第2章 平和の崩壊
欠落している記憶
あれは、なんだったのだろう……
実はぼうっと天井を見上げていた。
夢から覚めると、目の前で母の詩織が心配そうにこちらを見つめているという状況だった。
事情を聞くに、いつもリビングに下りてくる時間になっても下りてこないので様子を見に来たら、汗だくでうなされていたそうだ。
起き上がろうとしたが、体が鉛のように重たくて起き上がれなかった。
心身ともに疲労感と倦怠感に
目を開けているだけで、気力と体力を激しく消耗してしまう。
それくらいまでに、全身が疲弊しきっていた。
もちろん、こんな有り様で学校に行けるはずもなく。
午前九時を回った今も、実はベッドから動けないでいた。
扉がノックされ、そのすぐ後に開く。
スポーツドリンクの入ったペットボトルと薬を持って入ってきた詩織の姿を、実は気だるげに見つめる。
「本当に、病院行かなくていいの?」
詩織は実の顔を覗き込むと、心配そうにそう訊ねてきた。
「ん、大丈夫。寝てりゃ治るよ。」
そっけなく返す実。
「だって、こんなに熱があるし……」
「大丈夫だって。」
「そうかしら…。私、仕事休んだっていいのよ?」
詩織の言葉は真剣だ。
実は微かに笑った。
力が上手く入らなかったので、笑えたかどうかは分からないけど。
「大丈夫だから。早く仕事行きなよ。ただでさえ遅刻してるんでしょ?」
会社で役員秘書をしている母が、本来なら遅刻だってできない環境にいることは知っている。
仕事が生きがいの母に、これ以上の手間はかけさせたくなかった。
「もう小学生じゃないんだし、やばくなったら電話するから。」
そこまで言って、ようやく詩織は諦めたように息をついた。
「そう……分かったわ。じゃあ、その分働かなくちゃね。」
詩織はあっという間に雰囲気を切り替えた。
こういう切り替えの早いところが、母の長所だと思う。
「じゃあ、実。飲み物と薬はここに置いておくわね。あと、台所にお粥を作って置いてあるから、きちんと食べること。それと、ちゃんとこまめに水分補給はするのよ。脱水症状なんか起こしたら、治るものも治らないんだからね。それと……」
「あー、分かったから、もういいよ。」
実はひらひらと手を振った。
「分かったから、早く仕事に行きなって。」
(お願いだから、静かに寝かせて……)
本音は胸の内にしまっておく。
詩織は実の様子がやはり気になるのか、後ろ髪を引かれるような表情をしていたが……
「行ってくるね。できるだけ早く帰るから。」
極力明るい声でそう告げて、詩織は部屋を出ていった。
足音が遠のいていき、しばらくしてから玄関のドアが開いて閉じる。
そして次に、鍵がかけられる音が響いた。
家の中から、自分以外の気配が完全に消える。
それを実感して、実は深く息を吐き出した。
病院に行かなくていいと強く主張したのは、この熱が風邪によるものではないと思ったからだ。
その根拠は、もちろん母に言えるはずもないけど。
「………」
天井を見つめたまま考える。
あの夢は、いったいなんだったのだろうか。
考えれば考えるほど、不思議な夢だと思う。
確かに、忘れていた方が幸せな夢だった。
あんな夢を覚えていたら、もっと早く気が参っていた。
たかが夢と片付けることもできる。
でも、納得はできない。
夢の中で感じた危機感も、体の中を熱が貫く感触も、全部本物だった。
まるで現実に体験しているかのように、全ての記憶が鮮明だったのだ。
あの声も、あの手も、あの闇の世界も。
夢の中で起こったことは全て、実感を伴って記憶に刻まれている。
あの声は、誰のものなのだろう。
鈴のように軽やかで、か細くて小さな声。
きっと、女性の声だと思う。
実は熱でまともに働かない思考を精一杯巡らせる。
あの声を、どこかで聞いたことがある気がしたのだ。
いつ、どこで聞いたのか。
具体的なことは何一つ思い出せないけど、とにかくどこかで聞いたことがあると思う。
(もしかして……あれより前のことかな?)
実は物
普段は考えないようにしている過去が、瞬く間に脳内を駆け巡る。
―――自分には、五歳の時より前の記憶がない。
父親と出かけた先で事故に遭い、病院で目覚めた時には、両親のこと以外何も覚えていなかった。
両親はそれから、つきっきりで自分に全てを教えてくれた。
わざわざ他県に引越し、自分が過ごしやすい環境を作ってくれた。
そのおかげで、今自分が記憶に関して負い目を感じることも、気に病むようなこともない。
自分が認識している記憶の中では、あの声の主はどこにもいない。
だとすると、思い出せない記憶の中に答えがあるのかもしれない。
そう思った。
でも……
ふ、と。
実は目を閉じる。
(……考えてどうするの?)
今まで、過去のことを思い出そうと試みた経験は何度もある。
幼過ぎる時の記憶など、別に忘れてしまっても自然といえば自然なのだが、おぼろげな思い出の欠片すらないというのは、やはり気持ちが悪かったからだ。
自分の一部がないという喪失感に苦しんだこともそれなりにある。
両親が見えないところで、それ相応の苦悩はあった。
しかし、いくら思い出そうと頭を働かせても、結果は同じ。
何も得られはしなかった。
両親に訊いてみようと思いもしたが、そんなことを訊いて母に心労をかけたくない。
なんでも相談できた父は、何年か前からこの家を留守にしている。
単身赴任で海外にいると聞いているが、忙しいらしく連絡すら取れない。
今頃、どこで何をしているのやら。
どんなに考えたって、失われたものは戻ってこない。
そう諦めがついたのは、中学に上がってからだった。
(今は、考えるのをやめて休もう。)
そう思った矢先、インターホンのチャイムが鳴り響いた。
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