第19話 オペラハウスへ
あの時の在学生の消息を調べるのは大変だろうと覚悟はしていた。
しかし、実際に着手してみると、こんなに大変だったのとは!
そもそも、私の記憶すら曖昧になっていた。
髪の色や目の色の記憶がこんなに適当とは思わなかった。名前や性格は覚えているのに、顔の特徴などは、思い出せてもうまく表現できなかった。
その上、あまり時間がなかった。
「シャーロット、マクスジャージー様が歌劇のチケットをくださったんだ。妻と一緒に行ったらどうかって」
それは、マクスジャージー様ではなくて、夫人のマーガレット様の手配では?
『歌劇 行き違いの恋の行方』
私はタイトルを見ながら考えた。
「お芝居を観に行くのは初めてだ。男性だけで行くことってあまりないからね。シャーロットのお陰だよ。結婚してよかった」
もっとも重要な夜の結婚生活の方は、まだ、始まってもいませんが。
「明日の晩ですか。着る服がなくて……」
これではチケットが浮いてしまうなあと思いつつ、私は返事した。
昨日、姉のアマンダが服を持ってきてくれたけれど、普段着だけだ。オペラハウスに着ていけそうな良いドレスは結婚の時に全て持ってきて、私の寝室にしまってある。
困ったことに、これだけ何かと旦那様は世話をしてくださり、甘い言葉をかけまくり、ニコニコと手を取ったりするくせに、どうしても、私の部屋のドアを一緒に押してくれないのである。
私が持参した衣装など、旦那様が買ってくれたドレスの総価格に比べたら、微々たる物である。元が貧乏伯爵家なので、ドレスなんかたまにしか買ってもらえなかった。
ほぼ百パーセント、姉のお古である。
それでも長年かけて姉たちがなんとか捻出したドレスはそこそこの枚数があり、社交生活の各シーンに支障が出ないくらいの種類が最低限そろえてあった。
従って、その衣装部屋に出入りできないのは、痛恨の極みだった。
「なに? カギは開いている?」
旦那様は呆れ顔で言った。
「どうやって開けたの? カギは全部、部屋の中だってセバスに聞いたけど」
「ええっと、あの、ヘアピンを曲げてですね……こう」
聞いた途端に、旦那様は腹を抱えて笑い出した。
セバスもメアリもアンも、驚いて見物に来たくらいだ。恥ずかしい。
「エロ本見たいばっかりに、古箱開けた時と同じだ!」
そんな誤解を招くような言い方はやめてください!
私は顔を赤くして、旦那様を見上げた。まるで、私がエロ本好きみたいじゃありませんか。
「エロ本好きの妻は、むしろ歓迎だよ」
いやもう、ほんとにやめて。なにを言ってるんだか。
セバスとメアリとアンは、夫婦のバカ話だと解釈したらしい。そろそろと持ち場へ戻っていった。
「じゃあ、どうして中に入らないの?」
ひとしきり笑った後、旦那様は聞いた。
「ですから、開けられないようにと中からバリケードを築いちゃいまして……」
「バリケード……って、どういうこと?」
私はすっかり面白がっている旦那様の茶色の目から、そろそろと目を逸らして、小さい声で答えた。
「ドアのところにテーブルとか椅子とか積み上げて、ドアが開かないように押さえてあるんです。でも、私の力では開けられなくて」
「え? なにそれ。自分の力で作ったんなら、自分で押したら開くんじゃないの?」
開かないから困っているんです! 私は旦那様の顔を恨みがましく見上げた。
そこへ、仏頂面のアンがやってきて告げた。
「奥様、ハリソン夫人が来られました」
一見仲睦まじ気に見える夫婦の間に割って入るとは、さすがアンである。
「すぐ行くと伝えてくれたまえ」
ハリソン夫人と聞いて、旦那様はニヤッとした。
「自宅から持ってきたドレス、別にいらないんじゃない? シャーロット。必要なドレスは新しく仕立てればいい。せっかくハリソン夫人が来てくれたことだし、その件も相談しよう。イブニングが必要なんだね?」
「あ、そういうことだけではなくて!」
私は自分のベッドで寝たいのだ。自室でゆっくりしたい。衣装部屋だけに用事があるんではなくて、ずっと旦那様の部屋で寝起きしているのが、気になるのだ。
旦那様はずっとソファーで寝ている。騎士は体が資本なのに、ゆっくりできないのではないかと心配なのだ。そうかといって、別のベッドを運び入れたら、アンが喜びそうだし、あらぬ噂を立てられそう。というか、こっちが本音なんだけれど、同じ部屋で寝ているっていうのがなんだか落ち着かないのよ。
ハリソン夫人はどっさりドレスを持参してきていた。
針子も五人くらいいた。
全員、キラキラした顔をしている。
あれ? おかしいな……?
爵位もない騎士だというだけの家の夫人に、そんなにたくさんドレスはいらないと思うんだけど。
凄い気合が入っている。どうしたのかしら?
「マクスジャージー侯爵夫人にお聞きしましたのよ?」
ハリソン夫人は顔を輝かせて言った。
「なんでも今回マクスジャージー様は侯爵位を移譲されるのに伴って、騎士団長から元帥に昇格なさるそうで。それで、ファーラー様は副団長になられ、ゆくゆくは騎士団長着任も間近だという噂ですの!」
「え?」
私は旦那様の顔を見た。
ハリソン夫人は鼻息荒く、深くうなずいた。まだ続きがあるらしい。
「その上、ファーラー様には大叔父様から養子のお話が来ているそうで。その大叔父様というのは、かのラムゼイ伯爵だそうでして!」
ラムゼイ伯爵という人の話は聞いたことがある。
偏屈極まりない女嫌いで、特に出しゃばり女は大嫌い。理屈を言ったり、口答えでもしようものなら女中にさえ容赦がないので、やむなく屋敷中男だらけだという。
一方で、チェスの腕前と武器の研究には天賦の才があり、これまでにさまざまな新型武器の製作、改良に功績があり、何度も受勲していると聞いた。
ただし、もっぱら噂になっているのは、女嫌いの部分と、屋敷がゴミ屋敷化しているという部分だった。
「女嫌いですからね。ラムゼイ伯爵は当然未婚。お子様もいらっしゃいません。ご自分のせいなので致し方ありませんが、後継ぎを探していらしたのです。そこへ……」
「待て待て。そういう問題じゃないよ。全くどこから聞いてくるんだ、そんな話」
ついに旦那様が割り込んだ。
「後継ぎなんか、探しようがないだろう。法律で相続は大体決まっている。候補の家はいくつかあるから、私にも可能性があると言うだけの話で」
まったくドレスメーカー恐るべしだ。妻?の私が知らないのに。
「ファーラー様は、奥様も同格の伯爵家の出身で、その点からも、まったく問題ありませんもの。これで、騎士の家庭だからと油断して、飲み屋で知り合った平民の娘と結婚していたりすると不利です。もう確定と言っていいと思いますわ」
ハリソン夫人がしたり顔で言った。
ドレスメーカー、恐るべし。いろんなことを知っている。知り過ぎている。
「本当ですの? 旦那様」
私はおずおずと尋ねた。
「全部、未定の話だよ」
困惑しながら旦那様は私に説明した。
「今は、それこそ噂の段階。噂話を聞かせて、あとでガッカリさせてもどうかと思って」
ガッカリ?
「そうですわね。伯爵夫人ともなると、事情が違ってきますものね。ですけど、確かに、ラムゼイ伯爵のお話はいつになるやらわかりませんからね」
ええと、それって、ラムゼイ伯爵がいつ亡くなるかという話なのよね?
「ラムゼイ伯爵に失礼だよ」
旦那さまが困り顔で割り込んだ。
それはそうだ。ラムゼイ伯爵は、まだお元気なはずだ。はずである。そうなの? 違うの?
ハリソン夫人と旦那様が、当惑した様子になった。
「今、寝込んでいるらしい」
「まともな料理女をクビにして、ビールやワインばっかり飲んでいたらそうもなりますって。わたくし、女だてらに仕事をしているって、抗議の手紙をもらったことがあるんです」
「えっ」
ラムゼイ伯爵、赤の他人のところにまでお得意の女性論を披露しに出張したのか……。
道理で、ハリソン夫人がラムゼイ伯爵に辛口なわけだ。
そして、よく知っているはずだ。
でも、その線で行くと、ラムゼイ伯爵は騎士様を論破する私のことはどう思うんだろう。なんだか不安。
「では、早速イブニングはこれをすぐに奥様に合わせますわね。ちょうどお似合いのものをお持ちしていて、本当によかったですわ。明日の夕刻までには必ずお持ちしますから」
言いたいことを言ったハリソン夫人は、がっぽり注文を取ってニコニコ帰っていった。
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