祥吾さん、あのね。
hibana
第1話 私は誘拐された。
その夏、十六歳の私は見知らぬ男の人に誘拐された。そう言ってしまうと私の中で語弊があるのだけれど、端的に表現するにはそう言うしかない。
彼は風変わりで美しい人だった。その時の彼は白いワンピースを着ていて、眉根をきゅっと寄せながら怒っていた。別に金に困っているわけでもなく、欲求をぶつける先を探していたわけでもなく、彼に私を誘拐するべき理由というのはなかった。少なくとも私には、今でもそんな理由は見当たらない。ただ、その時の彼に時間がなかったからなのか、元々の性分だったのか、彼にはとにかく思い切りが良すぎるところがあった。
事の発端はといえば、よくわからない。私はただ、父とファミリーレストランで食事をしていただけだ。そこに唐突に金髪の綺麗な人(その時点では完璧に女性に見えた)がやってきて、こう言った。
「この子のこと、誘拐するから。身代金は2億。びた一文まけないんだからね」
最初、その声がどこから聴こえてくるかわからなかった。それくらい、彼の姿かたちと声は印象が乖離していた。彼の声は男性の中でもかなり低い方だったからだ。
そうしてなぜか彼は父に水をぶっかけて、私の腕を強引に引っ張り、しっかりお会計を済ませ、車に乗り込んだ。ちなみに車は可愛らしいブルーの軽自動車だった。
助手席に座った私は呆然として、車が動き出すのをただ見ている。彼は煙草を咥え、窓を開けていた。
「アタシの名前、
「ふ、ふみです」
「ふふみ?」
「
「可愛い名前ね」
祥吾さんはゆっくりと煙を吐き出した。
私は思わず彼のことをじろじろ見てしまう。白いワンピースの上にオーバーサイズのジャケットを羽織っており、地毛なのかウィッグなのかわからないが長い金髪だった。声さえ聴かなければ女性と信じる美しさである。その代わり、やはりというか声はかなり低い。
彼はハンドルを切りながら「あんたどっか行きたいとこある?」と尋ねてきた。私は「ひえっ」と悲鳴を上げてしまう。
「何なのよ、その反応は。別に取って食おうとなんてしてないわよ。どっか行きたいとこがあるかって訊いただけじゃないの」
「いえ……特には……」
「じゃあ、帰りたい?」
「帰らせていただけるんですか」
「あの親父のとこ、帰りたいの?」
黙りこくった私を見て、彼はちょっとため息をついた。
「あんたの親父、めっちゃキモいわよね。娘にファミレスでハンバーグ食わせるだけであんなにデカい顔できる父親いるんだって思っちゃった。あんたはあんたで父親を気持ちよくさせるために生きてんのかってぐらいへりくだってるし、あんたがハンバーグに手をつけるまでに何時間かかるのかしらって思っちゃったわよ」
「よく見てますね……」
「暇だもん」
やがて彼はウィンカーを出し、どこかの駐車場に入った。車を停め、「来な」と顎で店を示す。私はシートベルトを握りしめて震えていたが、「何やってんの。来な」と彼が助手席のドアを開けたので観念して車を降りることにした。
そこは定食屋だった。彼が手慣れた様子で注文をし、しばらくすると私の前には立派すぎるハンバーグが運ばれてきた。
「えっっ」
「食いな。そんで自分の父親がどれだけダサいかよく考えな」
「こんな……食べられません! 私、お金持ってないですし!」
「アホ?? この流れでアンタに払わせるわけないでしょ。いいから食べなさいよ。こっちは時間がないのよ」
「さっき暇って言ってたじゃん……」
あまりにも見つめられるので、仕方なくハンバーグを口に運ぶ。「あつっ、あっつ」と言いながら何とか咀嚼し、私の脳内には衝撃が走った。
「こ、これがハンバーグ……?」
迸る肉汁。何というか、噛んでいるうちに口内がもっさりしないというか、爽やかに喉を通っていく。信じられない思いで二口めを頬張る。
飲み物。ハンバーグというより、飲み物である。
パッと顔を上げて、祥吾さんのことを見た。祥吾さんは満足そうににんまり笑って、「なんだ。いい顔するじゃない」と言った。
デザートにアイスクリームまで食べさせてくれた。シャーベットをちまちま食べている祥吾さんに、「あなたはよかったの……? ハンバーグ、食べなくて」と尋ねてみる。祥吾さんは「まあ。アタシは食事制限されてるから」と何でもなさそうに答えた。確かに細身で美しいモデル体型だ。色々努力してるんだなぁ、なんて考えていた。
「死ぬのよね、アタシ」
「……はぁ」
「余命三ヶ月で三ヶ月過ぎたとこだから、もうすぐ死ぬんだわね」
「そうなんですか……」
本気か冗談か測りかねる。アイスクリームを食べ終えた私に、祥吾さんはシャーベットの皿を差し出して「あげる」と言ってきた。
「あんた、アタシと海に行かない?」
彼は、提案というよりは決定事項としてそう言った。
@@@@@
どうして海に行きたいんですか、と私は尋ねてみる。車に戻り、シートベルトをしながらだ。彼はまた煙草を咥えて、「昔観た映画で、言ってたの」と言った。
「天国ではみんな海の話をするんだって。子どもの頃に観たもんだから、もううろ覚えだけどね」
「へえ……」
「ということで、海行きたくない?」
「私は別に……まだ天国に行く予定ないし」
「アタシと一緒に、海行きたくない?」
「行きたいかも」
反射的にそう答えていた。餌付けされたと思われて構わないが、すでに私はこの祥吾という人のことが妙に好きになっていた。
「どうして私のこと誘拐したの?」
「別に誰でもよかったわよ。アタシだって誘拐なんかしたくなかったけど、ちょうどよく誘える知り合いもいなかったしね」
一人で死ぬのは寂しかった。それだけ。
そう、祥吾さんは言う。
「……友達いないんだ? 私もいない。一緒だね」
「は? 友達なら大勢いるわ。こういう時に呼べるような友達がいないだけで」
「おなじことじゃないの?」
「随分と生意気な小娘を攫ってしまったようね」
アンタにはわからないだろうけど、と祥吾さんはハンドルを僅かに動かしながら目を細める。「仲が良ければなんだって言えるわけじゃないのよ」と言った。私にはそもそも仲がいいと言える人がいなかったので、よくわからなかった。
「で、アタシたちはこれから一緒に二泊することになるわけだけど」
「確定?」
「確定」
「確定ならしょうがないね」
「あんた結構面白いから、今まで友達出来なかったのって父親のせいなんじゃない?」
私の交友関係の問題を父のせいだと言われてもピンと来なかったので、代わりに「どこに泊まるの? これから決めるの?」と尋ねてみる。祥吾さんは肩をすくめて「この季節に予約なしで泊まれるようなホテルなんてないわよ」と嘆いた。
「もう予約してるに決まってるでしょ。安心しなさい。そらもう素敵なホテルだから」
「……何人で予約してるの?」
「二人よ、二人」
「予知能力の人?」
「んーん。絶対に誰か連れて行くってことは決めてたから二人で取っただけ。最後の最後まで誰も見つからなくたって、一人分余計に払うぐらいなら痛くも痒くもないしね」
「お金持ちだね」
「計画性ってやつよ。下手にお金残して死んだら悔しいじゃない?」
祥吾さんは黙って煙草をふかす。流れるような彼の目が、左後方を確認した。車はゆっくりと曲がる。
「祥吾さん、逮捕されちゃうよ。誘拐で。もう通報されてるかも」
「あんたの父親がまともならそうでしょうね」
「わ、私、お父さんのこと説得してみる」
「父親の機嫌取ってからじゃないとハンバーグも食べられない子が何言ってんの? 別に構わないわよ、どちらにしてもベッドの上で死ぬんだから。いい? アタシがやりたくてやったの。少なくとも、今の時点であんたを連れ出してきたこと、後悔してないわよ。あんたのこと気に入りつつあるわ。途中で服屋に行くわよ、最高に可愛い服と水着買ったげる」
恥ずかしいやら申し訳ないやらで、私はうつむく。ついでに持っていた小さい鞄から携帯電話を取り出した。祥吾さんは「えっ! 子供用携帯!?」と目を見張る。
「あんた、いくつだっけ?」
「十六歳。でもお父さんが、卒業するまではこれで十分だって。……引いてる?」
「引いてないわよ。一周回って個性的ね」
「引いてるじゃん……」
パカっと携帯を開いて、私は思わず小さな悲鳴を漏らす。
「やばい……78回も着信入ってる……」
「アタシが教師殴って逃げたときだってそんなに着信来なかったわよ。あんたすごいわね」
「他人事みたいに言う」
「正直他人事だとは思ってる」
「とにかく大丈夫だってメールしておこう……」
「フリック入力おっそ……。悲しくなるぐらい遅いわ」
数分かけて私は『さっきはごめんなさい。友達が悪ふざけをしただけです。二日ほど遊びに行ってきます。本当にごめんなさい』というメールを送信した。「そんなもん電源落としなさいよ」と祥吾さんが言うので、そっと電源ボタンを長押しする。
「さーて、楽しくなってきたわね」
「そうかな?」
「こういうのよ、こういうの!」
「今のどこら辺に手ごたえを感じたんだろう、この人」
車はいつの間にか高速に乗っていた。祥吾さんがアクセルを踏み込み、窓を全開にする。「最高になってきた。やっぱアンタのこと拾ってよかったわ」と彼は笑った。
@@@@@
諸々買い物をして、ホテルに着くころにはすっかり日が沈んでいた。海の見える部屋で、祥吾さんは到着するなりベッドに飛び込んで「寝る」と言い出した。私は困惑して、「ご飯食べないの?」と尋ねてしまう。
ちょっと顔をしかめながら私を見た祥吾さんが、五千円札を差し出して「あんたはなんか食べてきなさい。下の階にレストランが三つぐらいあるはずよ」と言った。
「あ、ちゃんとカードキー持っていきなさいよ。それ持ってないと二度と入れなくなるから。失くすんじゃないわよ」
「祥吾さん……」
「そんな捨てられた子犬みたいな顔されたって、アタシは今日はもう無理よ。一人で行ってきなさい」
渋々、私は一人で降りて行って食事をした。
あまりにも美味しいビーフシチューを食べたので感動して泣くところだった。というかちょっと泣いた。
部屋に戻ると、祥吾さんは私が部屋を出たときと全く同じ姿勢で寝ていた。枕を抱いたうつぶせ寝である。苦しくないのかな、と覗き込んだが長い金髪でよく見えなかった。ため息をつき、私はシャワーを浴びることにする。
しっかりドライヤーで髪を乾かしてから、私はそうっと祥吾さんの隣に腰かける。ダブルのベッドが一つあるだけなのだから、隣に寝るしかなかった。
ちょっと緊張しながら横になる。よく見ず知らずの人間とダブルベッドの部屋に泊まる気になるなぁ、と感心した。
私にもそれほど抵抗感がないのは、彼の格好のせいだろうか。そういえば私はここまで、彼に攻撃されるというような危機感をまったく抱かなかったことに気付いた。不思議だ。私は父はもちろん、他の男性に対しても、恐らく人類全般に対して常にびくびくしていた。こんなにちゃんと会話ができたのなんて、いつぶりだろうか。
ふと一息つくと、今さらになって『私は何をしているんだろう』という気持ちになった。大変なことをしている気がした。間違ったことをしている気がした。これからどうしよう、と考える。父は私のことを殴るだろうか。彼のことを殴るだろうか。
『最高になってきた。やっぱアンタのこと拾ってよかったわ』
祥吾さん、それ本当?
そう、問い詰めたくなった。だけどそうしなかったのは、彼がたぶん嘘をつかない人だということを何となくわかっていたからだ。
浮かんだり沈んだり、はち切れそうなほどドキドキしている。祥吾さんの寝息が聞こえた。私はなかなか寝付けなかった。
@@@@@
深夜三時ごろに、音がして目を覚ました。
うとうとしながらも私は体を起こして目を擦る。しばらく、自分がどこにいるかわからなくて辺りを見渡した。だんだんと頭がはっきりしてきて、自分の置かれている状況を思い出す。夢の続きを見ているようだ。隣に祥吾さんはいなかった。
トイレに行っておこうと思い、ベッドから立ち上がる。
洗面所の電気がついていた。その左右にトイレとシャワールームがあるが、私は入るのをためらった。どうやら祥吾さんが中にいるようだ。少しドアが開いていたため、私は寝ぼけ頭で隙間から覗いてしまった。
あの金髪はウィッグだったらしく、その時の彼はほとんど坊主頭だった。人が何か吐く時の、生々しい音がする。彼は手の甲で口元を拭い、ふらつきながら服を脱ぎ始める。私は慌てて顔を引っ込め、そのまま歩みを止めずにベッドまで戻った。しばらくしてシャワーの音が聴こえてくる。
一瞬だけ見えた彼の身体は思ったより痩せていて、それでも彼は美しかった。金色の髪がなくても、吐いたあとの苦痛に満ちた表情であっても、彼は美しかった。
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