怪盗Sの消失

仲里恵亮

第1話

 森田歩美がその怪盗の噂を初めて聞いたのは、もう一年以上前のことになるだろう。

 神出鬼没の怪盗は、美術館、宝石店、富裕層の邸宅などに現れては、すばやく獲物を捕らえたあと煙のように消え去った。メディアでは連日この怪盗のことが取りあげられ、歩美も食い入るようにニュースを見ていた。もちろん警察は総力をあげて捕まえようと躍起になったが、怪盗は彼らをあざ笑うかのようにするりと身をかわした。

 あるときなどは、怪盗は一流ホテルで盗品を物色中に警察に包囲されたのだが、警察が中に入って捕まえようとしたところ、怪盗の姿はなく煙のように姿をくらましていた。実は怪盗は警官の姿に扮していて、物陰にじっと隠れて、入ってきた警官たちにまぎれて逃げたらしい。

 また別のときには、怪盗は美術品を盗んでいるところを警備員に取り押さえられたことがある。いよいよ運も尽きたかと思われたが、怪盗を乗せた護送車の運転手がいつの間にか怪盗の仲間とすり替わっていて、またしても逃げおおせた。

 怪盗はまだ二十代から三十代の若い男だと言われているが、その正体ははっきりしていない。変装の名人で、様々な衣装とメーキャップ技術を駆使して、老若男女あらゆる人間に化けることができるからだ。

 またこの怪物には妙に茶目っ気があって、犯行を終えると、名刺代わりに犯行現場にカードを残していくのを習慣にしていた。そのカードにはアニメのキャラクターのようなデフォルメされた蜘蛛の絵が描かれていた。やがて人々はこのカードにちなんで、「怪盗スパイダー」と呼ぶようになった。

 このような怪盗の暗躍に、多くの人々は憤慨していた。他方で、なぜか喝采する者たちも多かった。歩美にはまるで理解できない心理だが、彼らは富裕層がぎゃふんと言わされているのを見て留飲を下げたのかもしれない。

 歩美は渋谷区にある宝石店で働く二十代後半の女性だ。宝石店の販売員ということで、怪盗に狙われる立場の人間なので、当然のことながら怪盗には敵意しか感じなかった。怪盗の噂を聞くたびに、早く捕まればいいのにといらいらしていた。とはいえ、まさか本当に自分がターゲットになるだろうとは思ってもみなかったが……。

 

 それは十月の肌寒いとある夕暮れどきのことだった。

 歩美の勤めている〈リュミエル宝石店〉の扉を、ひとりの高齢の婦人が入ってきた。白髪のその婦人は、すらりと背が高く、ベージュ色のジャケットに黒のズボンという身なりをしていた。

 歩美はこの店に勤めるようになってから数年になるので、この店の客層は大体わかっていた。その婦人はこの店によく来るおしゃれな女性のひとりに見え、疑う理由などどこにもなかった。婦人がサングラス越しに陳列ケースを熱心に覗きこんでいるのを見て、歩美は笑顔で声をかけた。

「気になるものがあればぜひおっしゃってください。ケースから取り出しますので」

「ええ、ぜひお願いしたいわ。これを見てみたいのよ」

 婦人がダイヤモンドのネックレスを示したので、歩美は取り出した。黒い布張りのトレイにネックレスを移すと、婦人の目の前に置いた。宝石を間近に見て、婦人は思わず感嘆のため息を漏らした。

「まあなんて綺麗なの。この細工もとっても素敵ねえ」

 歩美も同調するようにうなずいた。この婦人の審美眼はなかなか優れているようだ。たしかにその宝石はこの店でも自慢の高価な品物だった。

 そのとき右の方から耳慣れない妙な音が聞こえてきたので、歩美は驚いた。音のする方を見ると、床から白い煙がわきあがっていた。

 火事……?

 他の販売員や客も気がついたようで、いっせいに店内がざわついた。

 歩美は急いで煙の方に移動して、原因をつきとめようとした。それは火事ではなかった。発煙筒が転がっていて、煙が噴き出ていた。なんでこんなところに発煙筒があるの?

 歩美がふと顔をあげると、例の婦人がいつの間にか陳列ケースの前からいなくなっていた。ウィンドウの外を婦人が駆け足で横切っていくのが見えた。

 はっとしてトレイを確認すると、ネックレスがなくなっている! あの婦人が持ち去ったに違いない。あの発煙筒は注意をそらすためのおとりだ。

 歩美はあわてて近くにいた警備員の高山健司に知らせた。

「高山君、大変よ。女性にネックレスを盗られた。外に逃げていったわよ」

「しまった! あの煙に気をとられて気づきませんでした」高山は顔をしかめた。

 歩美と高山はすぐに婦人を追いかけて外に飛び出した。あたりはもう暗くなっていたが、街の明かりで通りは見渡すことができた。

「向こうの方に行ったわ。ほらあそこ!」

 婦人はすでに通りのかなり先まで進んでいたが、そのうしろ姿がはっきりと見えた。やがて婦人は脇道に入り込んで見えなくなった。

 歩美たちも急いであとを追った。婦人が消えた脇道を曲がろうとしたところ、脇道から出ようとしていたコート姿の老人に危なくぶつかりそうになった。

「ああ、ごめんなさい。ここを婦人が通りませんでした?」歩美は言った。

「通りましたよ。あそこに……」

 老人は脇道の奥の方を指さした。その道には街灯がなく、ほとんど真っ暗でよく見えなかった。一瞬どこかから光が投げかけられ、わずかな間だったが、突き当りに婦人の姿が見えた。婦人は左の方向に走っていく様子を見せたが、すぐに見えなくなった。

「あれだ! この道はたしか一本道で最後は行き止まりだったはずです。捕まえられますよ」高山が言った。

 歩美たちは真っ暗な道をそのまま突っ切った。突き当りに来ると、婦人と同じように左の方に旋回した。

 高山の言う通りそこは行き止まりだった。道の奥に背の高いレンガ塀がそびえている。左側のビルの壁には出入口はなく、窓はどれもはめ殺しだ。右側には赤い提灯で飾られた中華料理店があり、店内からにぎやかな音楽が漏れている。路上には婦人の姿はどこにも見えない。

「いなくなったわ。奥の壁を乗り越えるのは無理ね。きっとあの店に入ったんだわ」

 歩美と高山が中華料理店の中に入ると、店員の年配の男性が愛想のよい表情で近づいてきた。

「いらっしゃい。おふたりさまですね?」

「あのう、それが違うんです。人を探していて。たった今、ここに女性が入ってきませんでした?」歩美は尋ねた。

「女性ですか? いえ、来ませんけど」

「えっ? でもそんなはずは……」

 歩美は店内を見まわした。小さな店で入口から全体を見渡せた。客はまばらにいるだけだ。漫画を読んでいる学生風の若い男、ビジネスマンふたり組、にぎやかに会話を楽しんでいる家族連れの三人、頭の禿げた老人。ただそれだけだった。あの婦人の姿はどこにもない。

「こっそり入り込んで裏口から出て行ったなんてことはないでしょうか」歩美は男性に聞いた。

「それはないですね。変な人が入って来たらすぐに気づきますよ」

 歩美は呆然とした面持ちで店の外に出た。

「あの女の人、消えちゃったわ! こんなことありえない」

「どういうことなんでしょう。まさか見間違いってこともないでしょうし」

「ふたりとも見間違うなんてことないわ。それにあのコートのおじいさんも目撃しているのよ」

 奥の壁のそばで、高山がかがみこんで何かを拾い上げた。

「なあに、それ?」歩美が聞いた。

「なんでしょうね。暗くてよく見えませんが、何かのカードみたいです」

 中華料理店の明かりの方に近づいてカードを見ると、そこには漫画の蜘蛛の絵が描かれてあった。その蜘蛛は大きく歯を見せて不敵な笑みを浮かべていた。

「このカード、見たことがあるわ!」

「僕も見たことがあります。これは怪盗スパイダーのカードだ。くそっ、あの婦人は怪盗の変装だったんだ。どうやったかわからないが、やつのトリックにしてやられたんですよ」


 そのあとすぐに警察がやってきて、付近を捜索してまわった。歩美たちは警察から事情聴取を受け、見聞きしたことはすべて伝えた。それからしばらく捜索は続いたが、結局何もみつからなかった。

 こうして解決のめどが立たないまま、二週間が経った……。

 歩美は日曜日の午後、新宿駅近くの喫茶店に来ていた。そこで歩美の伯父である千石龍馬と会う約束をしていたからだ。

 歩美が千石と会うことになったのは、例の事件のことについて相談するためだった。千石はこの種の相談をするにはうってつけの人物といえた。千石は有名なミステリー作家で、数々のベストセラーを世に送り出していた。犯罪の手口を日々研究し、あらゆるトリックに精通していた。警察に協力して実際に殺人事件を解決したことまであるらしい。

 歩美は子供のころから、伯父のことがお気に入りで、伯父が日常生活において披露する鋭い推理に驚かされたものだ。

 歩美が千石に事件の経緯を伝えると、千石は大きな声をあげて笑った。

「ひどいわ伯父さん。笑うなんて! 大変な被害が出ているのに」歩美はこわい顔をして言った。

「いや、すまないね。でもどうせ盗難保険に入ってるんだろう?」

「そういう問題じゃないわ。あの怪盗に馬鹿にされたのが許せないんです。だから伯父さんの手を借りたいの」

「でもねえ、これだけ時間が経ってるんだ。今から捕まえるのは難しいと思うよ」

「それでもあいつがどうやって消えたのか、せめてそれだけでも知りたいんです。手口が分かれば警察の役に立つかもしれないでしょう」歩美は言った。

 千石はそれを聞くと、笑みを浮かべた。

「まあそういうことなら、助けてあげられるかもしれないね」

「よかった。ぜひお願いします。まるでわけが分らなくて。あの状況でいなくなるなんて不可能なはずだわ」

「そうかな? 不可能ってことはないと思うな。少なくとも三つは可能性が考えられるよ」

「三つも……?」歩美は目をぱちくりさせた。

「例えば、道の一番奥にあった壁だ。高くて乗り越えられないと言ったね。でも、縄梯子があれば乗り越えられるよ。怪盗は周到なやつだ。あらかじめ設置していた縄梯子を使って壁を乗り越え、君たちが来る前に外したのかもしれない」

「それは難しいと思います。警察が壁の奥の方も調べたらしいんですけど、私有地になっていて、赤外線センサーがついていたようなんです。誰かが侵入していれば警報が鳴ったはずです」歩美は残念そうに言った。

「なるほどね。それなら奥の壁を乗り越えた可能性はなくなるね。それじゃあこんなのはどうかな。例の中華料理店だ。店員はそこに女性が入るのを見ていないと言ったね。でも男が入ったのかもしれない。中にいた客のひとりが怪盗の変装だったのかも。婦人のかつらを取って、素早く衣装を変えれば簡単に別人になりすますことが可能だ」

「それならわたしも考えました。でも違うみたいです。警察が調べたところ、店にいた人間はどれも身元がはっきりしていて、不審な点はどこにもないようなんです」

 それを聞くと千石はくつくつと笑った。

「それは面白いね。奥の壁を乗り越えた可能性も消え、中華料理店の可能性も消えた。となると、残る可能性は絞られてくるじゃないか」

「他に可能性はありません。あの道で他に隠れる場所はなかったわ」歩美はさけんだ。「伯父さんは三つ可能性があるって言いましたね。最後の一つは?」

「一番有力な説だよ。でもその前にいくつか質問があるんだが、いいかね」

 歩美がうなずくと、千石は神妙な面持ちをして尋ねた。

「怪盗は大通りから脇道に入り、そのまま突き当りまで走って、左に旋回したんだったね。その脇道のあたりは随分暗かったんじゃないかな?」

「ええ、真っ暗だったわ。街灯も何もないんだもの。どうして分かるのかしら」歩美は驚いた。

「次の質問。その脇道の突き当りには何があるんだろう? 昼間の明るいときに見たことはあるかい?」

「あそこにはなにもありませんよ。建築工事中で、安全パネルで全面覆われています。そこを乗り越えたっていうこともないわね。高さがかなりあるし、怪盗が走っていくのを見たんだから。でもそれが何の関係が?」

「最後の質問だ。君たちが脇道を怪盗を追いかけていったときに、誰かが通り過ぎなかったかい?」

「どうして知ってるんです? おじいさんが一人通り過ぎましたね。危なくぶつかりそうになって」

 千石は満足そうにうなずいた。

「なるほど、それで分かったよ。真相は単純なことだったんだな。怪盗は間違った方向に注意を向けさせようとしたんだ。手品師がするみたいにね」

「どういうことですか?」

「いいかい、行き止まりの壁と中華料理店の可能性は消えたね。となると可能性はひとつだ。怪盗は入ってきた道をただ引き返したんだよ」

「そんなはずはないわ。誰も見なかったもの」歩美は口を挟んだ。

「おいおい、君はさっきおじいさんとすれ違ったと言ったじゃないか」

「まさかあのおじいさんが怪盗だったって言うんですか?」

「その通りだよ。怪盗は婦人の姿で脇道に入り込むと、急いで老人の姿に変装したんだろうね。かつらとサングラスを取って、用意していたコートを羽織るだけだ。難しいことじゃないだろう。それから来た道をそのまま引き返したんだ」

「でも、わたしはおじいさんと婦人の姿を同時に見ているんですよ」

「そこだよ。それこそがおかしな点なんだ。その脇道は街灯がなくて真っ暗だったと言ったね。だとすると、なんで婦人の姿が見えたんだろう」

「そういえば不思議ね。あの辺には光源になるものは何もなかったわ」

「こういうことだと思うよ。君たちの見た婦人の姿は本物じゃない。あれは映像だったんだ。背景が暗ければ怪盗だけ浮き上がって見えるだろう」

「そんな。大きなスクリーンが設置されていればわたしたちも気づいたはずよ」

「そうだね。でもプロジェクターは直接壁に投影することもできるんだ。突き当たりにあったのは工事用のパネルだったね。多分よくある白い鋼板だろう。映像を投影するにはぴったりだよ。隠していたプロジェクターは、君たち中華料理店に入っている隙に持ち去ったんだろうな」

「でもそれが真相だとすると、もう捕まえようがないわね。あのおじいさんの姿も変装に決まっているもの」歩美は肩をすくめた。

 千石は腕を組んで愉快そうに言った。

「ああそうだね。なかなか面白いやつだよ。人を煙に巻いてさ。でもまたいつか現れるだろう。今頃どこかでまた別の計画を練ってるんじゃないかな……」

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