骨の屋
登美川ステファニイ
背骨を売る
煮える。ぐつぐつと。
澱んだ空気の中に臭気が溢れていく。梅雨空のざあざあという雨音と混ざり、音と臭いが私を包んでいく。
血は洗い流したはずなのに、むせかえるような臭いの中に血の臭いを感じる。臭いは蟻のように、錆びついた臭いを伴いながら私に群がる。湯気と一緒に空気に交じり、ざわざわと鼻の穴に、口や、目や、耳や、髪にも手足にも、服の隙間から下着の内側にまで、ぐつぐつ、ざわざわと音と臭いがしみ込んでいく。電気の通わぬ暗い店内で、私の嗅覚と聴覚は麻痺していく。
骨屋。
ここは骨屋だ。煮て柔らかくした背骨を売っている。味付けも何もなく、ただ煮ただけの骨。いくらか柔らかくはなっているが、人が食べるには硬すぎる骨。というよりもそもそも背骨は食べるものではない。
髄だ。ここに来る客たちは髄を食べに来る。骨ごと食らう者。骨を折って髄を啜る者。食い方はそれぞれだが、客たちは皆、髄を求めている。
私はその髄を提供するためにここで働かされている。みなしごだった私は源七に拾われ、以来五年程をここで過ごしている。来る日も来る日も骨を煮込み、注文に応じそれを提供する。店員は私だけで、骨を洗い煮て、骨を供し、食器の片づけから皿洗いまで全て一人だ。
幸いにも客はそれほど多くはない。日に十人ほどで捌ききれないほどではなかった。
壁の向こうから呼び鈴が聞こえる。さっき入ってきた客の注文が決まったようだ。私は額に浮かんだ脂臭い汗を湿った手で拭い、ほつれた髪を撫でつけて客席に向かう。
「注文は?」
私がぶっきらぼうに言うと、俯いていた客は僅かに顔を上げた。
客は帽子を目深にかぶり、サングラスをかけていた。首にはマフラーを巻いて、それで口元までを覆っている。
もう六月だ。梅雨に入り今日は雨でいくらか涼しいが、どう考えてもマフラーが必要な時期ではない。
しかしそれは珍しい事ではない。ここに来る客はみんな顔や体を隠している。必要以上の不自然な厚着やマスク、マフラーで顔を隠す。体型もぶかぶかの服やコートなどで隠れて分からない。
何故そんな恰好をしているのか。
何も考えるなと源七に言われている。ここに来る客は背骨が目当てだ。求めるものをただ提供する。それが私の仕事だ。
こいつら客たちの姿を見ようと思えば、それは可能だ。食っているときの様子を盗み見ればいい。その時はマスクやマフラーを外すから、本当の顔が見える。
しかし……そんなものに興味はなかった。ここに来る客はどう考えてもまともではない。知りたくもないし、関わりたくもない。
「この匂い……女……?」
客がテーブルの上に手をついて身を乗り出すように顔を近づける。私は思わず一歩下がるが、これも珍しい事ではない。客たちは大抵目が悪く、匂いで色々なものを判断しているらしい。
私にまとわりつく骨の臭いに、客の体臭が混ざる。腐ったような酸っぱい臭い。骨の臭いで鼻が馬鹿になっているはずなのに、それでもここまで臭うという事は、きっとよほどの悪臭なのだろう。吐き気がする。
「……なんだ。ブスか……」
客は私の顔の傷に気付いて、興味を失ったように体を椅子に戻す。これもいつもの反応だった。
「……注文は?」
さっさと食って出ていけ。そういう気持ちでもう一度聞く。
「三つ……いや、四つだ」
痰が絡みついたような湿った声で客が言う。まるで、長すぎる舌を口の中で持て余してでもいるかのように。
それを聞いて、私は踵を返し厨房に戻る。
呼吸をする。骨の臭いがする。私はここにいる。臭いと音の中で、私はずっと骨を煮続けている。
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