忘れている夢の中へ

 ―――バンッ



 薄暗い部屋の壁に、枕が叩きつけられる。



「……もう、なんなんだよ…っ」



 肩で息をしながら、実は低くうめいた。



 時刻は午前二時を回ったところ。

 この謎の夢に本格的に悩まされ始めて、もう一ヶ月近く経つ。



 毎晩この夢を見ても、肝心の内容は未だ分からずじまい。

 夢を見た後は妙な緊張感のせいで眠れず、結局一睡もできないまま朝を迎える。



 そんな毎日を過ごして一ヶ月。

 いい加減、体調に明らかな影響が出てきていた。



 学校で何回か倒れかけたこともある。

 精神的にも肉体的にも、もう限界だ。



 気持ち悪さと苛立ちに、実は思わずベッドを殴りつけた。



 視界がぼやけて、今見ている光景の方が夢のように感じる。

 そのうち体を支えきれなくなって、実は倒れるようにベッドに横たわった。



 世界がゆらゆらと揺れる。

 それでも、眠気は皆無。

 汗に濡れた髪が額に張りついて気持ち悪い。



 ―――どうして、自分はこんなに苦しんでいるのだろう。



 ふとそんなことを考える。



 そもそも、いつも夢のことを覚えていられないのはどうして?

 同じ夢を毎日見ているのなら、内容を覚えていてもおかしくはないはずなのに。



 覚えていられないほど些細な夢なのか。

 あるいは誰かに、夢の記憶を消されているのか。



「………」



 実は虚空を見つめる。



 ――――誰かに記憶を消されている。



 どうして急に、そんな突拍子もないことを思いついたのかは分からない。

 しかしそこに思い至った瞬間、夢の内容を思い出せない原因はそれだと直感的に思った。



 そんな非現実的なことがあるわけない。

 すぐさま理性が訴えるが、どうしようもなく本能がそうだと告げている。

 そしてどうしてか、本能の主張を素直に受け入れてしまう自分がいた。



 誰かが邪魔しているというなら―――



「自分から、確かめに行かないと。」



 ぼんやりと呟くと、実は頭まですっぽりと毛布を被った。

 静かに目を閉じ、集中する。



 強制的に、周りの音を自分から隔離。

 自分の意識を、無理やり闇の中へ沈める。



 しばらく努力していると、急に周りの音が遠のいて消えた。

 寝転がっていたベッドの感触がなくなる。



 空気がくるりと変わるような感覚。

 それに、実はゆっくりと目を開いた。



 目の前には、ただ闇が広がるばかりだった。

 上も下も、右も左も分からない世界だ。



「ここが……夢の中?」



 実は首を傾げる。

 数秒そこに立ち尽くしていた実は、ふと表情を険しくして周囲をぐるぐると見回した。



 誰かに見られている。



 姿形は見えないが、闇のどこか―――自分のすぐ近くに確かな気配があった。



「誰か……いるの?」



 辺りを見回しながら、そう問いかける。



 返事はなかった。

 少し粘ったが、闇は実の声を吸い込んだまま何も返してこない。



 思わず溜め息が口をついてしまって、実は落胆したように肩を落とす。

 その時。





 ――――おいで……





 ふいに、誰かの声が闇の中に響いた。



「―――っ!?」



 いきなり聞こえた声に、実は体を強張らせた。

 反射的に誰何すいかの声をあげようとしたが、そこで自分の身に起こっている異常に気付く。



(声が……出ない…っ)



 いつの間にか、声が出せなくなっていた。

 何がどうなっているのか、全く状況についていけない。



 一瞬で混乱の中に落とされた実は、自分の喉を押さえたまま固まってしまう。

 その間にも、声はこちらに語りかけてくる。



 ――――おいで……こっちに……



 聞き取るのも困難な、女性の小さな声。



 それを聞きながら、胸にわだかまっていた苛立ちや疑問がすっと消えていくのを感じる。

 きっとこれが、今まで見ていた謎の夢の中身なのだ。



 ――――おいで………



 実は頭をフル回転させる。

 自分の知っている人間に声を当てはめてみるが、残念ながら該当する人物はいない。



(誰…?)



 それを深く考える時間はなかった。

 考えるより先に、新たな変化が起きたからだ。



 見渡す限りの闇の世界。

 その一部が不自然に揺らいだ。



 目をらしていると、揺らぎはだんだん大きくなり、そして―――



 ぬっと。

 揺らぎの中心から、手が出てきた。



(げっ……何あれ、気持ちわる!)



 素直な心境だった。

 ほっそりとした手が、手首あたりまで闇の中に姿を現す。



 その手はしばらく何かを探してさまよっていたが、ある位置でピタリと止まった。





 その後、手はまっすぐに―――こちらに向かって動き出した。





「―――っ!?」



 実は退こうともがくが、混乱で体が言うことを聞いてくれない。



 手がゆっくりと近づいてくる。

 それで手と自分の距離がそこまで離れていないことに気付き、心臓が鷲掴わしづかみにされたような心地になる。



 実は心の中で頭を抱えた。

 想像を遥かに超えた夢に、気が狂いそうだった。



 どんどん近づいてくる何者かの手。

 実はぎゅっと目をつぶった。



(捕まる…っ)





 ――――――だめだっ!!





 聞き覚えのある声が響いた。

 手の動きがふと止まる。



 その隙を突いて、実と手の間に強風が吹き込んだ。

 思わず一歩下がった実を、すかさず風が包み込む。



「!?」



 実は瞠目した。



 瞬く間に、全身から力が抜けていくのだ。

 視界にかすみがかかる。

 意識が遠のく感じがして、それと同時に頭から何かが零れ落ちていく。



「―――っ」



 実は崩れかけた足に力を込めて、その場で踏ん張った。

 このまま流されたら、次に目覚めた時には絶対に夢のことを覚えていないだろうと思い至ったのだ。



 また忘れてしまっては、ここに来た意味がない。

 せっかく自らここへ来たのに、何も掴めずじまいで終わる気はない。



 実は、自分に働く不可視の力に精一杯抵抗した。



 初めて理解した。

 今まで夢を忘れていたのは、守られていたからなのだろう。

 この声と風が、ずっと自分を守っていてくれたのだ。



 しかし、これ以上は引くわけにはいかない。



(父さん……ごめん…っ)



 ほとんど無意識で、手を横に一閃した。

 それだけで、何故か自分を包む風の渦が内側から破壊された。



 風が消えたことで手が再び実に迫るが、実は手が自分に到達する前に闇を蹴る。



 体が重力を無視して高く舞い上がる。

 実は闇の中でくるりと体をひねり、手から十分に離れた位置に柔らかく着地した。



 また風がふわりと巻き起こるが、実が目に力を込めると風が突然止まった。



 いや、正確には止まったのではない。

 風は今も吹こうとしているが、自分自身がそれを抑え込んでいるのだ。



 どうしてそう感じたのかは分からないが、これは間違いのない事実。

 そう、己の内側が告げていた。



 疑問を持つまでもなく、理解させられた。

 そんな気分だった。



 実は次に手を睨む。



 来るな、と。

 心の中で必死にそう念じた。



 すると。



(……え?)



 実は目をまたたく。



 急に、視界が不自然にかげったのだ。

 しゃがかかったかのように、目の前の映像が鮮明さを失う。



 そして―――感覚という感覚が消え失せた。



 まるで、他人の目を介して世界を見ているような気分。

 体の自由が、何一つかない。

 どうにかして体を動かそうとするが、その努力が全く報われない。



 もがいているうちに、実をさらに混乱させるような事態が起こる。



 右手が勝手に動き出したのだ。

 驚愕する実にお構いなしで、右手は動き続ける。



 腕が上がり、懲りもせずに迫ってくる手に向かって右手が突き出される。

 その右手の先を追いかけ、実は思い切り焦った。



 闇から現れた手が、またこちらとの距離を詰めつつあった。



(捕まったら意味ないじゃん!)



 必死に身を引こうと全身に力を込めるも意味はなく、ただ心ばかりが焦りを募らせていく。

 しかしその焦りは、突然自分の内を貫いた熱に掻き消されてしまった。



 何か、と自問する暇はなかった。

 体を貫いた熱は右手の先に集まり、大きな光の玉を作り始めた。



 そして―――



 バアァァァンッ



 右手から放たれた高速の光線が、こちらに向かってきていた手に直撃した。



 きゃああああっ



 甲高い悲鳴が空間にとどろく。



 後には、何も残らなかった。

 自分を捕らえようとした手も、その手が現れた闇の揺らぎも、誰かに見られていた気配さえも、その全てがここから消えていた。



 右手がゆっくりと下がる。

 その手が下がりきった瞬間に、体の自由が返ってきた。



「……へ?」



 いつの間にか、声も出せるようになっているようだ。

 実は己の右手を茫然と見つめた。



 何が起こったのか、全然理解できなかった。

 結果的に身の危険は回避できたが、胸に残るのは違和感と疑問。



「……はぁ。」



 溜め息が零れた。



 考えても仕方がないことだけは分かる。

 そして、ひたすらに体が重い。

 ぐにゃりと視界が歪む。



 もう、抵抗する気力もない―――



 実の意識は周囲の闇に塗り潰されるように、ぶつりと途切れてしまった。


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