写真家と踊り子

@manolya

写真家と踊り子

 写真家が次の街に着いたのは、陽が傾きはじめた時間だった。車にしばらく分の荷物を積み込み、街の写真を撮っては移動する生活をはじめて、もうすぐ一年になる。自宅は空だ。郵便物は、近所の知人に頼んできた。飼っていた猫は、恋人に預けてきた。たまに、車の中で現像した写真に宛名を書いて、その街の郵便局から送った。返事はない。ガソリンを入れたり軽食を買ったりするとき以外、ほとんど誰ともしゃべることのない日々だった。時間や季節、その日の天気、街の風景、街と街の間の田舎道、日が暮れればそのまま中で眠る車、そんなものだけが、男に話しかけてくる全てだった。写真家は、カメラを通してそれらと、自分と、話をしているつもりだった。それで、ガソリンが尽きそうだったから、今日はこの街に泊まることにした。


 風が吹くたびに赤い土埃が舞い上がる。もう寂れて誰もいないように見える、街の残骸だった。やけに広い道路の両側に、誰もいない店が口を開けている。シャッターすら閉めずに誰もいなくなってしまったようだ。客を待っているうちに錆び付いて、動かなくなってしまったのかもしれない。ペンキがはげたところが錆びていた。錆が赤いのか、赤い土埃が積もっているのか、少し見ただけでは分からない。上から吊られた小さな看板は、風にときおりキイ、と鳴った。商品はもちろん、壊れたレジや椅子、空の棚さえない空洞の店舗が、ただ道の両脇に並んでいた。看板に描かれた陽気な文字やイメージだけが、なんの店だったのかを示している。今は風と、舞う土埃だけを誘っていた。空っぽの店内に。風は吹き込んでは出て行き、土埃は居座っている。


 写真家が街の景色を眺めていると陽が傾いて、空気が赤みを帯びてきた。土埃が赤いのか、空気が赤いのか、分からなくなってきた。風に埃が舞い上がり、建物の間を抜けた光の形が写真家の前の前に浮かんだ。はがれかけた、色のあせたポスターの影が、手招きするようにハタハタと動いた。赤い光の帯は店と店の間の数だけ、男の前に並んだ。広い道に、光の帯をさえぎるものは、何も通らない。


 写真家はふとカメラを構えてその風景を撮った。街が、これでもかつて少しは栄えたんだ、今は誰もいないけどな、と話しているようだった。


 何枚かシャッターを切った後、ガソリンが切れそうなことを思い出し、ガソリンスタンドがないか、通りを進んでいった。触れそうに思う光の帯の中を、一つ一つ通り過ぎて行った。光を触る、幻の感触を感じて。


 陽の色は赤みを増していく。すべてのものの影は濃くなり、伸びて行く。夜になったって特に変わらないけどな。街はそう話しているような気がする。暗がりは段々と、その闇の濃度を重ねていった。


 何もかもくすんだ景色の色が、赤く染まっていく。夕方の赤は、いつかから夕闇の色も帯びていく。そのとき、写真家の視界の端でひらりと動くものがあった。思わずそちらを見る。足を向けると、そんなに大きくもない、古いダンスホールがあった。看板は、赤と青に塗られた電球で縁取られている。赤、青、赤、青と交互に、土埃をかぶって。勢いのある文字で書かれた店の名前。かつて、今くらいの時間になると、営業を始めていたのかもしれない。今はただ、地下に続く階段の先に、土埃と闇があるだけだった。店の前には、毎晩花が飾られたのだろう。たっぷりの花が入る花入れが、水も干上がり、空っぽのまま忘れられていた。花の残骸すら、風に吹かれて跡形もなかった。写真家は、それぞれが大きくて強く香る、色とりどりのユリやバラが盛られているさまを想像した。


 いや。微かに花の匂いがした。埃の臭いしかしない寂れた街の通りで。瑞々しいというよりはわざとらしいような、大袈裟な花の香りを、写真家は確かに吸い込んだ。写真家は何度か息をして、どんどん暗くなる辺りを見回した。


 ダンスホールの入り口の前に、向かいの建物の隙間から一条の夕日がさしていた。その光は、踊る一人の踊り子を照らしていた。


 もうすぐ消える、スポットライトのような夕日を浴びて、踊り子は薄い、大きな透ける赤の布を手に持ってひらひらさせ、古くさいステップを踏んでいる。長い髪と長い手足を大きく、優雅に動かして。柔らかい、よく揺れる裾の長い衣装から、時おり華奢な脚が見えた。写真家の目に入ったのは、踊り子の揺れる衣装の裾だった。


 踊り子の頬は夕日に照らされて赤く染まる。その表情は恍惚として微笑んではいるが、自分の踊りに、体の一つ一つの動きに集中している。観客を意識している風ではない。おそらく、ここでずっと踊っていたのだろう。ここで踊るのが夢だったのかもしれない。叶ったときの踊り子の夢か、ダンスホールの記憶が見せた記憶だろうか。

 

彼女は、一番の踊り子だったのかどうかは分からない。まだ少女の面影を残した顔立ちだった。夕日が照らさなくても、おそらくはバラ色の頬をした。


 写真家は、踊り子が幻だと分かっていた。身動きを止めて彼女に見入ると、一瞬一瞬と濃厚になる夕闇が、踊り子と少しずつ同化していく。舞台の幕が降りていくように。踊り子にしか聞こえない音楽の中で、彼女だけが見える豪華な花々に囲まれ、むせるようなその匂いを吸い込み、彼女だけを見つめる幻の観客の注目を一身に集め、踊り子は永遠に踊り続けているようだった。今は寂れた街だけが、彼女を見つめている。


 写真家はゆっくりとカメラを構えた。写真には写らないと分かっていた。写らなくても、写真家はこの風景を覚えていたかった。視線を引きつける踊り子の表情と、手足と髪の先、揺らす布の端までに神経を集中させた美しい動きは、どうしても写真家にシャッターを押させた。フラッシュは焚かなかった。シャッター音だけが、音もない、幻の色しかない夕暮れの街に鳴った。


 不意に踊り子が動きを止めた。カメラから目を離し、写真家は直に踊り子を見る。


 踊り子は確かに写真家を見た。少女のような顔で、夕闇になる直前の、かろうじて赤い夕日に照らされた赤い頬で笑った。そして、手に持っていた布をくるりと背中に回し、衣装の左右の裾を持ち上げ、すっと身を低くして、写真家に向かってお辞儀をした。


 写真家はカメラを持っていたから拍手が出来なかった。その代わり、笑顔を返した。


 夕日は完全に沈んで、街は夕闇になる。


(完)

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