竜騎士は灼けつく様な黎明を越えて
水阿下 照久
第一部 第一章 夜明けの時
第1話 夢と非日常
少年の夢は、空を飛ぶ事だ。
空を飛んで。
光を受けて水面輝く海を。
人々が暮らしていく都会を。
人の脚では途方も無い時間を掛けて登らなければならない山々を。
雲より上の高さから眺めて。
山を越えて。海の向こうへ。何処までも果てなく。
力の限り飛ぶ事が夢だった。
小学校の授業参観で将来の夢として語った事時は酷かった。
クラスメイトには爆笑された。
先生にはもっと現実を見ろ、と小言を言われた。両親からは3時間に及ぶ説教を食らった。
悔しさに溢れたその少年は、祖父の家に逃げ込んだのを覚えている。
「空を飛びたいって思うのは、間違っているのかな…。」
布団に臥した祖父の隣で、少年は消え入りそうな声で呟いた。
〜〜〜
あの日から10年。
高校2年生にまで成長した少年、
目的地は裏山の主と呼ばれる大樹。その木の虚にある秘密基地。
辰善の夢は昔から変わらず、空を飛ぶ事。
その為にパイロットを目指している。
しかし、辰善の父親は家業である医師とクリニックを継いで欲しい、と言って聞かない。
母親も医師は安泰だから、隙あらば勧めてくるので辰善は辟易した気分で毎日を過ごしていた。
午前中で終わった夏期講習の帰り道。
午後の太陽から照りつけて来る強烈な陽射しを避ける為に木陰を歩く。
蝉の鳴き声と蚊の羽音のデュエットが耳に入ってくる。
時々蚊は血を吸おうと、半袖から出た腕に止まる。
蚊には悪いが、パシンと一発叩かせて貰った。
夏の山の暑さにも負けず、辰善は秘密基地にたどり着いた。
裏山の主と呼ばれる大樹は某電機会社のCMに出てくる、某気になる木みたいに太くて立派な代物である。
なんでも樹齢1000年だと地元では噂になっている。
その木の虚の中の秘密基地。中のスペースは狭く、その中に丸太を加工した机を置いている。
時代は今、DIYが求められているというが辰善の持論だった。家に帰りたくないと思った時はここで宿題をしたり、飛行機の本を読んだり。お菓子を摘んだりしている。
何より素晴らしいのが、裏山という立地から見えるその景色。
高い所から見える、海の青がよく映える水平線は
いつまで見ていても飽きない最高の景色だった。
そんな最高の秘密基地である大樹に向かって、押し出しをかます……、スクラムを組む少年がいた。
生来の茶髪を靡かせ、赤いタンクトップを着ており、小麦色に日焼けした肌は日本の夏の陽射しの中で良く映えた。
「おー、相変わらず精が出るな、
「お、飛行機バカの
「飛行機バカは余計だよラグビー馬鹿。そういうお前は部活どうした?」
「ああ、今日はラグビー部休みなの。」
辰善のクラスメイトであり、中学からの腐れ縁であり、友人。
だから辰善は潮が秘密基地にスクラムをかますところまでなら許している。
潮はラグビー部に所属しており、部活が休みの時は決まって秘密基地にお邪魔してくる。
超がつく程のラグビー馬鹿であり、スポーツ推薦で大学進学を目指せるレベルなのだ。
潮はスクラムを止めて、木陰に備え付けた丸太のベンチに座る。
そして、辰善に向かって右手を伸ばす。
「俺の隣に座りたくば、貢物を捧げよ。」
「うるせーよ。お前が座っているそのベンチ、俺が作ったって知ってるか?」
辰善は溜息を吐きながら、鞄からジュースを取り出す。
「コーラと炭酸グレープ、どっちが良い?」
「コーラで!!」
「ほらよ。」
「おう、サンキュー!!
やっぱり持つべきものは友達だよな!!」
「今言っちゃう、それ…?」
コーラを手渡し、潮の隣に座る。
カシュッと炭酸が勢いよく抜ける音がする。
辰善は深く味わう様に炭酸グレープに口をつける。
その飲みっぷりはまるで貴重な水を節約しようとする砂漠の旅人か、無人島に漂流してしまった遭難者の様だった。
潮は豪快にコーラを飲みまくり、ぷはぁー、とこれまた豪快に息をつく。
その飲みっぷりはまるで1日の疲れを癒やすサラリーマンか…
「今の飲みっぷり、銭湯上がりのオッサンみたいだったぞ。」
辰善は思わず、口走る。
潮はまるで今にも突進してきそうな雄牛の様な顔で反論してきた。
「俺はまだ十代だぜ!?ピッチピチのティーンエイジャーに向かって何て評価だ?!もっと違う評価をプリーズプリーズ!!」
「じゃあ1日の疲れを癒やす為に居酒屋まで来た、中間管理職のオッサン。」
「どっちにしろオッサンじゃん!?」
夏の暑さにも負けず、辰善と潮は馬鹿騒ぎしながら話し込む。
「そう言えば、潮。今朝のニュース見た?」
「どのニュース?海外俳優全裸徘徊事件?」
「ちげーよ、ジェットヤンキーだよ。時速100キロで素足で走り回るヤバい都市伝説みたいな奴。」
「あー、あのフィクションみたいなの。
そう言えば、辰善知ってるか?小学生達がここら辺でドラゴン見つけたって騒いでるらしいぜ。」
「ドラゴンって…。いい所動物園から逃げた鰐なんじゃないのか?」
「だよねー。」
家に帰りたくない彼は、心のどこかで。
こんな時間がいつまでも続けばいいと願った。
〜〜〜
「そういえば。辰善はどうしてパイロットになりてーんだよ?」
暑さの根源たる太陽が西へ沈み。
雲一つない、透き通る様な黄昏の空を見惚れている時。
潮はラグビーボールを抱えながら、辰善に何気ないつもりで訊いてきた。
「………笑うなよ?」
昔のトラウマを思い出した辰善は潮に釘を刺してから語る事にした。
「子供の頃、空を飛ぶのが夢だった。」
「空を飛ぶ、ねぇ…。で、今はパイロットになりたいと?」
「まあ、それもあるんだが…。両親は大反対でさ。医者になれ、クリニックを継げって言って聞いちゃくれない。
だからこの夢はどうして良いか分かんなくてさ。」
辰善の寂しそうな笑みが夕日を照らす。
そんな辰善の顔を見ても、潮は気まずさや遠慮といった感情は一切出さずに問いかけを続ける。
「じゃあ、どうして夢を諦めないんだ?」
「………死んだ爺さんが、応援してくれたからかな。」
辰善は胸にかけてあるペンダントを取り出す。
オーバル型という卵みたいな形をした、銀製のネックレスだった。
「わっ、何それ凄っ。」
「爺さんの形見。ロケットペンダントって言って、中に写真とか入れれるらしい。挫けそうになったら、このペンダントを見ろってさ。」
「中身は何が入っているの?」
「これだ。」
辰善がロケットペンダントを開ける。
真綿が敷き詰められた空間に鎮座していたのは、ビーズ程の大きさの、艶のある黒色で尖った形状をした物体だった。
「何じゃこれ?」
「多分何かの…爪か歯の化石だと思う。」
「思うってどういう事だよ?」
「仕方ないだろ。爺さんに聞いても忘れたの一点張りでさ。
鑑定に出しても正体不明。何だか分かる前に爺さん亡くなっちゃったんだよ。」
「ふーん、そっかぁ…。」
感慨深そうに浸りながら、潮は抱えたラグビーボールを持ち直す。
「素敵な夢を聞かせて貰ったお礼に!
俺からも、とっておきを教えてあげよう!!」
辰善の前に立った潮は自慢げに胸を張り、黄昏の空にラグビーボールを掲げる。
「山木 潮!!
夢はラグビーの聖地、イングランドのトゥイッケナム・スタジアムで試合することだ!!」
「イングランドとは、大きく出たな。」
高校生である辰善からすれば、イングランドへ渡るという行為だけでもはスケールが大き過ぎて想像もつかない事だった。
一つ確かなのは、潮の夢は辰善の夢より遥かに難易度が高い事だった。
「でもな、俺の夢を叶えるにはさ。
お前の夢が必要なんだ。」
「え。何で?」
潮の突拍子の無い発言に、辰善は呆気に取られて。
反射的に疑問を潮にぶつけた。
「俺がイングランドに行く時さ。
辰善の飛行機に乗って行きたいんだ。」
え、という声も出なかった。
自分は応援されているのか、と思わず自惚れてしまいそうになる。
「辰善の夢を応援するからさ。
俺の夢を応援してくれねーか?」
気の抜けた笑顔で潮は笑いかける。
「仕方ないな。応援するよ、潮の夢。」
辰善もまた、微笑みながら。
率直な思いを、口走っていた。
「おぉ、流石辰善。頼まれたら断れない事に定評のあるイイ男だぜ!!」
「待て待て。俺はそんなあだ名がついていたのか?!」
「何だ知らなかったのかよ?結構有名だぜ?」
「マジで!?」
その後、そんな男子高校生らしい話しをしながらも。
辰善と潮は互いの夢について語り合った。
昔の偉人みたいに飛行機で世界一周すればどうだ、とか。
イングランドの有名チームに道場破りみたいな事をしてみたらどうだ、とか。
何気ない“もしも”の話が。
2人にとっては何よりも楽しい時間だった。
〜〜〜
まだ夕焼けが残る空の下、潮と別れた後だった。
家に帰る足取りがいつもより軽やかに感じる。
応援してくれる人がいる。
その事が分かるだけで、こんなにも晴れやかな気持ちになるとは思わなかった。
同じ夢を持っていて。
友人の夢も応援したいと望んでいる。
きっと、これから自分の夢に自信を持てる日々がやって来る。
潮に感謝を覚えながら家に帰り、リビングに入る。
”ニュースです。全国各地に謎のトカゲ人間が出没しているとの情報が入りました。“
耳を疑うかの様なニュースがテレビから流れる。
あくまで真面目に原稿を読み上げるニュースキャスターの右にはトカゲ人間の再現スケッチの全体図が表示されていた。
「いやいや…こんなUMAいる訳ないでしょ。」
「その通りだ。こんな非現実的な代物、公共の電波に乗せるべきではないな。」
掛け声と共に、ニュース番組を映していたテレビが消えてしまった。
辰善は声の主の方へと振り返る。
「父さん…。ただいま。」
「お帰り、辰善。話がある。こっちに座りなさい。」
辰善が父さんと呼ぶ人物。
白髪混じりの黒髪をオールバックにしており、剃刀の様な目つきに、銀縁の眼鏡をかけた痩せぎすの中年の男。
辰善が住む窯浦市にて“天久スマイルクリニック”という顔面とは真逆のネーミングをしたクリニックの院長だ。
辰善は父親に言われた通りにダイニングテーブルに備え付けられた椅子に座る。
テーブルの上に広げられていたのは、辰善の愛読書であるパイロットになる為の本だった。
「父さん、これ…!?」
「お前の部屋にあった物だ。
その様子だとまだパイロットになりたい様だな?」
「息子の私物を掘り出すとか、いい神経してるよ。」
父親が勝手に思春期の息子の部屋に入り、あまつさえ勝手に私物をおっ広げる行為。
そんな人間のやる事とは思えない所業に辰善は怒りながら悪態をつく。
「辰善、お前はそんなにパイロットになりたいのか?
大人しくクリニックを継いでおけば、将来が安泰なのが分からないのか?」
懐から葉巻を取り出して先端を切り落とし、火を付けて紫煙を吸い込む。
「下らない反抗を続ければいつか後悔する。
大人しく従えばいつか私に感謝する。
そのくらいの分別もつかない様な育て方をした覚えは無いのだがな。」
火のついた葉巻で辰善を指し、決定打になる様な言葉を突きつける。
「無駄な努力をするのは止めて、正しい努力をしたらどうだ?」
「それでも、諦め切れない。」
そんな晴夫の言葉が、逆に辰善にとっては火種になった。
辰善は思わず立ち上がり、晴夫の目を真っ直ぐに見据える。
「12年。12年も夢見て、努力してきたんだ。
そう簡単に諦めてたまるかよ。
まだ試してもいないのに。スタートラインにすら立てていないのに。可能性があるのに諦め切れるかよ!!」
「子供の理屈だな。」
晴夫は紫煙を口から吐き出しながら、辰善の言葉を一蹴した。
その後、眼を瞑り。熟考する様子を見せる。
辰善が我慢出来ずに言葉をかけようとした時、晴夫が口を開いた。
「朔織航空大学。偏差値なら俺が卒業した大学と引けを取らない。そこなら受験を許す。」
「………へ?」
「ただし、チャンスは一回だ。もし不合格なら諦めて医者になれ。それが約束出来るならば受験を許す。」
「もし、合格出来たら?」
「その時はまあ、何だ。………好きにしろ。」
「父さん、どうして…?」
さっきとは余りにも正反対の台詞が出た事に、辰善は思わず晴夫に問いただす。
自身の夢にチャンスが与えられた事に、辰善は未だに信じることが出来なかった。
「勘違いするなよ、お前に潔く夢を諦めさせる為に…!!」
「本当はね、父さんも消防士になりたかったのよ。」
晴夫のツンデレ地味た台詞を中断して、父子会議に入ってきた人物がいた。
専業主婦であり鹿治家の家事全般を切り盛りしている、恰幅の良い中年女性だった。
「か、母さん?いきなり何を言い出すのかね?!」
「でもね、お義父さん…貴方からすればお爺ちゃんから医者を継げって言われて諦めたのよ。」
「そうなの、父さん?」
「貴方がパイロットを目指す姿を見て、昔の自分の未練を思い出したのでしょうね。だからこんな提案したんですよね、アナタ?」
滋子に問い質された晴夫は赤面しながら、話し相手を辰善に切り替える。
「わ、私の事はもういいだろ?
とにかく辰善!!約束はキチンと守れよ!!
この話はこれまで!!はい、お終い!!わかったな!?」
強制的に晴夫は家族会議を切り上げる。
自身の夢にチャンスが舞い降りた。
その事実を実感した辰善はみるみる内に表情に笑顔が宿っていく。
「あ、ありがとう!!父さん!!」
「小難しい話も終わったみたいだし、お使い頼まれてくれるかしら?
お母さん、スーパーで卵買い忘れちゃって。
辰善買って来てくれないかしら?」
「卵ね、わかった行ってくる!!」
喜びのあまり、辰善はハイテンションで家を出て行く。
遠くで「イヤッホォオ〜!!」という叫び声が聞こえた。
そんな辰善の喜び様に、そして自身の非合理的な判断に呆れながら、晴夫は葉巻に火をつける。
「全く…我ながら馬鹿な提案したもんだ。」
「本当。もし、あの子がパイロットになったらクリニックの後継者はどうするの?」
「その時は何とかするさ。」
晴夫は葉巻を深く吸い込み、滋子は微笑みながら
そんな夫を見る。
二人とも、「どうか辰善が望んだ道を進めます様に」と祈るばかりだった。
〜〜〜
時刻はPM17:28。
滋子から頼まれた夕飯の買い忘れを手に急いで歩いている時だった。
「君、美味しそうだねぇ。」
突如後ろから、声が聞こえた。
反射的に背筋が凍りつく様な。
纏わりついてくるネットリとした声に思わず振り返ってしまう。
アロハシャツにタンクトップ、短パンでは隠しきれない、全身に彫られた無数のタトゥー。
金髪に染め上げた髪に、耳や鼻、唇や舌にまで開けたゴツいピアス。
辰善を見る目はさながらメインディッシュを楽しみにした美食家か、はたまた獲物を追い詰めた獰猛な肉食獣の眼光だった。
怪しさ100%配合の決してお近付きになりたくない様な男を見て、辰善は警戒心をマックスにする。
「あー、その、何ですか?俺、男ですよ。」
「安心しなよ。俺にその趣味はない。」
またもやネットリとした声が耳元で囁かれる。
背後から、だ。
「!!??」
辰善は持っていたビニール袋を手放し、後退りしてしまう。
今、この怪しい男は俺の目の前にいた筈だ。
それがいきなり後ろまで移動して来た。
不可解にも程がある現象にパニックになりそうだった。
「俺はヤクルス。一緒に遊んで行かないか?」
「いや、俺ん家凄く厳しくて。門限あるんで帰ります。」
絶対にその趣味があると信じて疑わない辰善はヤクルスの全身から目を離せなかった。
そして、見てしまった。
何か。
先の見えない靄の様な。
粘着くスライムみたいな。
得体の知れない緑色が、染み出して。
ヤクルスの身体を覆って行く。
腰には鱗に覆われた尾が。
腕には硬そうな鱗と、鉤爪が。
脚にはラプトルの様な強靭な爪が。
顔面はトカゲの様になり、槍みたいな吻が。
鎧みたいに、服の上から纏われた。
辰善は、その姿に心当たりがある。
ついさっき見たニュースに出てきたトカゲ人間。
それが今、辰善の目の前に立ち塞がっていた。
「おカタい事言うなよ。夜はこれからだ、ぜ!!」
ヤクルスは辰善の首を掴み、駆け抜ける。
瞬間、風を感じる。
物凄いスピードに捕まったと理解したのは、住宅街の壁に激突してからだった。
「かッ………!?」
壁から伝わる衝撃が背中に奔る。
首を掴まれて息が詰まりそうになる。
成る程。
このヤクルスとか言う変態、恐ろしく脚が速い。
だからさっき背後に回る事が出来たし、目にも止まらぬ速さで捕まえる事が出来たのだろう。
辰善はこの不可解な現実を、自分でもビックリする程冷静に判断する事が出来た。
其処まで冷静に判断出来るなら解決策を導き出したないと。
助けを求めて叫ぶ?
ダメだ。大声で叫べば首を折られる。
破れかぶれで抵抗してみる?
ダメだ。見るからに硬そうな鱗を殴れば逆にこっちの拳が折れてしまう。
「や、ヤクルスさん?何か凄いコスプレ早着替えですね。取り敢えず苦しいんで、首離してくれると嬉しいんですが………。」
結果、話し合いで和解を試みる。
瞬間、辰善のすぐ隣の壁が粉砕される。
ヤクルスがもう片方の腕を壁に打ちつけたのだ。
「いいねぇええええ。
唆る唆る。唆られるよぉおおおおお。
とても良いよ。何故なのかなあ。
君はただの人間なのに。
素晴らしい竜脈を出しているねぇええええええええええええええええええええ。
“例のブツ”を間違いなく持ってるよねぇええええええええええええええええええええ!!!?」
嬉しくない壁ドンをしてきたヤクルスは焦点の合わない眼で辰善を見てくる。
しかも竜脈とか意味不明なワードを出して来やがった。
映画や漫画で見たヤ●中よりもヤバい雰囲気を醸し出す。
初めて遭遇した、話の通用しない相手。
脳裏に浮かぶのはジェットヤンキーのニュースと子供が見たというドラゴンの目撃情報。
そして。帰ってきた時にテレビに映っていた、トカゲ人間の再現スケッチの全体図。
フィクションやファンタジーみたいなニュースが現実だったと身を持って思い知り。
辰善は今、そんな化け物みたいな相手に首を掴まれている。
死ぬ。
そう思うと、冷や汗が湧き出る。
さっきみたいな冷静な思考が出来なくなっていく。
異形へと変貌したヤクルス。
人知を超えたスピード。
壁をあっさりと砕く怪力。
余りにも現実離れした出来事のせいで。
情けない事に辰善は現実を受け入れる事が出来ず。
自分自身の生命の危機すら、今まで実感出来ていなかったのだ。
(嫌だ。まだ死ねない。死にたくない。
だって、夢をまだ叶えていない。
俺の夢も。潮の夢も。
潮が。夢を応援してくれたってのに。
父さんと母さんが、夢を応援してくれたのに。)
心の中では動揺が洪水の様に押し寄せている反面、言葉が出る事はなく酸素を求める鯉の様に口をパクパクと動かす事しか出来ずにいた。
「さて、そろそろ我慢が出来なくなってきたよ。」
そんな辰善の様子が余程滑稽だったのか、ヤクルスがハアハアと息を立てながら満面の笑みを浮かべる。
しかも俺に鋭い爪がついた掌を見せつける。
今しがた、コンクリートの壁を砕いた掌だ。
「嫌だ、嫌だ!!誰か!!頼む!!
助け、て………。
助けて、下さい……………………!!」
必死になって辰善は助けを求める。
辰善の絶望感すら、ヤクルスにとっては極上のスパイスでしかないらしい。
ヤクルスはニンマリと嗤いながら、爪を大きく振りかぶろうとする。
(ああ、俺。本当に死ぬんだ。
しかも、こんなヤバい化け物に殺されて。)
しめやかに自身の生命を諦めて。
恐怖が極限まで達する直前だから。
辰善は、思ってもみなかった。
現実離れした恐怖と絶望があるならば。
現実離れした救済と希望もあるのだと。
上空から、透き通る様な青が降って来る。
青は三日月型を模っていて、ヤクルスの背丈よりも大きい。
まるで、夜空から三日月が墜ちて来たかの様だ、と辰善はロマンチックな思考をする。
その時になって。2人はようやく認識した。
その青い三日月の正体は水であり。
その冷たさと鋭さを以ってして。
水は辰善を掴むヤクルスの腕を分断していた事を。
「ぎ、ギェエエエエエエエエエエエエエエッ!?
俺の、俺の腕がぁああああああああっ!!?」
ヤクルスは斬られた左腕を押さえながら、ヨロヨロと後退る。
綺麗な断面から血が派手に撒き散らされる。
辰善の頬にヤクルスの血が二、三滴飛び散る。
辰善は首からヤクルスの腕を引き剥がし、投げ捨てる。
その拍子に尻餅をついてしまった辰善は、上空を見上げる。
星空を反射させ、映すかの様に。
流れる水を奔らせる女が宙を舞っていた。
背中まで伸ばした紫がかった黒の長髪に、ワインの様に濃い紫色の左眼。
さらに
均整のとれた彫刻の様な顔に、滑らかな白い肌。
瞬きしてしまえば夜闇に溶けてしまいそうな黒いスリーピースのスーツと、青紫色のネクタイ。
まるで妖精の様に美しいヒトが、そこにはいた。
女が手を翳す。
溢れる水が、ヤクルスを包む。
「が、ああ!!ガボ、ガッボゴゴゴゴッ!!」
断末魔を上げる事も、逃げる事すら出来ないヤクルスはただただ宙に浮かぶ水球の中でもがくしか無かった。
しかし、女が水を止める事はしない。
その眼でヤクルスを見据えながら、水の制御を続ける。
女が手を振る。
それと同時に水球が消え失せ、ヤクルスが地に落ちた。
やっと解放されたヤクルスは動く事すらなかった。
時折痙攣し、息遣いと共に口から水が吐き出される事から、まだ生きている様だ。
女がヤクルスに赤紫色の手錠を掛けると、ヤクルスがみるみる内にトカゲ人間から元の姿に戻る。
そんな非現実的な光景から辰善は眼を離せずにいた。
一方で女はそんなヤクルスに眼もくれず、スマホを取り出し電話を始める。
「此方、
新儺と名乗った女が辰善を見る。
透き通る様な紫色の眼と眼が合い、心臓が跳ね上がりそうになる。
「竜脈を放つ、一般人の少年を保護しました。」
この時、辰善は想像していなかった。
今までの常識を覆してしまう世界に。
もう、踏み込んでしまっていたなんて。
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