第15話 撃癒師と真夜中の太陽

「ケリー! 頑張って! 負けたらなく泣くんだから!」


 自分が仇を売ってやると言わないところが、イライザの魔獣に対する恐れの大きさを表していた。

 手を繋いでいるサティナは毅然としてそこにいるものの、今にもカールを抱きかかえて逃げ出しそうだ。


 水夫たちは結界を構成している杖を離して船を捨てたそうに見えた。

 恐怖に抗いながら、職務に忠実な彼らは素晴らしい人材だ。

 ここで命を散らすようなことにしたくない。

 ケリーの両肩には、彼らの希望がのしかかっていた。


「はいはい、分かりましたから。宮廷魔導師様、お願いいたします」

「じゃあ――」


 そんな心にかかる重圧を微塵にも感じさせず、ケリーは幼い雇い主を一度抱きしめると、カールの方にイライザを押しやった。

 最初に指定された空間に向かい、カールは複数の紋様を空間に描き出す。


 光は弧を描き、数羽の輝く鳥に変化して、ケリーの周囲を頭上から足元を舞った。

 船を包むような虹色の被膜に似た泡のようなものに包まれたケリーは、神に祝福された黒狼の戦士のようにも見えた。


 パンっとカールが両手を一叩きすると、ケリーの姿は彼女が望んだ空間へと転送される。

 その両手には全身を包む虹色の輝きを打ち消すほどの、昏い黒曜石が放つような黒光りする何かが出現していた。


「何でしょう、あれは」


 錆色の光に変化してしまい、その全容が眩しくてうかがい知ることが及ばない。

 眩しさに目を細めながらサティナが質問する。


「槍だわ!」


 ケリーの勇ましさを目の当たりにして、嬉しそうにイライザが叫んだ。

 彼女はぬめぬめとした肌に阻まれて、なかなかその穂先が魔獣に届かずに苦労している。

 そこくらいまでは、カールも魔力を目に寄せることでどうにか見ることができた。


「槍?」

「そう! あそこに刺さってるような棒の先が、剣みたいになってる!」


 なるほど、それは確かに槍だ。

 人間の目で補足不可能なものも、視えてしまうらしい。

 こんなにも幼いのに。

 黒狼に秘められた可能性は素晴らしいものがあるな、とカールは思った。


「視えるのですか。凄いですね」

「そうでも!」


 イライザは安直だ。褒めらてエッヘンと胸を張っている。

 彼女はいまケリーはどうやっている、こうやっていると簡単な解説を加えて喋った。


「あの槍はケリーの得意技なの! 黒狼は身の中に闇の精霊を宿しているのよ! だから、あんなに黒い光を吸い込むような槍を作り出せるの!」


 その戦闘力や破壊力について説明して欲しい。

 会話の間にも、ケリーの努力は続いている。

 精霊を宿すからといって、その能力を解放できる時間は個人差があるものの、最大限に発揮すれば十分保てればいいほうだろう。


 先程の会話からも、彼女がそれを行っているのは間違いない。

 ドラゴンと対峙した時にカールが力を使い果たして倒れたように、ケリーもそうなる可能性がある。


 そうなっても、ケリーの場合はまだ恵まれていると思った。自分のときは、サティナがいてくれたからたまたま、助かっただけで。

 後ろで誰かが控えているというのは、持ち得る力を出し切るにしても安心感があるのだろう。

 彼女が発する闇の精霊を使うと、音と光も吸収されてその力に変換されるもののようだった。


 見えない、伝わらない戦いのその奥を、あらゆるものを構成する魔素の動きを読み解くことで、カールは把握しようとした。

 槍の穂先は変わらず届かない。空に浮かんで移動できるのは闇の精霊を解放したことによる副作用のような物だろう。

 ケリーは負けた場合など心配していないかのように、自身の持ち得る力を放出しようとしていた。


「あっ!」


 それを視えているイライザが驚きの声を上げる。

 少し遅れて、カールも把握した。

 槍の穂先が変化していく。ケリーの頭部ほどの楕円形のふくらみがそこには生まれ、切り離されて、また生まれる。


 繰り返す度に、ケリーの方ほどの位置に、黒い炎の塊がいくつも浮上して並んでいく。

 それは神話に読んだ黒い太陽を従え、月を飲み干したとされる黒狼の神を思わせる畏怖を与えるもので――しかし、サティナには視えていない。

 他に甲板にいる水夫たちにも同様だろう。


「凄い、凄いわ! ケリーのあれは初めて見るの! まるで真夜中の太陽みたい……」


 と、イライザが感嘆のため息を漏らした。

 この場で彼女の活躍を正しく見届けることができるのは、僕とイライザだけなんだ。

 そう思ったら正しく評価されないことの虚しさを心に覚えた。


 ケリーの片手が高く上がる。

 黒炎の塊は十数個を越え、その手元に吸い込まれていく。

 やがて大きな真昼の太陽を裏返したような、日蝕で月に姿を蝕ばまれた太陽のように、暗黒の銀色の光輪に覆われて完成する。


 忌々しい羽虫を払うように両手でケリーをおいかけていた魔獣ヘイステス・アリゲーターが、ぱっとその顎を開いたのは、それが魔獣に向かってケリーの手から離れたのと前後してだった。

 瞬間、一度だけ制止してから猛烈な勢いでヘイステス・アリゲーターが、川面に墜落し、それを追いかけて真夜中の太陽が後を追う。


 ケリーのしている戦闘は見えないし、聞こえなかったが、攻撃対象が離れてしまえば話は別だ。

 灼熱の黒炎が水面を通過する。

 水を焼き立ち上る水蒸気を大魚が小魚の群れを呑み込むようにして、その炎の中に取り込んでしまう。

 重さから解放された船はスポンと大きく宙に浮いた。


 その反動で簡単にた人々はあっけなく放り出されてしまう。

 川の中に落ちてしまうのかと身構える者もいた。

 だが彼らは船体を覆う虹色の皮膜によって保護された。

 触れると同時に、甲板の元いた位置へと引き戻され、放り出された幾人かは安堵の声を上げた。


「……凄い!」


 黒狼の少女は、仲間の働きから目を離すまいと、甲板の縁から身を乗り出してつぶさに観察する。

 落ちないようにと、サティナがその背中を抑えていなければならなかった。


「落とさないように気を付けてあげて」

「はい、イライザさん、危ないです。もっと落ち着いて!」

「だってケリーがカッコいいの! 凄いの!」


 外から攻撃できないものは中から出ることができない。

 それをあっさりとあちら側に転送したカールの魔法をさることながら、真夜中の太陽を魔獣にぶつけたケリーの強さもそれに劣ることはない。


 大量の流れる水は黒い炎を消し去ろうとして強烈な力をぶつけていたし、黒い炎もまた押し寄せる凄まじい勢いの水を溶かす勢いで燃え盛っていた。


 目的に向かい放たれたそれは、水など気にせずただひすらに魔獣を追撃する。

 補足し確実にその体内へと食い込んで、肉を焼き、骨を溶かして、その存在すらも塵へ帰そうとする。

 壮絶な断末魔。


 耳を塞いでも鼓膜の奥を犯すようなその叫び声は魂をも震わせる。

 真っ青な空の果てに吸い込まれて行く前に、聞いた存在の寿命すらも奪っていきそうな悪意の塊は、やがてゆっくりとどこかに消えていった。


「勝った! ねえ、見て! ケリーが勝ったのよ! あんな大きい魔獣にたった一人で立ち向かってそれを倒したの! ねえ見たでしょ!」

「え? いや、なんというか……」


 イライザは自分のことのようにはしゃぎながら、ケリーの働きを喜んでいた。大げさすぎる賛辞は、心の底からイライザがケリーの尊敬ことをしているから出たに違いなかった。

 その賛辞に同意しろと当たり前のように告げられて、近くにいた水夫は困った顔をする。


「何! あの活躍を見てなかったって言うの?」

「見ていなかったと言うか、黒いものに包まれて何も見えなかったよ……」


 水夫は申し訳なさそうに告げた。

 無理もない。あれは見えるものにしか見えないものだ。

 神話や伝説にはその働きぶりが刻まれているのに今の世に至るまで、黒狼族が歴史にその名を刻んだことはほとんどない。


 戦争や働きぶりに対して栄光を勝ち取ったとする報告も、近世では耳にしたことがない。

 つまり彼らの活躍はそこにあるものの見えなかったから伝えられなかった。


「イライザ。ケリーはすごかったよ。僕には見えていた」

「本当? 私に気を使わなくてもいいのに」


 何人かの水夫に確認してもその返事は変わらず、黒狼の少女はがっくりと肩を落とし、目に涙を溜めていた。

 カールがそう言うと嘘を言わなくてもいい、と拒絶される。


「黒い太陽のようなものが魔獣を追いかけて川の中に消えていった。これでも嘘を言ってるかい?」

「……あなた、凄い人なのね」


 感心するようにそう言われる。


「私とそう変わらない年齢に見えるのに」


 余計な一言もついてきた。


「旦那様はもう十四歳ですよ」


 自慢の夫を褒めながら貶されたと感じたのか、サティナが諌めるように言う。

 イライザは悪びれることなく言った。


「私よりも年下じゃないの……」




 甲板でそんな会話をカールたちがしている中、ケリーは放った黒炎の後始末に追われていた。

 この技は威力が強すぎて、狙った相手以外にも甚大な被害をもたらすことが多い。

 火を点けたら、必ず消火させないと、火事は燃え広がってしまう。


 自分の起こしたそれがもう河のどこにもないことを確認するまでに、しばし、時間を費やした。

 河の中に潜り込み、魔獣の遺骸に燃えカスが残っていないかを確認して回る。


 闇の精霊を解放し、まとっている間、肉体が濡れることも息が切れることもない。

 水中の景色も、地上のそれと変わらずに見えた。

 太陽が注ぐことのない最深部まで、ケリーは確認に向かう。


 おおよそ知覚できる範囲で黒炎が残っていないことを確認し終えたのは、船がはるか先に向かった後だった。

 そろそろ浮上し、彼に船上へと転送して貰わなければならない。


 魔力も底を尽き始めている。

 戻ろう、と決めた時、ケリーは見つけてしまった。


 あの魔獣の心臓に当たる魔石。ケリーと同じくらいの大きさのある巨大なそれの中には、驚きのものが秘められていた。

 

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