第22話 不機嫌なサティナ

「いたから――だから、何? 僕は彼らを治癒したんだよ。その恩も忘れて侮辱しかしない貴族を、どこの誰が同類と認めると思う?」

「……もう、やめて。お願いだから。もう十分です、カール」


 彼が自分のために怒ってくれたのだと、サティナには十分すぎるほどに分かっていた。

 もうこれ以上、危険な橋を歌って欲しくない。


「君はそれでいいの」

「あなたから褒めてもらえただけで満足です。もう、こんなことはやめて欲しい」


 震える声で彼女は懇願した。

 せっかく始めることができた新しい関係をここで終わらせることなんて望んでいない。


 貴族たちが口にする侮辱の言葉、その一つ一つに屈辱感を覚える。

 けれども自分が我慢すればそれですべて済む。彼の優しさに甘えて彼を窮地に立たせたなら、それは妻として失格ではないか。


 はやる気持ちを抑えてほしい。

 どんなに怒りを覚えたとしても己の身を滅ぼすようなことをして欲しくなかった。

 たとえ自分のために怒ってくれたとしても。


「きみがそう言うなら、それでいい」


 二人の側で事の成り行きを黙って見守るしかなかったボーイに、カールは案内を促した。

 さっさと貴族達に背を向け、まるで何事もなかったかのように、サティナの手を取り、歩き出した。


 片方の腕を腰に当てて、それに気づいたサティナは片腕を彼に託した。

 身長差のあるカップルの堂々とした歩みと態度に、レストランの片隅から拍手が起こった。


 てっきりイライザが調子に乗ってやっているのかと見てみたら、そこには見知らぬ男性が座っている。

 カールが指摘した執事や侍女を侍らせ、同席する夫人の衣装は礼式に則ったもので、彼もまた仕立ていいスーツに身を包んだ、初老の男性。


 ブラウンの髪を丁寧に撫でつけた大柄な彼は、自らを捨て妻の名誉を守ろうとした少年に対して、惜しみない賛辞を送っていた。

 その男性に始まった拍手はやがて店内の多くの人々を巻き込んで、大きな渦へと変わっていく。


 それはほんの一分にも満たない時間だった。

 カールとサティナにとっては、永遠に近い緊張と幸福の時間だった。


 拍手が鳴り止み、最初に依頼した席に着く。

 渡されたメニューから、王都に住んでいた時、上司である伯爵に連れられて何度か訪れた王室御用達の店で食べたメニューを思い出し、似た内容を注文する。

 カールは男爵と名乗ったこともあって、その爵位に恥じないよう振る舞いを正した。


「あちらの方は?」


 食前酒としてグラスと共にワインを運んできたボーイに、質問する。

 彼はそっと後ろに目をやり、「ダレネ侯爵様です」と静かに告げた。


 ……! 侯爵。とんでもない失態を犯したかもしれない。

 この船にそんな上位貴族が乗るはずがないのに。


「どうしてまた」

「先日の嵐で乗船されていた船が損傷したとかで、ええ」

「はあ……ありがとう」


 やってしまった。

 さっきまで蒼白だった妻の代わりに今度は夫が真っ蒼になっている。

 これは面白いものを見た、とボーイは思いながらその場を去っていく。


「どうしたんですか」

「……なんでもない。後から話すよ。その、さっきはごめん。どうしても黙っていられなくて」


 サティナの目は涙を含んでいた。

 自分の怒りを抑えきれず、爆発させたことをカールは恥じる。


 その怒りは彼女のために?

 いやそうじゃない。ただ自分が義憤に駆られただけ。


 周りのことを考えればもう少し冷静に対処する余地はあったはず。

 幼い自分を、律することが必要だった。


「驚きました。とても驚きました。あんな怒り方をするなんて思わなかった」

「……ごめん」

「でも、いいです。私のために怒ってくれたから」


 それが嬉しい、と妻は言う。

 彼女が喜んでくれるなら……。


 次はもっと賢く怒ることにしよう。

 他人に対して怒りの振りまき方を学ぶ必要があった。


 武術とかなら、一撃で済むのに。

 人間関係は何て面倒くさいんだろう。


「君がそう言ってくれるなら、まあ。でも、次はやらない」

「ええ、そうですね。心が冷える思いはもうたくさんです」


 機嫌がよくなったように見えて、意外と彼女の怒りの炎は消えていないのかもしれない。

 それは、後ろの方から感じる視線の主にも――あの貴族たちだろう。


 馬鹿にされてそうそう簡単に相手を許せるはずがない。

 もしかしたら今夜あたり、もう一度、何か揉めるかもしれないな。

 カールはワインを飲んで機嫌よく微笑むサティナに、同じように微笑み返した。


「今度やったら私は怒りますからね」

「……はい」


 やっぱり彼女の機嫌はそうそう簡単に治りそうにないか。

 心の中で大きなため息を吐いた時、ちょうど入口に向かって座っていたサティナがあっ、と口を開いた。


 つられて後ろを振り返ると、あの貴族たちが数人の水夫によって連れ出されている。

 その隣には例の侯爵が立っていて、何が起こったのかよくわからない二人に向かい、悠然として片手を挙げていた。


 最初の一品目を運んできたボーイが、そっとカールに耳打ちする。


「侯爵様より、気にせず食べてくれ、と御伝言です」

「え、あ……えええ……」


 驚きを隠せない二人に向かい、白髪の紳士はまた手を挙げると、若い夫人を連れて悠々とその場を立ち去る。


「とんでもないことになりました」

「いや本当に。どうしよう」

「後からお礼を」

「王都に着くまでは……何もしない方がいいかもしれない」

「カールがそうお考えなら、お任せいたします」


 今日は驚きの連続ばかりだ。

 メインの肉料理を終え、デザートを口に運ぶ。

 子牛の肉はこの時期には脂を程よくつけていて、意外と口中にこってりとした脂っこさが残った。


 柑橘類を使ったシャーベット状のアイスは、口直しには十分なものだった。

 すっきりとした甘さが、鼻梁をすっと通って鼻先から抜けていく。

 食事中もどこか不機嫌だったサティナも、落ち着いたレストランの雰囲気の中でいつしか気分を和らげてくれた。


「食事は気に入ってもらえた?」

「雰囲気がとても良かったです。あなたのあれはちょっと頂けないけれど。でも、良かった」


 部屋に戻った後、サティナはそう言って誉めてくれた。

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