続編・柑橘について

村上 耽美

自戒

 雨によって実が落ちたのか、実が落ちた故に雨が降ったのか、これはいつになっても解明されぬのだが、ここではっきりと言えるものは、このふたつの事象は確かに起こったということである。舌を劈く柑橘は雨に曝されて酷く腐敗してしまった。私はそれを素足で踏み潰してみる。果肉が潰れる感覚が痛覚として心に伝達される。何度も何度も踏みつけて、踵で果肉を擦り潰して、その度に笑ってしまうほどその痛みは享楽的だった。これは自虐や自傷に近い、言い換えるならば痛みによって「自分」という存在を目の前に突きつけるものであるから、そうでもしなければ自己を保っていられないような気がしていた。

今まで、虚無感と死は隣り合わせであった。しかし今回は違う、虚無感の隣にも、あるいは先にも死はない。このような負の衝撃を受けるとき、大抵私とは遠かれども死を見ていた。だが今、先には何もない。だがこの先に一筋の光も、一本の松明も見えないのである。死せずにただ怠惰に生き、先が見えぬ道をトボトボと歩く。これは私にとって、とても大きな不安である。


 実は落ちた。私の心身から切り離された。しかし私がこの足で踏んだこの柑橘は明らかに自分の心であった。この果汁は私の血であった。きっとずっと前から柑橘は私の傍には居なかったのかもしれない。どこかに転がっていたのかもしれない。私が隣に置いていたものは、虚像なのか、偽物なのか、はたまた何もなかったのではないか。私は何を愛でてここまできたのだろう。恋は盲目である。この言葉が今当てはまるとしたら、私はずっと何も見えていなかったことになる。これを否定する言葉も見当たらぬ。何に手を引かれ、ここまで導かれたのか。



 夢のようだった。目を開けたら傍にいることも、声を発すれば返答があることも、夢のようだった。都合のいい夢である。盲目から多少醒めて直面させられた現実は耐えられるものではなかった。そこには私のエゴや過剰な自意識、ナルシズム的愛情表現の痕跡しか残っていなかった。夢遊病にも程がある。こんな夢なんぞ見たくはない。


              厄介な依存症。


 こんなことを言いながらも私はきっとまた他の拠り所を探してしまうのだろう。また夢を見てしまうのだろう。この心にあいた穴のそこはかとなく痛むことが、禁断症状のひとつならば、私は夢を見る前に自分と向き合わねばならぬ。


 心の穴は、物体では埋まらない。何をここの空洞に詰めるのか、私はよく考えなければならない。

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