第10話 カンカク

 境弥生が見舞いに来ていた橘夏初の病室、静かにドアがノックされた。

 話を中断した弥生がドアを開けて、そこに立っていた橘五月に入室を促す。

 彼女はナツハとは従妹にあたり弥生とも同級生にあたる。


「五月ちゃん」


「ナツハちゃん、もう大丈夫?」


 二人は互いの境遇を、よく理解していて連帯感をも持っていた。

 それは血の繋がりよりも遥かに濃い皮膚感覚とも言えた。

 五月はナツハの目に見えていない部分を感じ取ろうとしていた。

 弥生は、ひたすら二人と一緒に居るのが嬉しくてニコニコしていた。

 ナツハは…。


「五月ちゃん、もう直ぐワタシも家に帰れると思う」


「うん、それは会長から聞いていたわ」


「会長?」


 聞き慣れない言葉に、つい弥生が口を挟んでしまった。


「祖母の事、病院の会長なのよ」


「橘病院の…」


 弥生は月鳴神会の存在を知らなかった、それが父に関わっている事も。

 境刑事は橘病院関係者連続殺人事件の捜査を担当していたのである。


「退院したら家に戻っても会長と二人きりになっちゃうでしょ。

 ナツハちゃんさえ良ければウチに来て一緒に暮らさない?」


 これは五月の本音でもあった、もし邪魔ならなら父親さえも処分する積もりで。

 ナツハは太陽みたいに微笑んだ、しかし返事はしなかった。






 境と竹春が三時休憩の珈琲中、田無が昼食から特別捜査本部に戻ってきた。

 主力が揃ったので、いつも通りの定例報告会が始められた。


「今日も激辛バーガーかい?」


「そうなんです、ちょっとハマってしまいました」


「ブラックでいいですか?」


「そうですね、お願いします」


 竹春が田無にも珈琲を淹れて持ってきた、それを受け取ると同時に一口啜る。

 それぞれが独自に行っている捜査の進捗を報告し合う時間には欠かせなかった。


 竹春が持ってきた情報は境と田無に衝撃を与えるのに充分なものであった。

 …鳴神菖蒲には三人の娘がいた、その長女と三女が橘麦秋と健午に嫁いだ。

 長女の鳴神早苗は橘早苗となり夏初を出産、一年前に自殺。

 三女の鳴神紅葉は橘紅葉となり五月を出産、橘病院に入院中。


「そして次女の鳴神麗、彼女は亡くなった早苗と双子です。

 幼い頃に何故か鳴神家から養子に出されています。

 養子縁組先を含めた詳細は不明、現在の居所も不明のままです」


「早苗そっくりの女の居所が不明ってかぁ、そりゃ興味深い。

 容疑者とは言わんが重要参考人には、なりそうな気がするなぁ」


 境が、また面倒臭い事柄が増えたな…という表情で言った。

 田無は田無で、どうにも腑に落ちないといった顔になる。

 そして自分の捜査報告を淡々と始めた。


「自分は証言とカメラに残された映像から犯人は女装のラインを追ってみました。

 でも、このラインだと犯人に取ってはリスクしか無い。

 そこでクスリのラインで捜査中ですが、まだ成果は皆無と言っていいでしょう」


「女装するのは誰かが目撃するって前提ですものね」


「まぁ、わざとカメラに映像を残して捜査を攪乱するのも無くはないですが」


「逃亡する際に着替える場所が必要なのと証拠が残るって事になりますし」


「犯人のヤサが近所だって確定すれば、これも無くはねぇけどなぁ」


 田無の捜査に関しては、その進捗も成果も芳しくなかった。

 今回の事件に関しては余りにもセオリーが通じなかったのだから仕方が無い。


「もう一つ橘病院って言えば、あの看護師のホトケだな。

 あれは明日にでも鑑識の結果が出てくる筈だ。

 だが流石に今回の事件とは関連性は無いと言っていいだろう」


「でも病院に取っては、とんでもなくイメージダウンですよね」


「ニュースで流されてからはネットでもトレンド入りしてますからね」


「呪われた病院、関係者の連続死って騒がれてますもんね」


 田無と竹春は、お互いに顔を見合わせて苦笑した。

 そんな二人に境が申し訳無さそうな表情で遠慮がちに訊いた。


「トレンド入り、って何だ?」






 始和睦は明日の東京での取材の詳細メールを見返していた。

 取材対象は元「マーチTV」運営の芳歳ディレクターと橘病院の現役看護師。

 雑誌「噂ノ深層」の連載ページの為に月鳴神会についての告発をするとの事。

 もし手応えが在れば、その成果を上冬やユキに知らせるのも一考だと思っていた。

 彼等の「ヒソカ」は、ほぼリアルタイムに情報を発信してくれる番組なのだから。


(やっぱりテレビの影響は大きい、それが関東ローカルだとしても)


 明日のロケ先も取材相手も乾の協力を得てセッティングしてあげていた。

 月鳴神会のアンチは少なくはない、それは他の新興宗教と同様に。

 テレビの力を借り、そして自らの連載で月鳴神会の正体を暴きたかったのだ。

 始和はペンの力を信じていた。


「橘病院の看護師が不審死、死亡原因は調査中」


 スマホのニュースで、そんなトピックを目にしてしまい動揺した。

 嫌な予感が体中を駆け巡った、それとも虫の報せだったのか。

 慌てて編集部に電話を入れてみるが、なかなか繋がらない。

 同じ屋根の下に滞在しているユキと上冬にラインを入れた。






 一応、点滴を打って貰って回復した塁。

 警察官の制服なので擦れ違う人達全員に二度見されて恥ずかしかった。

 救急病棟の医師と看護師に礼を言って部屋を出てエレベーターに向かう。

 現場の鑑識による調査は済んだらしく、そのまま派出所に戻れとの事だった。


「あっ、お巡りさん」


 ドアが開いた途端、女子高生二人組の一人が塁に声を掛けた。

 以前に交番に訪れた事の在る弥生である。


「ああ…君かあ」


 塁の返事で二人が知り合いだという事に少し驚いたのが五月であった。

 そして、ほんの微かに感じさせられた違和感に気付いた。

 塁と弥生の表情を見比べてみるが、そこには何の不自然さも見当たらない。


(これは何だ…何かが違っている)


「お巡りさんが担架で運ばれてくるなんてビックリですよっ」


「えっ…もしかして見られたの?」


「しっかりと見ちゃいました、でも…どうしたんですか?」


 塁は雁来看護師の遺体の事を話す訳にはいかなかったので口ごもる。


「いやぁ只の貧血だよ、で君達は何しに?」


「友達の御見舞いです、あの…橘ナツハちゃん」


「橘…ナツハ」


 塁は事件捜査上の重要人物の名前が突然出たので驚いて真顔になってしまった。

 その少し前から五月も真顔になってしまっている。


(…おかしい、もう一人居る)


 五月はエレベーター内の、もう一人の気配を感じ取っていたのだった。






 乾は栗生海岸近くの駐車場に車を停めた、まだウミガメ産卵の時期ではない。

 殆ど人の姿を見ていなかったが、それはいつもの事だった。

 ゴールデンウィーク前に来る観光客はシュノーケリング目的が多い。

 詳細は確認していないが、そう当たりをつけて下見に来たのだった。

 車内で着替え及びシュノーケリングの準備を済ませ車のドアを開ける。

 軽い下見なのでウェットスーツは着用せずマスクもハーフのみしか持っていない。


(あれ…、こんな時間に人が居るなぁ)


 少し離れた場所に停めてある車の横に人が立っているのに気付いた。

 黒いワンピースを着た、やや髪の長い女性だった。

 乾の方を向いていなかったので、その表情は伺い知れなかった。


(誰かを待っているんだろうか?)


 彼女は乾の方を見向きもせずに海岸を眺めているみたいだった。

 乾は、それ以上の関心を持たずに海岸へと向かって行く。

 背中越しに、その女性から声を掛けられた気がしたのだが歩き続けた。

 何故か背中に視線を感じたりもしたのだが、それも無視した。


(まさか役所からの依頼の相手じゃないだろうな…)


 そんな考えも波際に近付くに連れて消えていった。

 マスクとフィンを装着して水の中へと自分を溶かし込んでいく。

 そこは乾にとっては現実と理想の境界線でもあった。


(やっぱり島の海は綺麗だよな…)


 乾は両親が焼死してからは火を極端に嫌っていた。

 その反動で水、特に海を好む様になっていった。

 そうしたら、いつの間にかダイビングを生業としていたのである。

 仕事でなくても暇さえ在れば波を眺めに海岸まで車を走らせていた。

 呪われた街や人達から無意識的に遠ざかっていたとも言える。


(じゃ挨拶にでも行くとしますかね)


 乾は深く潜らずにハーフマスクから見える水中の景色に見惚れた。

 その景色こそが今、自分にとっての居るべき世界だと思えるのだ。

 仕事で来た筈なのに、もうそんな事はどうでも良くなっていた。

 ただただ水中の美しさに視界を奪われる快感に浸っていたかった。


 どぶんっ


 その時、水中の視界の届いた先に何かが跳び込んできた。

 凄まじい量の泡を纏いながら何かが海中に沈んでいくのが見えた。

 それは黒い布を纏った人間にしか見えなかったのである。


(さっきの女の人だ!)


 乾は、それが駐車場に居た女性だと直ぐに気付いた。

 だが彼女が突然、海に落ちて来る不自然さには気付けなかった。






 五月は弥生と塁の心の中に潜って覗いてみた。

 しかし会話をしている二人の心に嘘や裏側は見当たらない。


(この二人は人間的に真正直なのね…、だとしたら。

 段々と濃くなっていく、この気配は誰のモノなの?

 このワタシがハッキリと掴めないなんて在り得ない)


 五月は二人の、やや後ろで神経を集中させた。

 エレベーターの中に、もう一人の存在を確かに感じ取っていたのだ。

 弥生と塁は、そんな五月とは別に楽しそうである。


(弥生ちゃんは、この警察官に僅かだけれど好意を抱いている…。

 彼は誠実さが少し弱さに繋がっている様な好青年だわ)


 二人を観察しながらも、その漂う気配に注意を払っていた。

 エレベーターは確かに三人だけを乗せたまま、どんどん降下していく。

 その時、確かに五月は圧し潰そうとしてくる強烈な圧力を感じさせられた。


(これって、まるで殺意みたいに強い)


 急にエレベーターの速度が落ちた様な気がした、だが二人は動じていない。

 五月の視界だけが、まるでスローモーションになった。


(確かに誰かがいる、いえ…何かがいる)


 エレベーターが三階から二階へと降りる時、外に人の姿が見えてきた。

 それは女性で、しかも三人には背中を向けたままであった。






 少し離れた海中を黒服の女性がユックリと沈んでいくのが見える。

 乾はインストラクターらしく、その女性の救命の事しか考えられなかった。

 岸から離れた波間に、どうやって人が落ちて来る事が可能なのか。

 その不自然さに思考が向かなかったのである。


(溺れているのに何の動きもしていない、これはマズい!)


 乾は沈んでいく女性に向かって一目散に泳いでいった。

 だが、その意識の無さそうな女性の頭部が、ふいに乾の方を向いた。

 まるで乾に、その自分の表情を見せる為に顔が向き直った。

 そして突然、女性の両目が開いて泳いで近付く乾を凝視したのである。


(えっ…)


 泳いでいる乾と沈んでいく女性の目が、その海中で合ってしまった。

 その女性は乾を見て明らかに嗤った、それは冷たい表情であった。


(…!)


 乾は急激に海中の温度が下がった気がした、そして背筋を悪寒が走った。

 泳ぐのを急停止し漂い始める、その女性は目と鼻の先である。

 女性の身体が沈むのを止めて不自然に動き始めた、まるで泳ぐみたいに。

 だが手足は全く動いていない、そして蛇の如く身体をくねらせ始めていた。

 それから、ふいに乾に向かって水の中を泳ぎ進んできた。


(どっ、どうなってんだ!)


 乾は心で悲鳴を上げながら、その女性から逃げる様に泳いだ。

 だがしかし、あっと言う間に距離を詰められてしまう。

 その女性の手足は全く動いていない、そして呼吸もしていない。

 ただ身体をくねらせるだけで、どんどん近付いてくるのである。

 自分の理解を超えた事態に乾はパニックになっていった。


(助けてくれ、どうか助けてくれ!)


 女性から顔を逸らし、ひたすら岸へ向かって泳いでいく。

 だが急に身体が重くなって進まない、その理由も分からない。

 乾は目を凝らして、その理由を確かめる為に状況を見回した。

 泳ぐ為には使われていなかった女性の両腕が、その身体に絡み付いていた。


(ひぃっ、ひいぃっ!)


 口から一気に息を吐き出してしまったので、もう泳ぐ事も出来なくなっていた。

 女性の顔が目の前に現れた、その目が乾を捉えて離さない。

 表情は笑っていたが、その目は冷たく紅く濁っていた。


 かごめかごめ 籠の中の鳥は

 いついつ出やる 夜明けの晩に


 女性に巻き付かれたままの乾の身体が、だんだん沈み始めた。

 もう呼吸も出来なくなり、それに連れて意識も薄れていく。

 あれ程、好きだった海の中で圧し潰されそうになっていった。

 消えていく意識の奥底に、ほんの微かに童謡が聴こえてきた。


 鶴と亀が滑った…






 塁と弥生も五月に遅れて、その背中を向けている女性に同時に気付いた。

 その後ろ姿の女性は、ほんの僅かにも動いていない。

 塁と弥生は思わず顔を見合わせて確認し合っていた。


「あの後ろ姿、以前に見た事が在る気がするな。

 でも背中を向けて何をしているんだろう、ちょっと不思議だな」


「えっ…ワタシも見覚えが在ります、どうしてだろう」


 思わず呟いた塁に弥生が直ぐに返事をした、それを五月が聞いている。

 二人共、少し驚いただけで不自然な気配は感じ取れていない。

 だが五月だけは、その女性の不自然さにも感情を動かされていた。


(後ろを向いていても、その視線は確かにエレベーターの中を捉えている。

 それもワタシ達三人ではなく、もう一つの気配を探っている)


 五月が、そんな事を考えている間にエレベーターは一階に到着した。

 塁と弥生が喋りながら降りて、その後に五月が続く。

 エレベーターから出て、そのドアが閉まる瞬間に後ろを振り返る。

 その閉まったドアのガラス越しに人の姿を認めた。

 ボンヤリとした影に見える黒い服を着た女性が、うなだれていた。


(あれは月鳴神の残像…って事は会長の『いぐるみ』に?)


 五月は前を歩く塁と弥生を見比べていた。

 二人は一緒に病院を出ていく、その後に五月が続く。


(射られているとすれば、この警官しか考えられないわ。

 弥生ちゃん射っても会に取ってメリットは無いだろうし)


 だが五月はエレベーター内の二人の会話を思い出していた。

 確かに二人共に、あの女性は見えていた筈だった。


(…となると弥生ちゃんは心波共振しているって訳ね。

 確かに地元の警官なら何かの時に役には立つでしょう)


 塁はイグルミに射られていて、その共振に弥生が反応している。

 だとするならば、もう一人の気配の正体が不明のままになる。

 五月は周囲の気配に最大限、神経を張り巡らせてみた。

 だが、もう一人…もう一つの強い気配の正体は掴めなかった。


「じゃ、もう勤務に戻ります」


「はい、また交番に用が在る時はヨロシクお願いします」


 病院の出入り口の門の直ぐ手前で二人は挨拶を交わしていた。

 その後で塁が振り返って五月にも挨拶をした。


「じゃあ橘さん、これで失礼します。

 ナツハちゃんをヨロシク頼みますね」


 塁は明るく話す、それを弥生が笑顔で見ていた。

 五月も笑顔で会釈した、それを見て塁が門を出て右に折れていった。

 その瞬間、五月を更に大きな気配が襲う。

 思わず振り返って病院の上の階を見上げた、まだ気配は途切れていない。

 その強烈な気配と五月の視線が、ぶつかった。






 始和がニュースを見てから直ぐにユキと一緒に上冬の部屋に合流した。

 同じフロアの三つの続き部屋なので真ん中の上冬の部屋が選ばれた。

 始和はニュースでの橘病院の現役看護師の不審死を二人に告げた。


「だんだんガチに、なり過ぎてやしませんかね」


 上冬が少し不安そうな声で睦とユキに話す、その目は伏し目がちだ。

 始和は明日、東京に戻ってしまうので心細くなったのだった。


「始和さんがセッティングしてくれたのは明日の午後ですよね?」


「そうです、それは乾さんにダイビングを教えた方なんです」


「インストラクターの更に上の先生ですか、それはそれは」


「その方も月鳴神会へ反対運動を展開している方なんです」


「この屋久島では少数派って事なんですね」


「だから観光客相手に商売して生計を立てるしか無い訳です」


「成る程」


 始和と上冬の会話にユキが割って入り、かなり意外な事を口にした。

 その表情は真剣そのものだったのであるが。


「また病院の関係者が亡くなったっていうの、ちょっと怖過ぎます。

 アタシ女ですけど今晩一晩、一緒の部屋で寝させて下さい」


 始和も上冬も、その提案を断る事なんて出来なかった。






 ナツハは五月と弥生が退室してから、ややボンヤリ座っていた。

 さっき迄の三人での会話を反芻して暖かい気持ちに浸っていた。


(弥生ちゃんは本当にイイ子だわ、もっと仲良くなりたいな。

 五月ちゃんは相変わらずだけど、ちゃんと心配してくれているし)


「ウチに来て一緒に暮らさない?」


 五月がナツハを心配して言ってくれた言葉を思わず口にした。

 自分で呟いた五月の言葉が自身を微笑ませているのだった。


(五月ちゃんは変わらない、まるで本当の姉妹みたい)


 そんな思いが更にナツハを暖かい気持ちに導いていた。

 父を殺されたばかりだというのに、その心は落ち着いていた。


(会長は何を考えているのだろう、どうするつもりなんだろう)


 ナツハは病室の窓に歩いて近付き、そこから外の景色を見た。

 視線を病院の庭に落とすと、そこに弥生達の姿を見付ける。


(五月ちゃんと弥生ちゃん、そしてお巡りさん?)


 一階に着いて病院の庭に出た五月達に視線が釘付けになった。

 弥生と警官が自然に話しながら歩き、その後ろを五月が歩いている。


(何で、お巡りさんと弥生ちゃんが一緒に?)


 そして五月の少し後ろにも、また人の姿を認めた。

 それは薄く黒い影みたいな女性で、まるで人の気配が見えない。


(あれは月鳴神の残像にしか見えない、あのお巡りさんは「イグルミ」に…)


 ナツハも塁の不自然さに気が付いた、それが会長である祖母の思惑に拠る事も。

 そして、もう一つの別の気配にも気が付いてしまった。

 病室の窓から遥かに離れた一階の庭を歩く五月達の、その中に。


(弥生ちゃんと、お巡りさん。

 五月ちゃんと月鳴神の残像らしき人影、更に見えざる人が一人)


 見えているのは三人の実像と一人分の虚像、気配が更に一人分。

 その気配の濃厚さにナツハの顔から微笑みが消えた。


(貴方は誰?貴方は何?)


 ナツハは、その存在を見極めようとして神経を集中した。

 それを視線に乗せて五月達を凝視した、どんどん強くしていく。

 弥生と警官が病院の門で別れた、その直後に五月が立ち止まる。

 そして振り返ってナツハの病室を見上げてきた。


(五月ちゃんも感じているけれど、やっぱり見えていないんだわ)


 五月とナツハの視線が、ぶつかった。

 その瞬間、二人は同時に気が付いた。

 あの警察官はイグルミで射られている、その目的は分からない。

 その真意は月鳴神会会長の鳴神アヤメに拠るもの。

 そして確かに二人の間、此処に凄まじい気配が漂っている。

 その気配は二人にダメージさえ感じさせる程の強さだった。

 殺意。






 捜査本部に集められた境と田無、竹春の三人は衝撃的事実を告げられた。

 それは自宅マンションで不審死した橘病院の雁来看護師についての報告書。

 精査は先の事にはなるのだが取り敢えず判明した事を聞かされ驚いた。


「ちょっと待ってくれ、まるで意味が分からんよぉ」


「ですから外傷は蜂に刺されたものと一致しています、ですが…」


「肝心の蜂の毒が検出されない、という事ですか?」


「そうなんです、とても不思議な結果なんですが」


「じゃあ死因は何になるんでしょうか?」


「現時点では心不全という結果になりますね」


 確かに三人共、被害者の遺体は目に焼き付いている。

 多くの蜂に刺されて酷く膨れ上がった、その顔が頭から離れていない。

 それが言ってみれば自死だという事になるのだ。


「あんな酷い刺し傷が心因性のモノだってのかよぉ」


「逆プラセボにも程が在り過ぎますよね、あれじゃあ」


「詳しい鑑識の結果を出すには、もう少し時間が必要です」


 三人共、言葉を失って黙ってしまった。

 沈黙が捜査本部に絶望感を充満させていた。


「催眠術というよりは、もっともっと強烈な自己暗示ですね」


「自分の心が自身を殺してしまう、ってか」


「自分の心の弱さゆえの強さ、ですかね」


 境と竹春の会話の様子を、じっと田無が鋭い視線で見つめていた。






 五月と弥生達の様子を、じっとナツハが鋭い視線で見つめていた。

 最上階の病室と一階の庭、離れていても互いに通じていた。

 ナツハの視線は五月に強烈に何かを語り掛け、それが伝わったのだ。


(やはり、この一連の事件には月鳴神会じゃない者が関わっている)


 五月は心の何処かで会長であり祖母の鳴神アヤメを疑っていた。

 手違いではあったが父の橘健午が襲われたのもアヤメが遠因であった。

 他の者にイグルミを仕掛けたが心波共振で穂張涼が犯行に走ってしまった。

 そこ迄は五月にも容易に把握出来ていたのだ、だが。


(誰が橘麦秋と穂張を葬ったというの、その動機は何?)


 そんな事を考えていたら、そんな自分に向けられている視線に気付いた。

 それは弥生が心配そうに五月を見ていたものだった。


「橘さん、ちょっと目が怖くなってる…」


「あら、ごめんなさい。

 今、病院が色々と大変になっているから」


「ああ、そうよね」


 弥生も父である境の自宅での雰囲気で捜査状況は分かっている。

 その被害を受けている当事者の五月の心配もしているのだった。

 五月は話題を学校や連休にシフトして雰囲気を良くしていった。


「ワタシは清水公園だから駅に向かうね」


 駅の近くの交差点で弥生が五月に言った。

 この歩道橋を渡れば駅の改札は直ぐ近くである。


(弥生ちゃん家は一駅隣なんだ)


 五月は歩道橋を渡って駅の反対側に抜けるのが帰り路だった。

 二人は話しながら一緒に歩道橋を登っていく。

 ふいに五月が何かを嗅ぎ取って足を止めた。

 不思議そうに、そんな様子の五月を振り返った弥生。


「どうしたの橘さん?」


「境さん、ほんの少しだけど焦げ臭くない?」


「焦げ臭いの?」


「うん、まるで近くで火事みたいな」


「…そう?」


 その返事で弥生が、そう感じていない事が五月には分かった。

 しかし、その何かが焦げた様な匂いは強くなる一方である。

 その中には鉄の匂いも混ざっているみたいに感じられた。


(この焦げた匂いと鉄の匂いは何処から漂ってきてるのだろう)


「じゃ、またね」


「うん、また連休明けに学校で」


 弥生は挨拶をして駅への方へ歩道橋を降りていった。

 その後ろ姿を見送りながら弥生は、この匂いについて考えていた。

 匂いは人間の記憶を一番司り易い要素である。

 だが、その有効範囲は聴覚や視覚と比較すると非常に狭い。

 限定的と言ってもいいものだ。


(これは記憶に無いわ…しかも現実でも無さそう)


 五月は無意識の内に気付いていた。

 予兆。






 始和は芳歳からメールの返事が無い事を訝っていた。

 通話をしようにも呼び出し音だけが虚しく続くだけであった。

 そんな様子をユキと上冬は心配そうに見ているだけだった。


「連絡が取れないんですか?」


「明日の取材相手なんですけど、まだ詳細を詰めてなくて」


「確か…月鳴神会に関する告発ですよね?」


「橘病院の現役の看護師らしいんですけど、まさか…」


「さっきのニュースで言ってた被害者だとか?」


「だとしたら、かなり危険かも知れませんね」


「新興宗教、本当にガチで怖いんだ…」


 上冬が、ふと漏らした言葉が部屋の温度を下げた気がした。

 ユキが始和にスマホを見ながら話し掛ける。


「ちょっと『かごめかごめ』をググったんです、かなり不思議な歌詞ですよね。

 『夜明けの晩に』とか『鶴と亀が滑った』とか、まるで意味不明」


「童謡の意味ですか…?」


「どうしてわざわざ、この歌を聴かせるのか不思議で」


「意味なんて在るんでしょうか」


「諸説、在るみたいですね。

 『夜明けの晩』なんて始まりの終わりみたいですし。

 『鶴と亀』は長寿の象徴みたいな動物でしょ?

 それが『滑った』のは寿命が終わった事とか書かれたりしてますね」


「命の終わり…死って事ですかね」


「アタシも、そうかなって思いました」


「じゃ『後ろの正面』って何の事なんでしょう?」


「ちょっと怖くないですか?」


「今となってみれば、ね」


「何か後ろに誰かが居る、みたいな」


 ピピピピ、ピピピピ


 ほんの微かではあるが隣の部屋から備え付けの電話の音が聴こえてきた。

 それは本来なら始和が滞在している部屋である。

 ユキが始和に顔を向けて、ほんの少し怯えた表情を見せた。

 隣から聴こえていた音は、やがて消えた。


 ピピピピ、ピピピピ


 今度は、この部屋の電話が鳴り始めた。

 ユキと始和が驚いて顔を見合わせた、その瞬間に上冬が受話器を取った。

 三人の表情に緊張が走って、その周囲が無音に包まれた。


「はい、ええ…」


 何事かを話し終えて上冬が受話器を置いた。

 ユキと始和は、そんな上冬の表情を窺った。


「ディナーは向かいのホテル本館の食堂で六時からだそうです」


 急に緊張が緩んで三人共に笑顔を浮かべて向かい合った。

 すると今度はユキの部屋の電話が鳴っているのが壁越しに微かに聴こえた。

 上冬がフロントからの話を得意気に二人に伝えた。


「この島はトビウオが旬で美味しいらしいですよ、こりゃ楽しみだ」








 






 















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