*32* 慟哭の雨
「反りの浅い
手入れを終えると、顔全体を覆っていた竜の面をはずす。
ともすれば女性のように柔和な顔立ちの美丈夫が、横たえた刀へほほ笑んだ。
「私はちょっと湯浴みをしてきます。その子をよろしくお願いしますね、つづ」
『はい、承知いたしました』
濡れた甲冑を脱いだ蘭雪は、自身の愛刀を捨て刀のとなりに置くと、部屋を出ていった。
『はじめまして。わたしは
行儀よく座った少女が、にこにことあいさつをしてくる。だが捨て刀がうんともすんとも言わないのを見ると、くすりと笑みをこぼした。
『恥ずかしがらないで、出ていらっしゃい』
しばらく沈黙が流れ。
鼓御前の目の前に、幼い少年がすがたを現した。人の子でいえば、六、七歳ほどだろう。
『打たれて百年ほどかしら。かわいらしい付喪神さんですね』
『……あんたも、付喪神なの?』
『はい。といってもわたしは
『すりあげられた……?』
『雷に撃たれて、刃が焼けてしまったんです。なので焦げたところを研いでいただいたら、すこしちいさくなってしまいました』
鼓御前によると、いまは
太刀であったときの
『あなたは?』
『……
『どうして森のなかにいたの?』
『山賊にぬすまれて、すてられた。まえは神社にいたけど、
なにせ、付喪神として自我をもって間もない。
おのれがいつ、だれに打たれのかもわからない。
ただひとつわかることがあるとすれば。生まれ故郷もわからないほど、何度も何度も、捨てられてきたということだけだ。
『……おれは、おもしろくない刀なんだって』
無銘はぽつりとこぼす。
途切れ途切れの記憶のなか、人間のひとりがじぶんに対して言っていた言葉だ。
刀の価値を決めるもののひとつが、
刃文とは、刀身に浮びあがるもようのことである。刃文は鍛錬の仕方によって決まり、種類もさまざま。
だが無地の着物より、花鳥風月といった
刀もそれとおなじ。刃文が直線的で、地鉄も変化に乏しい無地。そんな無銘のことを、だれも必要とはしなかった。
『あんた、あのにんげんと話ができるんだろ? それなら、おれのこと折るようにいってよ』
じぶんはなぜ生まれたのか。
必要とされないなら、存在する意味などないはずだ。
だからはやく、終わりにしてほしかった。
もう……疲れたのだ。
『──なんてことをいうんですかっ!』
それなのに。無銘が望む『終わり』を、彼らは与えてはくれなかった。
うつむく無銘のほほを、鼓御前が両手でつつみ込む。
『あるじさまはわたしのすがたが見えているわけでも、声がきこえているわけでもありません』
『でも……さっき、しゃべりかけて』
『わたしのことを物ではなく、ひとつの命としてたいせつにしてくださる。蘭雪公はそういう方なのです』
無銘は言葉をうしなった。
ひとつの命として、たいせつにする?
鋼の塊でしかない刀を?
そんな人間がいるものか。
『現にあるじさまは、あなたの御手入れをなさいました。終わらせることではなく、つないでゆくことをおえらびになったのです。それなのに、折ってほしいとか簡単に言わないで!』
『──っ!』
雷に撃たれるとは、こんな感覚なのだろうか。
『無銘。あなたは、なんですか?』
『おれは……刀』
『そうです、あなたは刀です。思いだして。表面的な美しさだけが、刀の価値を決めるのではないでしょう』
鼓御前の言葉を受け、無銘は
(おれは、刀……)
刀とは、鋭い刃を持つものだ。
その斬れ味で、敵をねじ伏せるものだ。
『わたしは一度焼けてしまいました。ですから、あるじさまがおえらびになったあなたが、今度はわたしの代わりに、あるじさまを守ってくれませんか?』
……そうだ。そうだった。
(おれは……刀なんだ)
こんな当たり前のことを、どうして忘れていたのだろう。
(おれは、刀だ!)
そのことを思いだした夜。
「まっすぐな直刃。鏡のように澄んだ無地の地肌。よく鍛えられたんでしょうね。強靭な、よい刀です」
無銘の刀身を見つめながら、蘭雪がつぶやく。
「『木の葉の泣き声が聞こえる』……と、つづが言っているような気がしました。そしてそのさきに、きみがいました」
幼い付喪神のすがたをした無銘と、蘭雪の視線がまじわることはない。それでも。
「私といっしょに闘ってくれますか──
青々としげった木の葉からしたたるしずくのように。
この涙を、悲しみに暮れる声を、聞き届けてくれるひとがいた。
名もなき
* * *
鼓御前に代わり、青葉時雨が蘭雪の実戦刀となった。
数々のいくさ場を駆け抜け、敵を
それでも蘭雪は鼓御前を肌身離さずそばに置いていたし、いくさ後も青葉時雨の手入れを怠ることはなかった。
(おれと、
青葉時雨はそう信じて疑わなかった。
けれど、時の流れとは残酷なもので。
たったの数十年そこらで、蘭雪は死んでしまった。
『うそつき……いっしょにいようって言ったくせに……あるじのうそつき!』
『青葉……』
蘭雪の墓の前で、泣きわめく青葉。
そんな弟の背に、鼓御前はそっとふれる。
『あるじさまは天寿をまっとうされたのです。それならばわたしたちも、公が生前望まれたように』
『……うん』
わかっていた。人の一生が、儚いものであることは。
だから鼓御前も、青葉時雨も、ともに墓に入ることにした。蘭雪がそれを望んだからだ。
蘭雪の遺言を受け、かつての臣下たちがふた振りの刀を遺骨とともに埋める。
(あぁ……これでおれたちは、だれにも、邪魔をされずに……)
大丈夫だ。たいせつなひとがそばにいるから、さみしくはない。
土に埋もれた暗い暗い世界で、青葉時雨はそっと意識を手放す。
あとには、深淵のような静けさにつつまれるだけ。
──けれど。
だれかのそばにいたいというささやかな願いさえ、突然打ち壊される。
『……あるじ……あるじ!』
滝のような土砂降りの夜のことだ。
蘭雪の墓が、何者かによって掘り起こされたのである。
『姉さま……どこにいるの、返事してよ、姉さま!』
ざあざあと、冷たい雨がふりそそぐ。
『ねぇ、おれを独りにしないでよ……あるじ……姉さまぁっ!』
冷たく凍える雨の夜、青葉時雨は独り
ぱきんと、みずからの命が折れる音を、最期に聞きながら。
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