣に座ってあげた。怖くないように手を握って。ライリーは「ありがとう。優しいんだね」と笑っていた。今思えばきっと観覧車なんて興味がなかっただけなのだろう。話すべきことなんて何一つなかったのだ。


「僕には選ぶ権利なんてなかったんだ、最初から」


 観覧車は回り続ける。ゆっくりと。

 ライリーは私に優しくなんてしてくれない。その日だってきっと気まぐれだった。


 それでも私には十分だった。嬉しかったのだ、本当に。これから先彼にどんなに酷いことをされても良かった。私はこの日のことさえ忘れなければ生きていけると思った。本気で思っていたのだ。



 だから最初の仕事の日だって、ライリーのことを恨んだりしなかった。


 私が初めて人を殺したのは、遊園地に行った次の日のことだ。


 短いスカート、きらきら光るアクセサリー。握らされたのは一本のナイフ。私の肌を撫でようとするその手を刺して、息もできないままに首筋に突き立てる。何度も突き立てる。心臓がばくばく鳴っていた。気持ちが悪かった。無我夢中だった。


 ライリーはそばの柱にもたれかかって、全部見ていた。


 返り血まみれになった私は、まとわりつくような濃い血のにおいに吐き気を催した。うっと息を詰まらせて、堪えきれずに戻す。ライリーは柔らかく微笑みながら「上手にできたね」と言った。どっちが? 殺すのが、それとも吐くのが?


 自分の両手を見る。まだ感触が残っている。怖くはなかった。けれどとてつもなく気味が悪かった。もう取り返しのつかないところまで来てしまったような気がする。戻る場所なんてライリーの隣以外どこにもないのに。


 息が苦しくて、目の端に涙が浮かんでいた。


 天井のシャンデリアが揺れて光が散る。


 ずっとこんなことを続けていくのかと思った。ずっと二人で。死ぬまで。今度は自分が捨てられるまで。それを誰かは絶望と呼んだのかもしれない。


「大丈夫、すぐに慣れるよ」


 彼はしゃがみこんで私の涙をぬぐう。


「僕のカトレア」


 カトレア、カトレア、カトレア――私は人を殺す。あなたの言う通りに、あなたのために。

 だから私はたった一つ、ささやかな夢を見た。






 糸はプツンと音を立てて切れる。そしてふと思い立った――全部終わりにしようって。


 チャイムは鳴らさなかった。

 ヒールがカツカツと音を鳴らす。誰かが振り返って、私を指さした。男たちが不審そうな顔で「止まれ」と言う。私は止まらない。ただ前に進む。


 一人が私の肩を掴んだ。ぎりぎり。痛い。痛かったから、私はドレスの裾を払う。太ももに仕込んでいるベルトに差してあるのは私の仕事道具。


 一閃。真っ直ぐに引かれた線と、倒れていく身体。


 誰かが意味を理解して、怒号が飛び交った。くるりと転回。白いドレスはふわっと宙に舞った。ヒールがカツンと軽快に鳴る。手元で回すナイフ。カーペットはどんどんとシミを作っていく。気づいたときには笑っていた。なんだかとても生きたような心地がしていた。


 しばらくすると部屋はしんと静かになっていた。


 私はゆっくりと息を吐いて、「なあんだ」と呟く。なんだ、こんなに簡単だったのね。もっと早くにこうしていればよかった。私を縛る物なんて最初から何もなかったんじゃない。ライリーの嘘吐き。


 ライリーがやってきたのは数分後だ。バタバタと足音がして、乱暴に扉が開けられる。珍しく走ってきたらしい彼は汗をにじませていた。緑色の目は素早くあたりと見回して、それから私を映す。信じられない物を見るような目だった。


「カトレア」

「なあに」

「カトレア、君は、何を」


 彼は最後まで言い切らない。私はナイフをしまって、彼の目の前まで歩く。


「なんで、こんなことを」

「どうしてそんな顔するの? ライリーだって酷いことたくさんされてきたのに。少しはすっきりしたでしょ? 清々したって思うでしょ?」

「こんなことをしたって何にもならない!」


 彼は叫ぶ。

 思わずむっとしてしまった。ライリーはいつだって難しいことばかり言うのだ。世界はもっとシンプルにできているはずなのに。彼は髪をがしがしとかき乱しながら「君は一体何がしたいんだ」と吐き捨てるように言った。


「夢があるのよ」


 ナイフの刃先を返り血が伝う。


「私、普通に生きてみたい……」


 彼が「は?」と目を丸くした。

 オレンジ色の薄暗い光が、長い影を作っていた。


 どうしてだろう、顔を上げられない。緩く握った手のひらがじっとりと汗ばんでいる。すごく怖かった。こんなことを言うのは初めてだったから。


「普通の人みたいに、普通の女の子みたいにね、生きていきたいの。朝に起きて夜に寝て、勉強して学校にも通って、一人でいいから友だちがほしい。それで学校を卒業したら普通の仕事をして、紺色のスーツを着て働きたい。みんなみたいになりたい。だからそう、もう――この仕事をしていたくないの」


 返事がない。沈黙が痛くて、私は早口で続ける。


「今のままだって嫌じゃなかった。そう思ってた。でも何かが違うの。ライリーは私に選ばせたって言うけれど、こんなことになるなんて一つも訊いてなかったわ。あんまりよ。あなたについて行ったあの日から今日までずっと――ずっとよ。私はいい加減自由になりたいの。普通に、自分で生きたいの」


 ちゃんとライリーの目を見なくちゃいけない。私は勇気を出して顔を上げた。視線を滑らせて、床のカーペットから彼の足元、そして顔へ。彼はゆっくりと腰を上げた。そして私へ近づいてくる。


「…………ああ、そうか」

「私、もう自由になりたい。自由に。それであなたを――」


 その先は言えなかった。手首を掴まれて引き寄せられる。私の口は乱暴なキスで封じられていた。


「――っ!」


 彼にはたくさんの女性がいたけれど、彼が私に手を出したのはただの一度もなかった。


 片手で押しのけようとするけれどビクともしない。後頭部を掴まれているから顔も逸らせない。苦しかった。息を吸えない。


 瞬間、熱が走った。


 腹の奥を貫くようなそれは瞬く間に広がっていく。それが熱ではなく痛みであることに気が付いたのは、さらに五秒後。私は視線だけを恐る恐る下に向ける。私とライリーの身体の隙間には鈍く光るナイフがあって、それは私に突き立てられているのだ。


 ふ、と唇が離れる。伝う唾液。ライリーは微笑んでいた。


「馬鹿だなあ、カトレア」


 太ももからふくらはぎまで血が伝う。痛い。


「君は一人でなんて生きていけない。本当に馬鹿だね。どこにも行けやしないよ」

「…………?」

「字は書けない、計算もできない、法を犯すことに何の躊躇もなければ、常識も良識も欠けている。君は子どもそのものだ。君にできるのは僕の言う通りに人を殺すことだけ。最初から分かってただろ。なのにどうして自由になれるだなんて勘違いしたのかな。そういうところがどうしようもなく愚かなんだ」

「だっ、て、私」


 私、自由になりたかったの。言うとおりばかりは嫌だった。自分の頭でちゃんと考えたかった。暗いところを出て、もっと明るい方へ。


 ライリーはナイフを持っている手を離す。いまだ刺さったままのそれからは、だらだらと血が溢れ続けていた。真っ白だったドレスは赤黒く染まっていく。


「ずっと僕のものでいればよかったんだ。余計なことも難しいことも、何も考える必要なかった。ただ僕の言うことだけを聞いていればそれでよかったのに。それなのにどうして君は僕を裏切る? 本当に、君は……」


 彼の瞳は氷を張ったみたいに冷ややかだった。それはきっと失望の色だった。


 膝がガクガク震えていて力が入らない。言葉も考えもまとまらない。何もかもが波にさらわれて、真っ白に泡だって消えていく。


 ライリーの言うことがひどく身勝手であることは分かっていた。分かっていたけれど、私にはライリーしかいなかった。それに私は彼を信じていたのだ。今までも、そしてこの先どれだけ酷いことをされても、私は彼だけを信じていようと思っていたのだ。


 なのに、あなたは違う。

 裏切る? たった今裏切ったのはあなたじゃない。


 私だってけっして、あなたを信じて愛しているだけじゃなかったのよ。


 私の両親を殺して、私を連れ去って、私をいいように使って、私を思い通りに支配して、私の好きじゃない名前で呼んで――それなのに、それでも。私は!


「あ、あ――」


 その声はもう言葉にならず、悲鳴とも咆哮ともつかなかった。


 喉が裂けそうなくらいに叫んで、私は彼に掴みかかっていた。シャツの襟を掴んで後ろに引きずり倒す。彼の細い身体は重心が崩れてスローモーションみたいに落ちていく。


 私は足に仕込んだナイフを抜いていた。目の前の男がただ憎かった。もう全部どうでもよかった。どうにでもなればいい。ごうごうと燃え盛る炎のように私の両目は熱を宿していた。


 窓から吹き込んだ強い風が血飛沫を巻き上げる。私の頬にも生ぬるい液体が飛び散った。


 呼吸ができないくらいに喉がひきつっていて、息の仕方を忘れてしまったみたいに口をぱくぱく動かしていた。一拍置いて、心臓が思い出したみたいにドクドク動きだす。内臓を圧迫するほど激しく。


「ライ、リー?」


 ふと頭が冷える。

 いつの間にか私は彼に馬乗りになっていた。彼は毛足の長いカーペットに仰向けになって、身じろぎ一つしなかった。淡いグリーンの瞳は見開かれたままで宙の一点を見つめている。どろりと濁って。


「ね、起きて」


 指先で彼の肩をつつく。ゆっくりと揺する。ゆさゆさ、何度も揺する。

 ライリーの目玉はピクリとも動かない。


「ライリー、ねえ、ライリーってば。私今なら許してあげるわ。怒ってないのよ、嘘じゃないわ。だからもう起きていいよ、ライリー」


 私のナイフは彼の肋骨の間をすり抜け、心臓を一突きにしていた。そして私はとんでもないことをしてしまったのだと気が付いて、全身に鳥肌が立つのを感じていた。


 どうすればいいのか分からなくて、座りこんだままで青ざめていた。いつもはライリーが全部教えてくれたのに、その彼が何も言ってくれないのだ。私は彼の死体を前にすっかり困り果ててしまった。


 私の身体にもまだナイフが突き立てられている。とにかく抜かなくちゃ。ナイフの柄を握って勢いよく引き抜く。すると血がますます溢れてきて、私は咳とともに吐血した。


 少しも血が止まらなくて、彼の身体にすがりつくみたいに服を掴んだ。「どうしよう。ねえ、どうしたらいい?」と必死に問いかけるけれど返事はない。その時指先が彼の胸ポケットにかすって、何か入っているのが分かった。慌てて引っ張り出す。


「写真……」


 ずっとポケットに入れっぱなしだったのか、くしゃくしゃになって傷だらけだ。ところどころ剥げてしまっている。でもそれがずっと昔の私を映していることに気が付くまで、そう時間はかからなかった。


 盗み撮りだったからか視線はこちらを向いていない。背景には観覧車。真夏の夕陽。胸元に抱えこんでいるのは、キャラメルポップコーンの大きな缶。


 こんな写真、知らない。彼がこんなものを持っていたことなんて。


 私はぱっと裏返す。黄ばんだそれには鉛筆で走り書きしたような跡があった。日付と文字だ。それも私が知っている数少ないスペル。


「やだ……」


 ミア。


 私の、本当の名前。


「やだ、やだ、やだ――」


 自由になりたかった。あなたの言う通りじゃなくて、ちゃんと自分で生きていきたかった。そして偽物の名前なんかじゃなくて、本当の、もうこの世界であなたしか知らない名前を呼んでほしかったのだ。あなたに。それであなたの全部を許してあげられた。


「私の名前なんて一度も呼んでくれなかったくせに。もう忘れたって笑ってたじゃない。なのに、なんで。なんで」


 何度訊いても彼は教えてくれない。そうするうちに息が深く吸えなくなってきて、私も彼そばに寝そべるみたいに倒れこんでいた。喉だけがひゅうひゅう鳴る。


 たった一つ、ささやかな夢を見た。


 自由になりたかった。私と、そしてあなたを苦しめているすべてからあなたを攫って、二人で自由に生きたかった。


 もう何もかもが台無しだ。ライリーのことさえ何一つ分からなくなってしまった。何年も一緒にいたはずなのに、だってあなた何も教えてくれなかったんだもの。悲しそうに微笑むばかりで、一つも言葉になんてしてくれない。


 だんだんと熱を失っていくライリーの手に小指を絡める。乾く唇を動かした。まだ声が出る。


「……今度は、私が」


 掠れる。


「私があなたを攫ってあげる。二人で生きていける場所まで。二人で――」


 優しくなくたっていい。私にはあなたしかいないし、あなたにだって私しかないのよ。大丈夫、ライリーのことは私が守ってあげるから。だから笑って。


 笑ってよ。


 指先は離さないまま、静かに目を閉じた。






 とある拠点の通信がぱたりと途絶えたから、その男は様子を見にいくよう指示された。


 扉を開けると眩暈がするほど濃い血の臭いがただよってきて、思わず息を止めてしまう。いくつもの死体が転がっていて、まさに凄惨という言葉がふさわしい景色だった。


 シャンデリアの真下には男女が倒れていた。


 男はしゃがみこんで身体をひっくり返す。どちらも息をしていなかったし、血の気のない顔をしていた。けれど二人して驚くほど綺麗な顔をしていた。


 男の方は確か、ライリーとかいう情報屋だったはずだ。ということはそばの女は、いつも彼が連れているという――。


「もう死んでる奴のことを考えたって意味はないな」


 苦笑する。死人なんてどうでもよかったけれど、なぜだか蹴り飛ばす気にもなれなかった。しばらくしゃがんだままで二人を眺める。


 男は寂しがりの顔をしていたし、女はすがりつくように男のシャツを握っていて、血まみれの小指は固く絡められていた。絶対に離さないとでも言いたげに。


 二人がどんな関係だったかなんて知りもしない。けれどそれが一つの答えかもしれない。男はふはっと笑った。


「くたばった後くらい、いい夢でも見るんだな」


 マッチを擦る。

 ゆらりと揺れる炎を放って、片手を振った。

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あなたのためのカトレア 月花 @yuzuki_flower

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