雪村遥人のエッセイ集

水咲雪子

ある日のアルバイト

 朝早く、一本の電話が入った。なんでもアルバイト先で急遽来られなくなった者がいたらしい。その日は特段やることもなかったので、私は快く受け入れた。今思えば、それが間違いだったのかもしれない。

 私が勤務しているのは地方のラーメン屋だ。いくつか店舗はあるものの、それは地元の範囲に数件あるだけで全国展開しているというわけではなかった。

 出勤して間も無く、私は違和感に気づいた。普段麺場(麺を茹でたり盛り付けなどをするところ)にいるはずの社員さんの姿がなかった。代わりに別の人(以降Aとする)が来ていたが、その人とは初対面であった。

 開店時間になり、私はいつものように客を案内して食券を受け取った。席の番号を記録し、厨房にいるAに食券を渡すと、「サイドよろしくな」と言われた。私は困惑した。

 この店ではホール一人麺場一人サイド一人と、最低でも三人を必要としている。さほど忙しくない時間帯であれば二人でもなんとかなるかもしれないが、ここはショッピング施設の中にある飲食店だ。昼は子供連れなど多くの客が訪れる。

 そんな中ホール担当は席の案内、食券の確認と伝達、お冷や子供用の小皿の準備、退店した席の清掃をこなさなければならない。とてもじゃないがサイドと並行なんて出来はしないのだ。

 とはいえ私はただのアルバイトだ。出された指示に逆らうなんてことは出来ず、言われた通りにチャーハンや唐揚げを仕上げていった。

 しばらくすると、退店する客が増え、次の客が見え始めた。直ぐに空いた席の食器を厨房へ運びこむ。すると、Aはこんなことを言い出した。「少々お待ちくださいって言えばいいからな。先にサイド終わらせろよ」

 私は憤慨した。これでも接客業のアルバイトはもう四年目になる。客を待たせることを前提とした仕事など、客商売であってはならないことだと教わっているからだ。当然私もこれは正しいと思っていた。

 文句の一つでもいってやりたかったが、生憎そうもいっていられない。とにかく指示の通りやることにした。

 そして事件は起こった。

 時刻は確かあと少しで二時になろうかという頃だった。そうだ五十七分だったな。一組の客が購入した食券のキャンセルを申し出たのだ。この時私はサイドのチャーハンを作っていて、「先に対応行ってこい」と言われてホールへ向かった。食券を受け取ると、そこには一時三十四分と書かれていた。時間を見たのはその時だった。

 席は空いているのに座れず、声をかけても「少々お待ちください」としか言われない。そんな状況で大人しく待っていられる者はそう居ないだろう。それも五分やそこらではない。この客はAの愚行によって二十分もの間立ったまま待たされていたのだ。彼らの怒りや不満はもっともなものだろう。

 これは私が危惧していたことでもあった。

 Aはもしかしたら、待っている時間は同じなのだから、通っている注文を先に終わらせる方が効率的だ。とでも思っていたのかもしれない。だが、『席に座って待つ』『満席で席が開くのを待つ』『席は空いているが案内されず立ったまま待つ』ではたとえ来店から食事を始められるまでが同じ時間だったとしても、客が抱えるストレスは大きく異なる。こうしてストレスを抱えた客の対応をするのは私自身とても苦手だった。

 内心では「ほら、やっぱりこうなった」と毒突くがそれを声に出す勇気はなかった。

 そのまま頼まれていた勤務時間を終え、帰路についた。

 まだ日も暮れていない時間だが、この日は家に着いてすぐに布団へ潜った。

 客のことを顧みないAへの不信感と、そんなAに反論もできなかった自分の無力感が心の中で渦巻いている。

 こんな私を、明日の私は許してくれるだろうか。

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