神様の思し召し

月波結

第1話 偶然の一致

 仕事帰りのエレベーター。腰が痛い。

 外は漆黒の闇に包まれ、寒々しい常夜灯が道を照らす。

 マンションに帰れば、暖房であたためられた部屋と温かい風呂、それから家族が僕を待っているはず。

 日常的な動作で誤りもなくその白い箱に乗り込もうとして、知らない女の子が脇からやって来る。

 順番的には僕の方が先。

 でも相手は若い女性で、小さく頭を下げて感じが良かった。まだ学生なのかもしれない。

 気分良く、エレベーターの順番を譲る。

 右手を出して「どうぞ」と声に出さず、ジェスチャーで伝える。


 と――。


「うっ!」という詰まったような声が数回、真っ赤で濃厚な液体が、エレベーターの壁を汚す。

 呆然とする。

 動けない。なにが起きているのかわからない。

 口からは「あ······」という声しか漏れなかった。


 すると突然、エレベーターの中から目出し帽を被った黒ずくめの男が僕に体当たりをして飛び出してきた。

 僕は思いっきり転倒して、頭を酷く打った。

 手で触ると赤いものがべったりついた。

 それでもなにかしなければという一心で、ポケットにあったスマホから、緊急通報する。

 番号は110。


 薄れゆく意識の中で警察官の声が聞こえる······。

 遠くから聞こえるその声に、なんとか返事をする。

 エレベーターから、怪しい男······若い女性が刺され······頭を打って······。


 気が付くとそこは病院のベッドで、隣で僕の家族と彼女が泣いていた。

「大丈夫、もう大丈夫だから」

 誰かがそう繰り返す。母が手を握りしめてる。

 ああ、僕は死ななかった。

 しかしあの順番を代わってあげた女性は亡くなった。

 もし僕が先に乗っていたら――。

『不幸中の幸い』と言ってもいいんだろうか?


 ◆


 思ったより怪我は重くなく、その日、僕と彼女は久しぶりに街に出ることにした。

 なにもかも懐かしく思える。

 雑踏も、クラクションも、埃っぽい舗道も。

 彼女が僕に話しかける。

「あの時は本当にダメだと思って、すごく泣いたんだからね」

「······心配してくれてありがとう」

 なんだか照れくさかった。

 そして彼女を両親に紹介しておいて良かったと思った。そのお陰であの時、病室に彼女が来てくれたんだから。


 嫌な記憶は消してしまおう。

 亡くなった彼女を本当に気の毒に思うし、ご遺族にも悲しい出来事だったと思う。

 ほんの偶然で、自分が助かったことを後悔するのはやめよう。

 こうやって、隣で僕の命を大切に思ってくれる女性ひとがいるんだから。


 ――その時、一台の車がすごいスピードで僕たちが渡る交差点に走ってくるのが見えた。

 車は運転手の意思に反するかのごとく、すごい勢いでこっちに吸い込まれるように突っ込んでくる。

 迷う暇はなかった。

 僕は彼女の体を力一杯突き飛ばし、自分も同じ方向に飛び込んで地面に伏せた。

 すると。


 轟音を立てて走ってきた車は、横断歩道を信号を無視して横切り、ガードレールに斜めに弧を描くように突っ込み、大破した。

 運転していたのは中年男性。助手席に若い女。

 誰かが救急車と警察を呼ぶ。

 横を見ると彼女は地面に打ったところをさすりながら、体を持ち上げたところだった。


 彼女は惨状を目にして唖然としていた。

「あ······」と言った彼女の体は異常に震え出し、僕は彼女が嫌なものを見ないで済むようにその体を抱きしめた。

 彼女は横断歩道の上で、大声を上げて泣いた。

 僕の聞いたことのない声で。

「大丈夫、大丈夫だよ。助かったんだ」

 そう言った僕の額から、あの日見たような赤いドロッとしたものが流れていた。

 それは今にも目に入りそうだった。


 車の運転手と同乗の女性は即死だった。

 ブレーキが故障したらしい。

 運転手は芸能人だった。

 ふたりは愛人関係にあったことが報道で大きく取り上げられ、しばらくの間、その噂が止むことはなかった。

 遺された元女優の妻は泣いていた。


 ◆◆


 二度も人の死の現場に居合わせると、それが偶然が重なったものだとしてもなんだか恐ろしくなってくる。

 彼女は僕に「しばらく会いたくない」と言った。

 事故の記憶が鮮明すぎて、僕の顔を見ると嫌でも思い出してしまうと、そう言った。

 横転した車。

 窓からはみ出た脱力した人間の体。

 そういった記憶が僕を悩ませた。

 職場は僕に幾ばくかの休日を与えた。


 ◆◆


 その日は同窓会で、高校時代の友人たちと久しぶりに会うことになった。

 本当に久しぶりに、地方に行った親友が来ることを知り、気持ちを切り替えて行ってみようかと思う。

 相手も僕が来ると知ると喜び、SNSでやり取りをするようになった。久々に楽しい気持ちになる。

「生きていて良かった」という実感を、しっかり感じた。

 僕は、生きていてよかったんだ······。


 同窓会はとても盛り上がった。

 元担任教師も特別ゲストとして現れ、その場にいた一人ずつが近況を語る。

 思わぬ出世をして、本社勤務になったヤツ。すごいところに就職して皆をあっと驚かせたのに、二人の男の子の母親になって専業主婦を選んだ女の子。念願の医師になり、離島勤務で来られなかったヤツ。

 人生、いろんなことがあるんだとほろ酔い気分で耳を傾ける。

 自分の番になり、今は介護福祉士として働いていると語ると、皆が僕をねぎらってくれる。社会に必要な仕事だと、褒めてくれた。

 昔の友達もいいもんだなぁと思う。


 そこでまだ地元に住むKが、妙な話を始める。

 最近、全然関係の無い二つの事故があったけど、その場に居合わせたのが両方ともお前なんじゃないか、と。

「え、なんで?」

 あの日に僕があの場所にいた記録は晒されていないはずだ。


 僕の心臓は早鐘を打つ。

 別に悪いことをしたわけじゃない。

 エレベーターでの殺人は、実は彼女のストーカーによる犯行だったことが判明し、犯人は無事に捕まった。

 芸能人の不倫については語ることもない。

 僕がやったわけじゃないんだ······。

 それはたまたま偶然で、意図的なものもなければ、僕からの干渉もない。

 なぜかそれを口に出せない。


「おい、血なまぐさい話はやめて、楽しく飲もうぜ」

 今度こっちに帰ってくるのはいつになるかわからないしさ、と親友が僕の肩を叩いた。

 少し、気の毒そうな顔をしていた。

 この話を既に知っていたのかもしれない。


 ほろ酔いの路地は同じように酔った人たちがうろつき、さながらゾンビの集団のようだ。大きな笑い声を上げて陽気に歩いている。

 石畳のような細い道は入ってくる車もなく、誰も彼もが上機嫌で楽しげに見えた。

 僕もグループから少し離れたところで親友と話し込み、彼が実は婚約したという話を聞いた。

 僕は手放しで彼の幸運を喜んだ。まるで自分のことのように――。


 最初に聞こえたのは若い女性の声。糸を引くように細く甲高い声が聞こえた。

 なにかが起こっている、という空気が場を緊張させる。

 誰かが「逃げろ!」と叫び、ほかの誰かが「包丁だ!」と叫んだ。

 すぐそばでドサッという音がして振り返ると、スーツ姿のサラリーマンが膝から崩れ落ちた。包丁をかざした男が刃をギラつかせてすぐそこにいる。

 もうダメだ、と僕は持っていたカバンで自分を守るようにして目を伏せた。ああ、これでとうとう自分も死ぬんだ。

 やっぱりなにかの前触れだったんだ――。


「······逃げろ」

 その声は足元から聞こえる。咄嗟にしゃがみ込む。腹部から血を流した男は、逃げろと繰り返す。

 通り魔は四人目の被害者を狙って、向こう側に走っていく。

 親友の、まだ鮮やかな血だらけの、分厚い手のひらを握る。

「どうして、どうして僕なんか······」

「わからないよ。勝手に体が動いたんだ。だからお前は生きろ。俺は······」

「おい! 目を開けてくれ! おい!」


 遠く、救急車のサイレンが聞こえる。

 何度目だ、この音を身近で聞くのは。

 何度目だ。

 しかも今回は――。

 僕を庇った親友は助からなかった。

 失血死だった。

 亡くなったのは三人。

 悲鳴を上げた女性、倒れる音を聞いた男性、それから。

 凄惨な通り魔事件は、しばらくの間、ニュースを賑わせた。


 ◆◆◆


 いよいよ3つの事件から「自分は関係ない」と目を瞑り続けるわけにはいかなくなった。

 知らない人の、連続死。

 それは嫌な記憶として残ったけれど、それ以上ではなかった。

 でも今回は違う。


 親友の葬儀に参加すると、細く青ざめた黒髪の美しい女性が声をかけてきた。

「あなたですね、彼が守ろうとしたものは。どうか、彼の分までしっかり生きてください」

 僕の手を握りしめて、彼女はその細い体から出るとは思えない強い声でそう言った。


「はい」

 そう答えた僕の心は既に虚ろで、悪い夢の中、泥沼の中を重い足を引きずって歩いている気分だった。

 ――僕の近くにいる人が死ぬ?

 それはあまりに突飛な考えのように思えた。

 しかし、一度そう考えるとその考えが自分を支配して満たしていく。

 どうしてこんなことに?


 もし、と後ろから声がかかる。

 しわがれた声に誰かと思うと、さっき読経していた彼の菩提寺の住職だった。

「悩み事がおありか?」

 すぐには答えられない。額に脂汗がにじむ。

 住職は剃った頭に似合わない強く太い眉毛と、カッと開いた双眸で僕を見た。


「そういう風に見えますか?」

「親しき者の死は若い者には重かろう。しかしあなたには他の悩みがあるように見える。話くらいは聞けると思うが、無理にとは言わない。あなたの心のままにされるがよかろう」

 言うか、言わないか。

 偶然だと笑い飛ばされるかもしれない。

 それより、偶然だと笑い飛ばされたいのかもしれない。

 僧侶の眼力に怯む。


「実は――」

 僕は話す方を選んだ。

 少しでも楽になりたかった。

 誰かの死の上に、自分の生命があるような、そんな人生は嫌だった。


「成程。ふむ、確かに偶然と言うには続けざまではありますな。しかしひとつ言えることがあるとすれば、あなたは今、生きている。これこそが本質と捉えることもできる。

 嫌なことばかりだと思うだろうけど、あなたは常に生き残り続ける。これは仏があなたにもたらした祝福であり、或いは業と呼ばれるものかもしれない。

 故人のためにも心根を強く持ち、生きていってはどうかな?」


 情けないことに涙が止まらない。

 生き続けること、確かにそれは辛いことの連続でもある。

 老人介護をしていると「長生きは辛い」と漏らす人もいる。それでもみんな生き続けている。

 自分の人生をまっとうするために。


 ◆◆◆


 職場復帰を果たし、心機一転、今までのことから得た教訓を活かして日々を噛みしめて生きようと決意する。

 歳を重ねた利用者さんたちに尊敬を感じるようになった。

 生きるということはそれだけでも大変で、生き続けるのは当たり前のことじゃないんだ。

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