第四章 ワニと女神と絶対領域
第32話 撃癒師と夢の来訪者
年若い夫をその腕に抱いて、新妻は寝顔を見下ろしながら、考えていた。
彼の能力は偉大だ。
他の誰も成しえないような素晴らしい行いをした。
だが、十四歳という幼さに見合わないその能力と手に入れた地位のせいで、彼は余計に自分を誇れないでいる。
内気な夫は、出会ってからこっち、ずっとその成果を自信にできないまま、胃に合わない食事をした時のように、消化不良を起こしているように見えた。
もちろん、周囲の人々も、妻であるサティナもカールの功績を知り、褒め称えている。
良き理解者になろうとしている。
彼が自分で作った心の壁の内側から足を踏み出せるのは、仕事と割り切った時だけだ。
普段の彼と、義務感を以って任務を遂行する時の彼。
利害に関係なく、弱者の為に拳を振るい、権力者とも対等に渡り合う彼。
どれもが本当のカールで、どれもが彼の真実。
怯えてなかなか出てこようとしない内気な内面は、それでも妻にだけは必死にその存在をアピールするから、サティナは嫌でも夫のことを知っていく。
深く知り、素敵な内面をもっと他者にも見せたいと思う。
彼は。本当の彼は、誰からも愛されるべき、そんな素晴らしい性格の持ち主だからだ。
サティナはここ二日間、ずっとカールを見てきた中で、そう思っていた。
「この二日間、お疲れ様です、カール」
私の我が儘を聞いてくれてありがとう。
寝室に二つあるベッドの片方で、魔法により寝入っているローゼをちらりと振り返る。
彼はまだ正式な妻でもない自分が発した、アルダセン男爵家の未来に関わる提案を、一言の文句もなく受け入れてくれた。
ローゼを助ける手段として、それが有効だったというのもあるだろう。
しかし、侯爵は語っていた。
もう彼女は奴隷だと。それと身分は変わらないと。
決定は覆り、ローゼはカールの二番目の妻となって、貴族の地位を手に入れるだろう。
もしかしたら、一番目になるかもしれないが、それは分からない。
ともかく、疑いの眼差しすら向けず、提言を聞いてくれたことに、サティナは感動を覚えた。
彼の自分に対するゆるぎない愛情を感じたからだ。
全幅の信頼を寄せて彼は肯定し、いまローゼと三人で寝室にいる。
その現実はサティナの心に、愛というものを再び、蘇らせていた。
出会った翌日に、サティナは彼の家族となった。
若い頃から三度の結婚をし、すべての夫を失ってきたサティナにとって、四度目の結婚は嫌だったし、二度と愛する男性を失うのも怖かった。
だからこそ、恋人も再婚相手も探さずに、義母と共にあの貧乏な家で生涯を過ごすのだと勝手に思っていた。
しかし、いまはどうだろう。
無条件に愛されるという喜びを彼女は知ってしまった。
幼さが、純粋な感情を増している可能性もあった。
もしかしたら、ローゼにその愛情は移り、自分はまた立場だけは妻で、愛情のない日々を迎えるかもしれない。
その不安もまた心にないといえば嘘になる。
「それでも私はあなたに愛されていたい」
背伸びをしようとしてベッドに入った時に腕枕をした彼は、いつの間にか自分の腕の中に抱かれて眠る形になっている。
その光景に微笑みながら、健やかな寝息を立てているカールの後頭部に、サティナはそっとキスをした。
連日の嫌な夢に、カールは目を覚ました。
覚醒し、それすらも夢のうちだと知って、あからさまに嫌な顔をする。
まず、そこは昼間だった。
ついでに、見覚えのない光景だ。
天空は真っ黒で、空には青と銀と緑の惑星が並んでいる。
大地は大量の返り血を浴びたように、真っ赤に染まっていた。
浅黒いそれからは、かすかに鉄の錆びた匂いがする。
そして自分はこれまで装ったことのない衣装を着て、そこにいた。
足元には黒光りする革靴。月のあかりを吸い込むほどに、真っ黒に磨き上げられている。
履き心地の良いスラックスはシルクで編まれているのだろう、独特の艶やかさと肌触りを伝えてきた。
綿檻のドレスシャツ、上にはスラックスと同じ黒のモーニングジャケット。
ここまで紳士の装いを揃えられたら、自分がどういう状況なのか、想像がつく。
「……ドラエナさん。困りますよ!」
自分がここに呼び寄せたはずの相手に苦情を申し立てる。
それはあっけなく受託された。
「いやいやこんなに早くバレてしまうとは」
カールの天地が逆転する。
方向感覚が狂いそうになるのをどうにか我慢すると、今度は、どこかよくわからない白くもやもやとした空間に放り出された。
今度、身に付けているのは寝た時に着た夜着だった。
モーニングよりもこちらの方が、まだいい。
そう思いながら、カールは顔をしかめる。
今度はどこだ? 雲の中? それともどこか湿地帯の上空だろうか?
その割には、湿気を帯びた空気を感じない。
湿り気すらも肌に寄ってこない。
夢の中だからだ……。
感覚をいいようにされて、カールは不機嫌だった。
カールをもてなしているつもりの彼は、上からゆっくりと降りてくる。
空中を歩く二本足のワニ。おまけにモーニングスーツ姿、タイ付き。
どこからどう見ても、宮廷の夜会で出くわしそうな出で立ちだった。
そのスーツの中身がワニでなければ、の話だが。
「赤い月の女神様の元に戻られたのではなかったのですか?」
訝しむようにカールは眉根を寄せる。
今度はどんなトラブルを持ち込むつもりだ、このワニは……。
「いやいや誤解しないでいただきたい。あの時は本当に助かりました。謝辞を述べるだけでたいしたお礼もできなかった。改めてあなたに感謝を述べたいと思うのです」
「僕にとってあなたがどんな状況にいてどう困っていたのかは全く関係ないんですよ。なるべくなら静かに僕は暮らしたい」
妻たちと共に。
ふとそんな言葉が脳裏をよぎる。すると、サティナの願いとはいえ、ローゼを家族に迎えた自分の浅はかさを思い知る。
もうすこし賢く立ち回っていたら――妻にあんな提案をさせることはなかった。
悔やむことしきり。
だが今はドラエナの前だ。悩むのは後にしようと、横に置いておく。
ワニは何もほしくない、と伝えたことに戸惑っているようだった。
「……私は悪魔や魔族でも、ヘイステス・アリゲーターの精霊でもありませんよ?」
「あなたがどこの誰かなんて僕には関係ないんですよ。魔石に封じられていたのを解放してくれたから、何かお礼を、なんて言われても。あのドラゴンといい、ヘイステス・アリゲーターの襲撃といい、不気味な侯爵たちといい……二日前から僕には災難続きだ」
「奥様と出会えたことについては災難だとおっしゃられないのですね」
「彼女は……僕には過ぎた人だから。本当ならもっといい相手を選んであげたいと思うよ。こんな僕じゃ、彼女に見合ってない」
「それならばあなた様は、まだ若い。これからもっと逞しく成長しておくさまを喜ばして差し上げてはいかがですか」
それができるようなら苦労してない。
仕事と私生活では雲泥の差だ。
弱気な自分に嫌気がさしてどうしようもない。
そしてそれを止めることができない自分にも――。
「忠告どうも。ありがたく受け入れておきます! それで用件は?」
自分の心の内を悟られまいとしてカールの口調が硬くなる。
ワニはそんな彼の心を知ってか知らずか、また去って行ったあのときのように、いわくありげな笑みを浮かべた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます