第11話 ハイシン

 橘健午邸に健午と妻の紅葉が退院して自宅療養をする事となり帰宅した。

 迎えたのは娘の五月と祖母である鳴神菖蒲、全員で快気祝いが催された。

 アヤメは月鳴神会の会長であり、その孫の五月は教祖的象徴「月詠み」である。

 健午を除いた四人で、その宴は始められていた。


「お母さん、ご心配をお掛けしました」


「紅葉…」


 ダイニングでは退院した紅葉をアヤメと五月が囲んでいた。

 こうして三人が一緒になると祖母と母と娘であり孫である関係がよく判る。

 アヤメと紅葉と五月は、その見た目から雰囲気から似通っていた。

 更に紅葉はナツハの母で自死した早苗と双子である。

 しかし、その娘であるナツハと五月は似てはいない。

 幼い頃は、よく姉妹と間違えられていたというのに。

 成長していくにつれて、どんどん異なる雰囲気を醸し出し始めたのだ。


「ナツハの様子は、どう?」


「もう直ぐ退院するみたいな事を言っていたわ。

 でもウチで一緒に暮らすのは気が進まないみたいだった」


 見舞いに行ってきた五月は本当に残念そうに話した。

 紅葉も残念そうに表情が曇る、それを見てアヤメが言った。


「ナツハが戻れば、またワタシが面倒を見ます。

 例えワタシ一人でも麦秋の分までナツハを育て上げて見せます」


「あの広い家に、たった二人で…」


 その紅葉の言葉に五月は、ほんの少し違和感を感じた。

 ただ、その正体は分からなかった。


(会長の言葉にも、この状況にも違和感を感じる。

 何かがズレている、それで何かが隠れてしまっている…)


 せっかくの退院祝いの宴なのに、まるで通夜みたいになってしまった。

 紅葉が雰囲気を変えようとして話し始めた。


「あの家で院長は亡くなられました、もはや売ってしまった方が…」


「でもナツハは、あの家に戻りたいって」


「麦秋と早苗の想い出が残されているからでしょう」


 アヤメの答えに皆の言葉が詰まって沈黙が訪れた。

 五月は、その場の皆とは全く違う理由で沈黙していたのだが。


(おかしい、やっぱり何かが隠れている。

 それとも誰かが、と言うべきか)


 今夜の退院祝いの、もう一人の主賓である健午の姿は無い。

 未だ部屋に籠ったまま、その姿を現わす気配も無い。

 それが、この宴の不自然さを強調してしまっていた。

 五月は、それも気に喰わない理由の一つでもあった。


(不在の人間の方が、その存在感を強く漂わせている。

 その中に上手く隠れている者が居る、それが誰なのか…)


 アヤメと紅葉は楽しそうな表情に戻った、やはり親子である。

 だが五月は。






 病院を出て交番に戻った塁、勤務を終えて駅へと歩いていた。

 軽い貧血とはいえ病院に行く程の体調だったので外食して帰る事にした。

 行き付けの駅前にある牛丼専門のチェーン店である。

 橘病院看護師事件を思い出しながら券売機で食券を購入しカウンターへ。


「あのメニューは期間限定だったのか…」


 久し振りの来訪で気に入っていたメニューが終了してしまっていたので落胆。

 カウンターの一番端の席に着席し食券をテーブルに置いた。


「いらっしゃいませー」


 一目でバイトと判る店員が奥から接客に出てきた。

 塁の真ん前と隣の席に水の入ったコップを置く。

 塁は少し驚きつつ、その店員の表情を見る。

 店員は食券を切りながら不思議そうな顔をしていた。


(どうしてコップが二つ…)


 店員は隣の席のコップを、そのまま残して奥に戻っていった。

 塁は、そのコップを見つめていた。

 程無くして牛丼が運ばれてきて、そのコップは回収されていった。

 奥の調理場から別の店員が塁の方を覗き見ていた。

 塁の顔を見ながら、さっきのバイトと何かを話していた。


(確か前にも、こんな事が在ったよな…)


 塁は、ふと自分の後ろを振り返ってみる。

 勿論そこには誰もいなかったのだが。

 食べ始めてみるが、もう味が分からなくなっていた。






 コテージの上冬の部屋に始和とユキは留まっていた。

 ニュースで橘病院看護師死亡事件を見てから、ごく自然に集まったのだ。

 それは何となく危機感を三人が同時に持った為である。

 六時の夕飯になったら三人で向かいのホテルに移動すれば良いのだから。

 上冬と始和はノートパソコンで各々の仕事をしていた。


「次は芸能ニュースのコーナーです」


 テレビからアナウンサーが声のトーンを一段と明るくして言った。

 ユキは、そのニュースをボンヤリと見ていた。


「ゴールデンウィークの『レディワン』にミルクラテの参戦が急遽決定しました」


「ええっ!」


 テレビに向かって大声を上げたユキに始和と上冬は驚いた。

 ユキの青褪めた顔はテレビに釘付けになったままである。

 テレビ画面は女性芸人大会のニュースで華やかになっていた。


「ユキちゃん、どうかしたの?」


 上冬が尋ね、それに合わせて始和がユキをみつめる。

 画面ではギャルっぽい恰好の二人の芸人が笑顔を振りまいていた。


「この子達が出て来るなら、もう勝ち目は無いかも…」


「この子達って?」


「ミルクラテっていうコンビなんですけど…」


 小さくなっていくユキの声に代わってテレビの解説が聞こえる。

 関西で大人気の新人女性芸人コンビ、ミルクラテ。

 互いにハーフ二世のリサとエレン、ルックスはギャルそのもの。

 SNSのフォロワーは各々万人単位でインフルエンサーも兼ねている。

 演芸の、あらゆる新人賞を総なめにして勢いは一番。

 その彼女達が東京進出に「レディワン」を標的にしたのであった。


「エイプリルフールズにとって強敵なの?」


「この『レディワン』って大会にワタシ達も出るんですけど…。

 勝敗を決めるのが番組公式SNSの反応なんです」


「じゃフォロワーが多い方が有利って事ですか?」


「一応、視聴者っていう括りなんですけど。

 まあフォロワーの数で決まるみたいなものなんです」


「二人合わせて十万以上か…、これじゃ不利なの?」


「ワタシ達を合わせた倍ですかね…」


「でもテレビの視聴者も投票出来るんでしょ?」


「その条件は彼女達にとっても一緒ですから…」


 ユキの声に全く力が無くなってしまった。

 始和と上冬も何も言えなくなってしまった。

 部屋が沈黙に包まれた、その時である。


 ピピピピ、ピピピピ


 部屋に備え付けの電話が鳴り始めた。

 咄嗟に上冬が受話器を取りながら始和とユキに向かって呟いた。


「明日の朝食の時間の確認じゃないかな」


 受話器に耳をあてた上冬の顔が瞬時に固まった。






 塁は、まるでガソリンを入れるみたいに牛丼を詰め込んだ。

 店員の視線から逃げ出す様に店を出ていく。

 二個のコップを運んできた理由は敢えて尋ねなかった。


(ハンバーガーでも買って帰れば良かったな)


 牛丼チェーンの隣のハンバーガー店を横目で見ながら、そう思った。

 夕飯の時間なので店の中に行列が出来ていた。

 その行列の中に見覚え在る顔が並んでいる気がした。


(あれは…気のせいかな)


 そこには特別捜査本部の竹春刑事が並んでいた、だが塁は確信は持てなかった。

 竹春は今日も遅くなりそうなので夕食の買い出しに来ていたのである。

 その時、並んでいる竹春の方も店の外を通過する塁に気付いていた。


(あれは梅見巡査かな、それとも似ているだけか?)


 自分の順番が来てカウンターのメニューも見ずに注文する竹春。


「激辛バーガーと照り焼きバーガーを、それぞれセットで」


「激辛バーガーは期間限定でして、もう終了しておりますが」


「ありゃ、それじゃ照り焼きセットを三つで」


「セットのドリンクは、どう致しましょう?」


「ホットコーヒーをブラックで」


「かしこまりました」


 その瞬間、竹春は強烈な何かの不自然さに気付いた。

 それは例え刑事でも滅多に感じる事の無いもの。

 殺意。






 受話器を持ったまま固まってしまった上冬の顔色が悪くなっていく。

 やっとの事で顔をユキと始和の方に向ける。

 そして声を発さず口の形だけで、その言葉を伝えてきた。


(「かごめ、かごめ」)


 口の形は確かに、そう伝えてきた。

 ユキと始和にも、その言葉は伝わった。

 三人の間に、とてつもない緊張が漲っていった。


(月鳴神会からの…妨害、攻撃なのか?)


(本当に掛かってきた…怖い!)


 始和は動作だけで、その電話を切る指示をした。

 上冬が微かに震えながら受話器を置いた。

 ユキの顔色も、どんどん青褪めていく。


「ボクは朝一番で東京に向かいますけど、どうします?」


「ボクはインタビューが終わっても、まだ島民の取材をしなくちゃ…」


「ワタシはインタビューが済んだら東京に帰る事にしました」


 三人共、無意識の内に島から離れたいとは考えていた。

 壁の時計が、もう直ぐ六時になろうとしていた。


「夕飯もルームサービスに変えて貰いましょうか?」


「いや、その方が却って危ないと思います。

 大勢と一緒に食事をした方が安全でしょう」


「じゃあ本館に向かいます?」


「端末やカメラは全て持って行きましょう」


「カメラ…?」


「これから全て配信しながら行動するとしましょう。

 我々の安全を担保するんですよ」


 上冬がテレビマンらしい発想を披露した。






 本署の捜査本部に二人の刑事が残って捜査資料を見返していた。

 橘麦秋と穂張涼の殺害犯人は同一犯という事が確実視されていた。

 だが、その犯人像は未だハッキリしていないのである。

 黒服の女性が映像と証言から割り出されている。

 だが平均的な女性では犯行形態が不可能に近いのだった。

 捜査は堂々巡りを繰り返し、その捜査員は疲弊しつつあった。


「夕飯を買ってきました~」


 そう明るく言いながら、やはり捜査員である竹春が戻ってきた。

 その手にはハンバーガーショップの紙袋を持っていた。

 先ず背中越しに田無にバーガーとポテト、ドリンクのセットを渡す。


(んん…?)


 その様子を見ていた境が、ほんの少しの違和感に気付いた。

 田無は、そのバーガーを見て竹春に尋ねた。


「あれ、これ激辛じゃないですよ?」


「ちょっと売り切れたみたいで、すいません」


「そうですか、あれ美味しかったんですけど」


 至って普通の会話だったにも関わらず境は何かを感じ取った。

 確かに竹春は敵意を抱いている、それも急に。


(どうして、こんな雰囲気を醸しているんだ?)


 境は気付かれない様に竹春と田無の表情を見比べてみる。

 田無は美味しそうに照り焼きバーガーを頬張っていた。






 弥生は帰宅してから再び飛鳥駅に来ていた。

 連休に入る前に飛鳥図書館に借りていた本を返却する為である。

 図書館からの帰りに再び駅前の歩道橋を渡っていた。

 その真ん中で、ふと立ち止まり昼間の事を思い返していた。

 ナツハの見舞いの帰りに五月と一緒になった時の事である。


(「…ほんの少しだけど焦げ臭くない?」)


 歩道橋の真ん中辺りで確かに五月は、そう言ったのだった。

 だけど弥生には、そんな匂いは少しも感じ取れなかった。


(「…まるで近くで火事みたいな」)


 そう言った時の五月の表情を思い出していた。

 その時の眉間の皺は、とても深く見えたのだった。


(あの時の五月ちゃんの目、何だか怖かったな…)


 歩道橋から降りた所が丁度、駅の改札口となっている。

 弥生は空になったトートバッグを抱えて改札に吸い込まれていった。

 エスカレーターを上がりホームのベンチに腰掛ける。

 その途端、隣の人の視線を感じた。

 つい弥生も見返してしまった。


「あっ、お巡りさん」


 よく見ると、そこには疲れた顔の塁が座っていた。

 だが弥生の呼び掛けに、その表情は明るく変わった。


「ああナツハちゃんの同級生の…」


「境弥生です、もう何度も会ってるんだから覚えて下さい」


「ごめんごめん、もう覚えたから」






 始和とユキと上冬はホテル本館での夕食を終えて部屋に戻ってきた。

 やはり電話の件が在ったので真ん中の上冬の部屋に三人揃う。

 夕食は動画サイトのエイプリルフールズのチャンネルからライブ配信した。

 それはユキと映ってはいない二人の安全を確保する為にである。

 生中継している最中に、まさか襲いはしないだろうという計算であった。


「コッコも見てくれた筈だし、この作戦は成功ですね」


「気のせいかも知れないけれど、おそらくは」


 ユキと上冬は少しホッとして寛いでいた、その表情も明るい。

 だが始和は表情が曇ったままであった、それを見て二人が尋ねる。


「どうかしたんですか?」


「やっぱり電話が心配ですよね…」


 始和はスマホから目を離してユキ達に言った。


「まだ明日の東京の取材相手から何の連絡も返ってきてません。

 明日、直接その相手の住所に行くつもりではいますが…」


「やっぱり死んだ看護師と関係が在りそうですよね」


「その死因も、まだ警察発表されていませんしね」


「やはり今晩は気を付けるに越した事は無いですよ」


 その時、隣の部屋の電話のベルが微かに聴こえてきた。

 話すのを止めた三人は同時に電話の方を見る。

 もう直ぐ五月だというのに寒気が部屋に忍び込んできた。






「お巡りさん、もう具合は大丈夫なんですか?」


 弥生が塁の顔色の悪さを見てとって言った。

 塁は少し照れて苦笑いをしながら言葉を返す。


「もう大丈夫、只の貧血なだけだから。

 それにボクも、『お巡りさん』は止めて欲しいな。

 梅見っていいます、こちらこそ覚えてね」


「ウメミって珍しいですね、もう忘れません」


 弥生がパッと明るい表情を見せながら答えた。

 塁も気分が少し晴れて、さっき迄の重い気分は失せていた。


「実はワタシの父も梅見さんと一緒で警察官なんです」


 弥生は敢えて刑事という言葉を使わずに塁に告げた。

 境という名字からバレてしまわない為の予防線である。

 だが塁は本署の境刑事と弥生とが全く結び付かずに気付かなかった。

 弥生は話を続ける。


「まだ幼かった頃に巡査が主役のテレビアニメを見て泣いた事が在るんです」


「ああ、あの下町の派出所が舞台のアニメね。

 でもギャグコメディだし泣かされる程に怖い場面なんて在ったかな?」


「あの、やたらピストルを撃つ巡査が怖くて怖くて」


「まあ、あれは笑わせる為になんだけど」

 

 苦笑いをしながら塁は言った、だが弥生の表情は真剣そのもの。


「それで父に尋ねたんです、あんな風にピストル撃つのって」


「日本の巡査は訓練以外で銃は撃たないよ、しかも何発も」


「でも父は指切りげんまんで約束してくれたんです。

 自分は人を撃って殺しちゃう事は絶対に、しないって」


「ボクも、まだ勤務中に撃った事は無い。

 おそらく定年まで撃たない人が殆どだと思うよ」


 塁の苦笑いに弥生は満面の笑顔で応えた。

 その時にホームに電車が入ってきて二人は乗り込んで隣り合わせに座った。

 そして二人共、同時に同じ事を思い出していた。


「お見舞いの時にエレベーターから見えた人が居たでしょ?」


「あっ、あの背中を向けたままの女の人ですね?」


「そうそう」


 塁と弥生と五月、三人が同時にエレベーターから見た女性である。

 その女性は、やや背が高く黒い服を着ていた。


「あの人、前に電車内で見た事が在る気がするんだよね」


「ワタシもですっ」


 二人共、何処かで見た事が在ると思っていたのだ。

 それが電車に乗っている今、同時に思い出されたのである。


「…って事は、この電車で病院に通っている患者さんだ」


「ワタシ少しだけ幽霊じゃないか、なんて思ってたりしたんですよね」


「この科学の時代に幽霊?」


「科学の時代なんて言い方が時代に合ってませんよ」


 そう言って弥生は、また笑った。






 上冬の部屋の電話が鳴り始めた、だが誰も応対しない。

 三人は互いの顔を見合わせて、その手を振って電話に出なかった。

 十回ぐらい鳴り続けて、やがて沈黙した。


「どうしよう?」


「おそらく、また『かごめ』でしょう」


「やっぱりワタシ達、狙われてるんですかね?」


「監視は、されていると思った方がいいでしょうね」


「ワタシに、ちょっと考えが在るんですけど」


 ユキが始和と上冬に驚くべき提案をした。

 それはユキの相方であるコッコを通して警察に監視してもらうという事だった。


「それが可能なら、かなり安全だという事になるね」


「じゃあコッコに連絡してみます」


 ユキはコッコに詳細をメールし始めた。

 上冬は部屋に再び配信のセッティングを準備する。

 始和は明日の取材相手、芳歳に再び連絡をしてみている。

 窓の外は陽が落ちて夕方の景色に変わり始めていた。


「コッコには分かってもらえたみたいです。

 これから警察の人にメールしてみてくれるそうです」


 ユキのアイデアは、ちょっと変わったものであった。

 コッコが以前、警察関係の人に自分の映像資料を送信している。

 それは他の事件に関連した月鳴神会の鳴神アヤメの映像である。

 その人に、たった今から自分達のライブ映像を配信し続ける。

 明日、取材が終わり屋久島を発つ迄の可能な限り。

 何事も無ければ、それはそれで良い。

 何か在れば、それが証拠になってくれるとの読みである。


「つまり上冬さんのアイデアを発展させた訳です」


「その警察の人は見続けなきゃならないんですか?」


「いえ、それは無理だろうからライブ配信のURLを送ります。

 アドレスはパソコンのものなので自宅で、ですね」


「つまり、その人が見ている間は安全って事ですね」


「こちらでも、ある程度の区切りでアーカイブを残しておきます。

 その人と、もしもの時は我々も見返せるって訳です」


「そりゃイイね」


 セッティングをしながらユキと上冬は笑顔で話し合っていた。

 だが始和は少しだけ浮かない表情をしていた。


(本当に、その人を信頼して大丈夫なんだろうか?

 警察内部にも月鳴神会の信者が居ると聞いているけど)


 ユキのスマホがコッコからの返信を報せる。


「コッコから大丈夫って返ってきました、もう安心ですね。

 その方は刑事だそうですから」


「もう配信の方は始められますけど音声は、どうします?」


「映像だけに、しておきましょう」


「そうですね、じゃスタートって事で」


 三人のライブ配信が始められた。






 竹春は照り焼きバーガーを頬張りながら資料を捲っていた。

 個人的には、とても犯人が女性とは思えない。

 だが男性だとしても女装する意味が理解出来ない。

 類似している事件も該当者も見当たらない。

 それは捜査員、捜査本部全体の見識であり壁になっている事だった。


(そうなると、いよいよ催眠術や暗示の世界になってしまうしな…)


 しかし被害者であり目撃者の橘健午と夏初の証言が残っている。

 橘早苗。

 二人は犯人像を実の母親、及び義理の姉だと言っている。

 しかも被害者が共に橘病院、月鳴神会と繋がりが在る者達。

 つまり加害者は月鳴神会の信者ではない、という事になる。


(「いぐるみ」は関係していないのか…)


 橘健午を襲撃して殺害された穂張涼の両親は新興宗教の信者だった。

 天和了連盟。

 日本独自の月鳴神会とは違ってアジア全域をカバーする新興宗教。

 黄色人種を中心として急速に発展拡大した宗教である。

 日本においても従来の各宗教は否定、信者同士のトラブルは絶えない。


(そっちの線で調べるしか無いのか)


 プーッ、プーッ


 内ポケットのスマホが着信を報せている。

 メールの差出人は以前に事情聴取に協力してくれたコッコからである。

 その内容は照り焼きバーガー同様、簡単に飲み込めないものだった。






 改札を出た塁と弥生は、お互い別々の方を向いた。


「じゃあ、またね」


「はい、お休みなさい」


 帰宅する弥生の後ろ姿を見送って歩き始める塁。

 さっき迄の弥生との会話を反芻していた。


(そうか…ナツハちゃんの母親は自死していたのか。

 その上に父親まで目の前で惨殺されるなんて)


 塁の心に犯人に対する怒りが込み上がってきていた。

 まだ高校生になったばかりなのに、これから独りのナツハを思った。

 だけどナツハという名前との接点は生徒手帳に書かれた手紙である。

 そのときに「なつ」と書かれていたのが実はナツハだったのだ。


(でも手紙に書かれていたのは「なつは」じゃなくて「なつ」だけ。

 でも「ナツハ」って名前には聞き覚えが在った様な…)


 その朧げな記憶は名前に関してだけでは無かった。

 ベッドで殺されている、と思ったナツハを見た時にも感じていた。

 以前に一度、会った事が在る気がしていた。

 それを、ふとした時に思い出してしまったのである。

 それも不思議だった。


(弥生ちゃんも友達思いで良い子だなぁ)


 自分の父親も警官だった塁、弥生に親近感を抱き始めていた。

 彼女の笑顔を思い出すと、ここ最近の不安感が消えていった。






 コッコからのメールを読んで竹春は早めに退勤する事にした。

 どうせ捜査に進展は無い、そう境に告げて捜査本部を出た。

 境と田無は、もう少しだけ残って捜査方針を考えるとの事だった。


(屋久島で月鳴神会って聖地というよりは爆心地だろ…)


 帰りながらスマホでコッコから送られてきた動画サイトのURLを開く。

 ホテルの部屋を定点カメラが映し出している、やや照明が足りず画面は薄暗い。

 部屋の中で三人が会話をしている様子が映し出されている。

 芸人風の女性とディレクターらしい男性、二十代前半っぽい男性。

 音声は聞こえてこない。


(彼女がプリフルのユキちゃん、こっちがディレクターだよな。

 この男がライターか、まだ若そうだけど)


 竹春の視線は、その若いライターに集中してしまっていた。

 始和睦である。


(この背格好も雰囲気も見覚えが在るなぁ)


 睦は幼い頃から、よく塁と間違えられていた。

 二人は一緒に行動する事が多かったので仕草も似たのだった。

 それは双子なので当然だが、それを竹春が知る由も無い。


(月鳴神会の信者からの脅迫電話かぁ、しかも童謡を聴かせるって…)


 コッコによって転送されたユキからのメールを見返しても理解が出来なかった。

 画面に映る三人も、そんなに危険な状況には見えなかった。






 境と田無も、そろそろ打ち合わせを切り上げようとしていた。

 情報は寄せられるものの、その信憑性は低いものばかり。

 その上、看護師の死因も蜂ではない確率が高まっている。

 そうなると更に一件の不審死が捜査に追加される事になる。

 二人共、突破口が見い出せないまま時間だけが費やされていた。


「もし蜂毒じゃないとすると、また死体だけが増えて犯人が必要って事だ」


「心不全と決めるには遺体の状態が酷すぎますしね」


 境の言葉に田無が溜息交じりで返した。


「そうなると催眠術とかのラインになるのかぁ?」


「竹春刑事の言う通り暗示の線も在りますね」


「あのプラセボなんとかってヤツかぁ」


「でも、その能力を持ってるのが月鳴神会だとすると…」


「被害者側なんだよなぁ」


 二人は同時に沈黙した、この操作には何故か矛盾が付き纏う。

 田無が考え込んだ、それを見て境は違う理由で考え込む。


(竹春の雰囲気が急に変わったのは、どうしてだ?)


 境は刑事特有の嗅覚で何かを感じ取っていた。

 竹春の仕草の中に潜む敵意を見抜いてしまっていた。

 だが、その理由は全く見当が付かなかったのである。


(そっちも捜査しなくちゃ、ならんのかなぁ)






 コッコ経由とは言え警察の人の目が在る事になった上冬の部屋。

 夕食前に電話が掛かってきた事の怖さも薄れていた。

 上冬と始和は明日の取材相手についての情報を確認していた。

 明日の午前中に始和と入れ替わりでテレビクルーが島に来る。

 インタビューを撮影したらコッコは帰京する予定に変えた。


「電話が怖いのもありますけど、やっぱり『L―1』が心配で」


「ミルクラテならオジサンの俺でも知ってるもんなぁ」


「そうなんです、もう一度ネタを練らないとヤバいです」


「オレも一緒に東京に帰りてぇなぁ」


 上冬は、やはり心の何処かで怯えていた。

 始和は少し前から会話に加わっていない、その事をユキは心配した。


「始和さん、まだ不安なんですか?」


「明日の取材相手から、まだ何も連絡が来ないんです」


「電話は鳴っている、なのに全く出る気配が無い。

 これだけ長い間、電話に出ないのは不自然過ぎると思うんです」


「明日の昼でしたよね、どうするんですか?」


「取材する場所が相手の家なので行ってみるしか無いですね」


 三人が三人共、近い未来に不安を抱いていた。

 ユキはネタのオチを考えながら暗くなりつつある窓の外を見ていた。






 とうとう退院祝いの晩餐に健午は姿を見せなかった。

 五月とアヤメは全く気にも掛けなかったが紅葉は落胆していた。

 穂張涼に襲われた怪我よりも目の前で殺人が行われた事が心配だった。

 五月は、そんな母親の様子を観察してアヤメに告げた。


「会長、副院長の排除は少し延期した方が良さそうね。」


「月詠み様、何故でしょうか?」


「あんな父でも母は愛しているみたいだからです」


「承知しました、『いぐるみ』は発動させない様に取り計らいます。

 穂張は共振して感応したに過ぎません、あれは部外者ですから」


「そうでしたね、でも女性を『いぐるみ』で射たのでは?」


「その者ですが、どういう訳か心波が届かなくなっております。

 何かの予測不可能な要素で解除されたのかも知れません」


「心波共振が届かないなんて…」


「でも『いぐるみ』は心からは抜けません、それは御存知の筈。

 それに他の者にも『いぐるみ』を放っております」


 五月は、その言葉を聞いてアヤメに強い視線を向けた。


「その者は、およそ疑われる事が無い立場の者です。

 更に、その傍には会の者を潜り込ませてあります」


「そう、『いぐるみ』の紐飼いも付けているのね」


「いつでも発動は可能で御座います」



















 
























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