第7話 ブレイク
午前中に外回りをして、午後は自社に戻って事務作業に専念する。
新規案件の契約書の最終チェック中に間違いを見つけて、西下さんに声を掛ける。
西下さんにしては珍しいミスだった。
「すみません、すぐに確認して直しますね」
「持って行くの明日の午後なので、急がなくても大丈夫ですよ」
気のせいかもしれないけれど、今日の西下さんは少し疲れているように見えた。誰かと夜を過ごして、なら気にすることでもないのだろうけれど、この前一緒に飲んだ時は恋人はいないと聞いている。
ブレイクしに行きませんか、とわたしは西下さんを最上階のレストルームに誘う。
「こんな場所があるんですね」
「そっか、ここプロパーじゃないと入り方知らないから、来たことなかったんですね」
このレストルームは入居しているテナントだけにしか公開されていない場所なので、まだうちの会社に来て日が浅い西下さんは知らなくても不思議はなかった。
「はい。景色いいですね。海まで見渡せるなんてすごい」
幾つかビルはあっても空を完全に埋め尽くすほどではない。遠くの方にある濃い青はそこが海であることを示している。
コーヒーをそれぞれ自動販売機で買って、向かい合うテーブルに座りながら、あれはどのビルだと当て合いをする。
「こういうの贅沢ですね。サボりですけど」
「たまにはいいんじゃないですか」
「そうですね」
西下さんの瞳は景色を見ていても、どこか更に遠くに向かっているように見える。
「西下さんがちょっとお疲れみたいだったので」
「プライベートを仕事に影響させるなんて駄目ですね」
「まあそれは正論ですけど、そこまで頑張りすぎなくていいんじゃないでしょうか。わたしなんか真依に振られた時は全く使いものにならなくて、湯本さんに激怒されましたから」
西下さんが少しだけ笑ってくれて、笑える状態であることに安心する。
「この前、バーで私に声を掛けてきた女性は、別れた恋人なんです」
「そうかなって思っていました」
「須加さんと別れて家に帰った後に、突然私の部屋にやってきて、私が別の女性といるのを見ていられなかったって言われたんです」
「西下さんはあの人のことを今はどう思っているんですか?」
「それがわからなくて」
別れて、心が残っていなければそんなことに迷いはしないだろう。
別れてからビアンバーに行けなくなっていたことも含めて、西下さんもまだあの人のことを想い続けている気がした。
「差し支えなければでいいので、別れた理由って何だったんですか?」
「私の転職です」
「それまで同じ職場だったりしたんですか?」
それを否定するように西下さんは首を振る。
「私が初めに就職した会社は小さな会社で、事務として採用されました。1年、2年と経つ内に、もう先が見えちゃったんですよね。このままここにいれば給料が上がることもなくて、自分としても成長がないまま年を重ねるだろうって気づいちゃったんです。
それでいいのかと迷っている時に、別れた恋人、聡子さんって言うんですけど、聡子さんが課長に昇任して、一緒に住もうって言われました。
でも、一流企業の課長の聡子さんと対等でいられる気がしなくて、転職をしたいから待って欲しいって言ったんです。それで喧嘩になって別れました」
西下さんは自分に厳しいから、一緒に住もうという言葉をそのまま受け入れられなかった気がした。
「自分を成長させる場所を求めての転職はそんなに悪いことじゃない気がしますけど、反対されたということですか?」
「私が派遣という選択をしたからです。成長したいなら、ちゃんと会社に就職するべきだって」
「間違ってはいないのかもしれませんけど、そうしなかった理由が西下さんにはあるんですよね?」
「会社の言うなりじゃなくて、自分の物差しが欲しかったんです。少し色んな会社を見て、冷静な判断ができるようになりたかったんです」
「それを理解して貰えなかったから、別れたですか?」
息を吐きながら西下さんは頷く。
やっぱり西下さんは心を残したまま別れているのだ。だから迷っている。
「縒りを戻そうって言われたんですか?」
「はい。でも、結局同じになるようにしか思えなくて……」
「前の恋を引きずってるわたしが言えることじゃないですけど、西下さんはまだ聡子さんのことを好きなままなんじゃないですか? 縒りを戻すにしても戻さないにしても、ちゃんと話し合って心の整理をした方がいいんじゃないでしょうか?
でないと聡子さんを忘れられないまま、いつまでも西下さんは動けなさそうなので」
「そうですね」
「悩みや愚痴ぐらいは聞くので、いつでも言ってください」
「……有り難うございます。須加さんとつき合ったら幸せになりそうですね」
「失敗しかしてないですよ? わたし」
西下さんが笑顔を見せてくれたことに安堵して、仕事に戻りましょうかと声を掛けた。
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