誰も知らぬ

江坂 望秋

本文

 この山の裾野からこの山を仰望すると、方角も相まって、神々しく見える。山体はなだらかに左右対称で、やはりその自然物とは思えない象形から、信仰物として崇められているのだった。


 この山に裾野の人間は知らぬある秘密があった。それは山男の存在である。麓の森林の奥まったところに住んでいる彼は勿論、裾野の人間の存在を知っている。普段はその人間たちから避けて、森林に住む動物たちや木の実、崖の隙間から漏れ出る湧き水を飲んで生活している。


 季節は夏に近付いていた。それに伴い、山開きが近付いていることも山男は理解していた。少し登って、裾野の人間たちの様子を観察した。

「今年は客が少ないやも知れん」活気のない裾野にそう判断した山男はいつもは行かぬ遠い森まで狩猟採集の場とした。


 夏が来て、裾野の人間たちが繁く山へ通い始めた。山男の予想は的中した。彼は人間のすぐ横まで行くこともあった。

 ある日、一人の男が登ってきた。装いは登山服で風景とマッチしていたが、どうも様子がおかしい。不自然に周囲を見渡し、偶に水筒の水を飲み、まるで万引き寸前のような挙動であった。

 山男も流石に気になり出した。怪しい男の歩みがだんだんと速まってきた。それに合わせ、その男は他の人間が入ろうとしなかった山男の森へ入っていった。

「どうしたものか」山男は久しぶりの恐怖に戦いた。


 怪しい男は森に文明をもたらしに来たのだった。

 懐から長く乾いた縄を取り出し、それを木の枝に括りつけ、垂らす。先端は輪っかになっていて、何をするのだろうか?山男は怖くなって、木の陰から目だけを出すようにして隠れていた。

 怪しい男はその輪っかに首を通した。その時の顔よ。汗が不必要に流れ、表面が仄かに煌めく。恍惚とさせるわけでもない芸術は、山男の本能に引っ掛かった。

「出ていけ!」

 音が響かぬこの森で、山男の叫び声は幾度となく反響した。怪しい男はそのまま固まっていた。


 怪しい男はそのまま死んだ。山男はそれに安心すると、まるで森の一部のように、気にすることもなく過ごしていた。

 縄が切れ、死んだ男が地に横たわり、朽ち果ててゆく。それが山男の文明だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

誰も知らぬ 江坂 望秋 @higefusao_230

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ