第26話 撃癒師と女神の使者

 そんな世迷言、誰が信じる?

 浴槽に短い両腕をかけ、仰向けなり、尾をだらんと出してまどろむワニ。


 多分、水温はそれなりに高いはず。

 よく茹でワニにならないな。


 カールは驚くと共に呆れを通り越して、気疲れすら覚えてしまう。

 こんなトラブルの元、引き受けるのではなかったと心で叫んだ。


「ううん。ここは魔力が安定してないから、サティナは外でいてくれるかな? できれば、その廊下でケリーとかと合流した方がいい」

「ケリーさんたちとですか」


 昨日からのやり取りで、ケリーがカールも認める凄腕の魔法使いだということは、サティナも知るところだ。

 それほどに危険性のあるトラブルが待ち受けているなら、確かに自分は足手まといになるかもしれない。


 だけど、夫の態度からはそんなに危険があるような雰囲気は感じられないでいた。

 妻はうん? と眉根を寄せる。


「本当に危険なのですか」

「いやー……。そう言う意味じゃなくて、摩訶不思議というか。常識をかけ離れているというか」

「珍妙な物言いをしますね。見た方が早いんじゃ……」


 そう言うと、サティナはさっさと扉を引いてしまった。

 取っ手を回し、勢いよくドアを解放する。


 それは止める間もないほどの早業で、カールは「あっ」と言葉を賭けるのがやっとだった。

 腰の矢筒から引き抜いた弓の鋭い先を、浴槽の中に居るはずの標的にめがけて固定する。


 浴室に備え付けられている鉱石ランプが照らし出す光景を目の当たりにして、サティナは思わず弓を取り落としそうになった。


「ワニ……ワニがお風呂に、ねえ、カール?」

「いや、だから言っただろ。外にいた方が良いって」

「でもだって、ワニがお湯に浸かっているとか、動いた!」


 今度は弓矢を床に取り落とし、サティナはこちらに向けて顔を向けたワニから逃げるようにして、カールの背に逃げ込んだ。


 背丈が低い夫の頭越しに、ワニはじろじろとそのヌメヌメとした瞳を上下させると、静かに口を開く。


 その仕草はまるで人間かそれ相当に知性のある存在のようなものだった。


「……無礼ですな。断りもなく浴室に立ち入るとは。入浴中ですぞ」


 低く、それでいて軽やかな、ワニが発するとは思えない声だった。年のいった品性の良い老人が、無知な若者にかけてやるような、そんな発言。

 こういった奇天烈な出来事にはある程度の適性が育まれているはずのカールからしても、それは非現実的な光景だった。


 シュールすぎる……いや、違う。なんだこいつ。


「ここは僕たちが泊っている船室で、そこは僕たちが使っている浴室ですが?」


 少年は頑張って相手の粗相を咎めるように言った。

 ワニはおや? という顔をする。


 そこにはまるで悪びれた素振りは見えない。

 ただあったから利用していた。そんな感じにも見えた。


「目覚めたら用意されていたので使っていたのですが。そうでしたか」

「目覚め……!?」


 カールの目は、浴室の隅に移動しておいた二つの革袋に釘付けになる。

 その片方は、中身が失われたようにしぼんでいた。


 間違いない、あの魔石に囚われていたワニだ、とカールとサティナは確信する。

 二人して顔を頷き合うと、同時に叫んだ。


「出て行ってください!」


 浴槽から出てきたワニは、でかかった。

 軽くカールの二倍ほどの身長がある。

 天井が高く設計されている貴族室でなければ、そのまま頭が天井に着いたことだろう。


 それでも窮屈そうに身体を揺らすと、ワニは短い脚と長い尾で器用にバランスを立ちながら、こちらに向かい背をちゃんと伸ばして、挨拶をした。


「これは失礼。名乗りが遅れました、自分はドラエナ、と申すものです」

「ヘイステス・アリゲーターが……名前を?」


 サティナが困惑気味にそう言った。

 ドラエナと名乗った彼は、どうやったのか短いはずの両腕をそれまでよりも数段、長く伸ばしてから指先を立てて左右に振る。


「あのような後発種と同じされては敵いませんな。美しい銀髪の御令嬢」

「令嬢だなんて」


 とワニの。ドラエナの歯に着せぬ物言いに、サティナは困ったように俯いてしまう。

 ちょっと、誰の妻なの! とカールが後ろに立つ彼女を睨んだ時、室内に緑色の閃光が走った。


「――なっ!」


 瞬き一つの時間よりも短い間に終わったそれは、あっという間にワニの外観を変えていた。

 あろうことか、全長ニメートル以上あるだろうワニは、その上半身を仕立ての良いモーニングで覆っていたのだ。


 ジャケットの寸法はぴったりで、彼の浅黒い肌に良く似合っていて、生地の良さが光の反射具合から分かる。

 ドラエナがどちらに向いても、皺ひとつ寄らない見事な仕立てだった。


 まるで王族が着るような上等な仕立服を着ている。

 一瞬、このドラエナというワニが、どこかの魔族の王族か身分の高い存在ではないのか。


 高名な魔族ではないのか、と本気で疑ったほどだった。


「……とても素晴らしいお召し物だけど」

「何か」

「誰かの上に立つというよりは誰かお迎えのために用意された衣装のように見えるんですけど」


 サティナの何気ない一言が緊張感を緩めた。

 ワニが面白そうに吠える。

 いや、吠えたように見える、笑い声をあげたのだった。


「それはまさしく正しい推測と言っていいかもしれませんな。私の本職はまさしくそれでして」

「あの、いやそういうことじゃなくてですね。ここから出て頂きたい」

「それはもちろんすぐに出て行きます。ちょっとしたお礼を述べたくてね」

「お礼?」


 そこに何やら尋常でないものを感じて、カールは背後のサティナを庇うように身構える。

 しかし、ワニはそれすらも勘違いですよ、と一笑に伏した。


「とわる用事が出来まして下界に降りたはいいものの。色々と仕組まれましてね。この有様ですよ――あのヘイステス・アリゲーターの魔石に閉じ込められた時はもうどうしようかと困った次第でして」

「……下界? どういう意味?」


 この一言だけでは敵か味方かもわからない。

 カールは視線を険しくする。


「赤い月に職場がありまして。そこから下界で言うところの女神様の下知で降りて来たのですが。信用していただけない?」

「魔物の体内に封印されていながらいきなりそんなこと言われても」

「然り。それはさもありなん。当然の疑問ですな。そして何が正しく何が間違っているかを議論する時間はあまりないらしい」

「は?」


 途端、廊下側から部屋の扉が激しくノックされた。

 あの貴族たちだろう。


「ここだ! 今度はこの部屋から怪しげな光がしたかと思うと、いきなり消えたぞ」「あの水もここに吸い込まれた気がするな……」

「おい、出てこい!」


 などと無遠慮にドアが叩かれる。

 この状況どう説明したら受け入れてもらえるものかと、カールとサティナはあわあわと顔を振った。

 それに向かいドラエナは「ご心配なく」と冷静に一言述べると、片手を振った。


「私が作り出してしまった幻想の水が色々とご迷惑をかけたようだ。ついでにこれがないと、後々言い訳の立たない状況になるようですな」


 彼がそう言い、出てきたのは、魔石に封印されていた頃の彼の姿、そのままだった。

 いや、ケリーが河の中から回収してきた時の、魔石の姿がそこにあったというべきか。


 事情の把握があまりにも良すぎるワニの手際の良さだ。

 これから起こることが全て手に取るように分かっている。

 そんな行動だった。


「あなた達には感謝を。赤い月の女神リシェスの加護があるでしょう。女神にもこの事を伝えておきます。では」


 と、ワニはまた丁寧に一礼する。

 すると、先程と同じく、緑の閃光が辺りを照らし出した。

 光が消え失せたあとには、やはりというか。


 サティナの背丈ほどもあるあのヘイステス・アリゲーターの魔石と、その中に封印されているヘイステス・アリゲーターの幼生が、静かに浴槽に浸っていた。


「……何だったんでしょう」

「わからないよ。あまりにも唐突すぎて理解が追いつかない」


 それよりも外が騒ぎをどうにかしなくては。

 何度も何度も激しく叩かれて部屋の扉が壊れそうだった。


 自分が開けますね、とサティナが先に立つ。

 その手にはついさっき、取り落としたはずの弓矢が握られていた。


 扉を開けた人々は、サティナが事あらば暴力も辞さないと威嚇行動に移ったと勘違いしたのだろう。

 それを見て、一斉に手を挙げていた。



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