欠片で十分

「やあ、今日もよろしく」

 老人は年に数回、決まった月にやってきて予約の料理を注文する。

「いつもごひいきにありがとうございます。少々お待ちくださいませ」

 お得意様の到着で、身が引き締まるウエイターたちは緊張した面持ちで個室へと通す。

「今日はちゃんと味わえればいいんだけどね」

 老人は苦い笑顔を浮かべながら、並べられる料理に箸を伸ばし始める。

「あの人、お得意様? あまり見たことないけど」

「ああ。戦争経験者らしくて、教育機関の集会とかで当時の話をするために、ここで食事をしてから講義に行くんだとさ」

「なるほどな、より記憶を研ぎ澄ますわけだ」

 しかし、老人は涙を流しつつも半分近く食べることなく食事を終えた。

「……すまない。やはりダメだったよ」

 そのまま会計を済ませ、しかし老人は満足そうな顔で店を後にした。

「いいんですかね? ちゃんと思い出したいから食べに来たんじゃあ……」

「何言ってるんだ。思い出したくないことまで思い出す必要はないんだよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る