第6話

病室のテレビにはワイドショーのコメンテーターとして高村が映っていた。ベッドで寝る父親の浩平も浩太や聡子と一緒にテレビを見ていて、時折笑い声は出すが、表情筋がなくなってしまったのかというほどに笑顔は見せない。浩平は長い息を吸ってしまうとすぐに息を引き取ってしまいそうに見えるような表情だった。


テレビが消え、浩太が「あ、消えた」と声を出した。浩平は瞼を閉じた。聡子が「カードが切れたんじゃない? 新しいの買ってくるわ」と言って病室を出ていった。


浩太はスマホでSNSを見ていると、前田の「コンビ解散しました」という報告が流れてきた。浩太は今日の日付に丸がついたカレンダーを見つめた。カレンダーの横にある窓からは駐車場と、その奥にはコンビニが見える。


浩平が目を開けて浩太のほうを向き、「重たい荷物を持たせてしまって申し訳ない」と言った。浩太は「ん? タオルと下着でしょ? ぜんぜん重くないよ」と返した。駐車場のまわりにはポプラの木が植えられており、枝葉には所々綿毛のようにフワフワした雪が積もっている。解けた雪はもう目には見えないが、確実にそこにあったはずであろう跡を枝葉に残った雪の形が示している。葉っぱは葉柄が長く、小さな風でも葉っぱは揺れて音を鳴らしている。


「まだ雪残ってるね」


「ああ。もうそろそろ解けきるだろ」


「白と緑と、茶色のコントラストがちょうど良くきれいだよね」


浩平は枕から頭を離し、首を伸ばして窓の外を見た。


「解けてても解けてなくても、雪が降ってなくても、いつだってきれいだよ。いつだって」


「そうかなあ。まあ、それもそうだね」


浩平は窓から目を離し、枕に頭をつけ「浩太」と呼んだ。


「何?」


「親孝行もいいけど自分の人生を生きろよ」


「どうしたんだよ。急に」


「俺はもう元気を出す気力はないから。遺言だよ」


浩太は「気が早いなあ。別に元気なんか出さなくていいよ。充分だよ、多分」と言うとテレビに目を向けた。真っ黒になったテレビに映る父親の寝姿を瞼に映した。


「ちょっと迷っちゃったわ。もう歳ね」


 聡子が走って病室に戻ってきた。


「まさか酔ってる?」


「さすがに酒飲んで病院には来ないわよ。一応金曜日しか飲まないことにしてるんだから」


「ようやく酒の量を減らす気になったんだ」


聡子は「あんたが思ってるよりお酒飲んでないからね。ねえ、お父さん」と浩平に水を向けた。浩平は口角を上げ「そうか? ハハハ。お母さん、嘘は良くないよ」と言った。


「嘘じゃないったら。でも、お父さんも若いときはけっこう飲んだでしょ」


浩太は「そうなの? ぜんぜん知らない」と不思議がった。


「お前と初めて会ったときに飲み過ぎてただけだろ。そのとき以外はあまり飲んでないよ」


「そうだったかしら」


「ていうかお酒の場で出会ったの?」


「共通の知り合いがいて、紹介されたのよ。なんていうの、いわゆる合コンみたいな」


「そうだったのかよ」


聡子は眉をしかめながら「でも今の何? マッチングアプリなんかに比べたら純な出会いよ」と低い声で言った。浩太は明るい声で「同じようなもんだよ」と言った。


「そうかしら」


浩平はいつの間にかまた目を閉じて、「グググ、グググ」と音を立てていた。


「あら、寝ちゃったかしら」


「母さんが変な話するから」


「ハハハ。関係ないわよ」


浩太と聡子は浩平の寝顔を見つめ、目に焼きつけていた。


「今日はお父さん元気だったわね。あんたがいるからよ」


「あれ、いつもはもっと元気なかったの?」


「そうよ。だんだん表情がなくなっていて。なんでかはよくわからないけど、教え子がお見舞いに来てくれても顔も名前も覚えてなかったりするの」


「それはもともとじゃなくて?」


「先生なんだから教え子の顔と名前くらい覚えてるでしょ」


「そういうもんかな。めちゃくちゃいっぱいいるから覚えてらんないでしょ」


「そうかしら。薬の副作用なのか、幻覚で黒い人影が見えることもあったり、幻聴とかも時々聞こえてるみたいだし」


「全然そんな風には感じなかったけど」


「幻影も幻聴もいつもではないみたいだから。どんな感じかは本人しかわからないだろうけど。なんか、今日のお父さんは昨日のお父さんとは違う人なのかもしれないって思うことがあるのよ」


「昨日のお父さんを知らないからなあ」


「まあ、お父さんはお父さんなんだけどね」


浩平のイビキは収まったが、目は閉じたまま呼吸を繰り返している。


「そっか。大丈夫かなあ。母さんは大丈夫なの? 働きながら病院通いで大変じゃない?」


「大丈夫よ。それに寝不足は子育てのときに慣れてるから。あんた夜泣き酷かったのよ」


浩太は「ハハハ。それはそれは。すみませんでした」と聡子に頭を下げた。


「お父さんもそんなに何かして欲しいとかも言わないからそんなに大変じゃないし。来るたびにちょっとずつ変わってくのが少し悲しいけど、ちょっと楽しくもある」


「あれ、ハハハ。母さん靴下左右違わない?」


「あら、そうかしら」


聡子の靴下は左足が青色で右足が黒色だった。聡子は「もうボケてるわ」と呟いた。


   ◇


長い髪のままだが茶髪になった太郎は丸いテーブルの前の丸い椅子に座っている。浩太が後ろから近づいてくる。太郎のスマホ画面が浩太に見える。太郎はコンビニの炭酸ジュースやお酒を振っては売り場に戻すことを何本も繰り返している人の動画を見ていて、その動画にバッドマークをつけていた。


「すみません。ちょっと遅れました」


「おお。全然全然。僕もさっき来たばかりなので。あ、先にコーヒー頼んじゃったんですけど、何か頼みます?」


浩太は「そうですねえ。どうしようかなあ」と呟くと周りを見渡し、遠くにいる店員と目が合った瞬間に手を上げた。店員が浩太のもとに近寄ってくると、メニュー表を指さしながら緑茶を頼んだ。


「浩太さん。今日はすみません呼んじゃって」


「いえいえ、僕のほうこそ、すみません」


「あの、一応体調不良っていうのは聞いてるので、全然いつ戻ってきてもいいとは部長も言ってるので」


「はい、申し訳ないです。太郎さんにも迷惑かけてしまって」


「全然大丈夫です。ただ、なんというか。うちも大きな会社じゃないから、方向性というか。働き続けるのかどうかっていうのは示していただけるとありがたいっていう話になってるみたいで。別に僕に言う必要はないんですけど、部長がすごく心配されてたので」


浩太は頭を下げながら「そうですよね、それは本当に申し訳ないです」と言った。太郎も軽く頭を下げながら「いえいえ、全然謝る必要はないんですけど」と言った。


「いろいろ、いろいろあって。なんというか説明は難しいんですけど。辞めたほうがいいのかなって思ってます。やっぱり、自分に合った働き方をもうちょっと模索したくて」


「うーん、そうですか。残念ですけど」


浩太は「別に不満があったとかではないので、そこは安心してほしいんですけど」と言って視線を落とした。太郎は再び軽く頭を下げながら「こちらこそ、すみません。自分から誘っておいて、お力になれなくて」と言った。浩太は太郎の力強い目から少し目線を外し、「短い間だったけど、お世話になりました。いい経験になりました」と言い、再び頭を下げた。店員が再び近づいてきて、緑茶を浩太の前に置いた。


「実は僕もやめちゃったことがあって。ドクター取るのは諦めちゃいました」


浩太は「ああ。そうなんですか。でもチャレンジするだけでもすごいと思います」と言って、緑茶を一口飲んだ。


「ありがとうございます。ネットカフェまで壊れそうな気がしてしまったんです。ちょっと気持ちが持たなくなりそうで」


「だから茶髪にしたんですか?」


「いやいや、まあそれもありますけど。特に意味はないですよ。茶髪にしたかったからしただけです」


「茶髪似合ってますね」


「ハハハ。ありがとうございます。けっこう不評なんですけどね」


太郎は口を尖らせた。


「えー、そうですかね。僕が保証しますよ、似合ってる」


「浩太さんに言われてもなあ」


「うるさいなあ。ハハハ」


浩太は笑いながら「太郎さんって変わってますよね」と言うと、太郎は口角を上げた状態で、しかし不満そうに眉を斜めに釣りあげ、何も言わずにコーヒーを飲みほした。


店内はカップルや女子会をしているグループで賑わっていた。パスタを食べる者、パンケーキを頬張る者、コーラだけで何時間も居座る者、それぞれがそれぞれの時間を過ごしている。お互い黙々と食事をするカップルもいれば、店中に声が響き渡るような大声で井戸端会議を開いている女性たちもいる。


   ◇

前田が靴を脱いで、部屋に上がる。玄関横には空の缶ビールや二リットルのペットボトルが入った大きな袋が四つとトイレットペーパーの山が積みあがっている。


「あれ。浩太、酒飲むようになったの?」


「次の日が休みのときだけですけどね。二日酔いしちゃうので」


「酒は健康に悪いんじゃなかったの?」


「ほら、酒を飲むことでストレスがなくなれば、それはそれで健康的じゃないですか」


「お前がそんなこと言うとはな。せっかく浩太の目の前で酒飲むの我慢してたのに。ガハハ、飲みすぎるなよ。いやあ、変わったなあ、俺と浩太の関係も前とは随分変わったし」


浩太は「適当に座ってください」と言い、廊下を抜けてリビングのドアを開けた 前田はテーブル横の三つある丸椅子のうち、壁際にあるテレビに最も近い椅子に座った。


「ここって下に駐車場あったけど、浩太は車持ってるの?」


「はい。免許取ったんですよ。意外に運転の才能あったんです。そのおかげで遅刻もだいぶ減りましたし」


「なんだよ、ご立派な人になりやがって。俺なんて免許ないから訪問介護のとき、いつも先輩に運転してもらってるよ」


「ダメじゃないですか。後輩におごりまくってた前田さんの名が廃りますよ」


「先輩後輩なんて古い古い。今の時代は年齢とか歴で偉さは変わってこないんだから。それぞれの立場とか役割が違うだけ」


「良いように言いますね。免許取ればいいだけじゃないですか」


「うっせえな。何回も筆記で落ちてんだよ」


「ハハハ。それは触れちゃいけないやつでしたね」


「お前、めちゃくちゃ事故起こしそうだけど大丈夫かよ。しょっちゅう遅刻してたようなやつが車運転して大丈夫なのかよ」


「今のところは無事故ですから。実績を見てください」


浩太は製氷機の扉を開いて、食器棚から取り出したコップに氷を入れた。


「リンゴジュースでいいですよね」


「もちろんだよ」


浩太は頭の高さにある冷蔵庫の扉を開き、野菜がたくさん入った冷蔵庫の中から二リットルのリンゴジュースペットボトルを取り出す。


「あれ、もうほとんど残ってないや」


「おいおい、もうリンゴジュースの口になってたのに」


「昨日ウイスキーとリンゴジュースでビッグアップル作ったからか。知らない間にずいぶん作って飲んじゃってたんだなあ」


「お前ウイスキーまで飲むようになったのかよ。成長が早いねえ。そうだ、ネタ撮り終わったら一緒に飲もうや」


「二日酔い気味なのでちょっとだけなら」


浩太は氷の入ったコップにリンゴジュースを三センチだけ入れた。ペットボトルは空になった。前田は「何だよこれ」と言いながら、少しだけのリンゴジュースをひと飲みした。


「ガハハ。もう終わっちゃったよ」


「氷で我慢してください」


「なんだよもう」


浩太はペットボトルを流しで水洗いし、蓋はキッチンの床に置かれた大きな袋に捨て、ペットボトルは流しの中に置いた。


「浩太。そういえば、ネタはあのままでいいか?」


「はい。あれ幸助が作ったネタですよね」


「へえ、やっぱり元相方には分るんだな」


「もう頭の中には入ってるんで。いつでも大丈夫ですよ」


「よし、やろうか」


前田がテーブルに置いたスマホをタッチし、浩太と前田は白い壁の前に横並びになり、漫才を始めた。浩太と前田は笑いの返ってこない部屋の中、漫才を始めて十分後に同時に頭を下げ、同時に頭を上げた。前田がテーブルに走る。ちょうどテーブルに置かれたコップの中の氷が溶けてきていて、前田がスマホをタッチすると同時にカランと氷とガラスの当たる音がした。その氷は外にコップがあったことをそこで初めて知ったのかもしれない。


「あとは幸助がうまく編集して出してくれれば、あとはお前の父さんが何かを受け取ってくれるはず」


「そうですね」


   ◇


「ちょっと飲みすぎたかなあ」


浩太は頬を赤らめ、駅にあるトイレの中で手を洗いながら呟いた。そのトイレにはいろんな人のにおいが混ざったような、浩太の感じたことのないにおいが充満していた。浩太はそのにおいが鼻にこびりついたままトイレを出ると、電車がちょうどホームを離れていったところだった。電車に乗り合わせる人々はその時にただただ偶然同じ電車に乗っただけであり、乗客たちは仲良くする必要は全くない。ほとんどの乗客同士は言葉を互いに交わすことなく電車を降りていく。


芸人を続けるのは地獄だと前田は言っていたが、電車に乗った先も地獄だと浩太は思った。


さきほど浩太は駅前で小学校のときにいじめられていた同級生の女に久しぶりに会った。「あれ、もしかして浩太? カッコよくなったじゃん」と言われたが、無視して改札を通り、トイレに直行した。


浩太はゆっくりホーム内を歩いていると、ベンチを見つけた。木製のベンチの上には綿毛が一つ、座っていた。浩太はその綿毛の横に腰を下ろした。浩太の目は充血していたが、口角を上げたまま目線を漂わせていた。


浩太の目の前にゆらゆらと人間が揺れ現れる。裸足にスニーカーを履いていてスーツ姿で、髪は肩につかないくらいの長さ。その人の肩は笑っているのか、一定のリズムで上下に揺れている。浩太の耳をテレビの砂嵐のような雑音が徐々に支配していく。浩太の身体の中からも雑音が生まれてくる。浩太の中から湧き出ていたり、様々なところから来る雑音が、浩太の前にいる揺れる人間を取り囲んで追いつめる。その人間が息を吐いたのか、雑音が一瞬だけその人間の傍から吹き飛ばされるが、すぐに雑音は元の場所に戻っていく。霧で隠れるように雑音でその人間の姿がどんどんと見えなくなっていく。


電車が来る音と風を浩太は感じた。浩太は口角を上げたまま立ち上がると、その人間の周りの雑音は少しだけ晴れた。雑音が晴れたところから、光が浩太の目に差しこんでくる。浩太はくしゃみをするが、浩太はその光を見続けた。光の隙間からその人の口元だけ見え、浩太にはそれが笑顔だとわかった。その笑顔が何を表しているのか浩太には読み取れなかったが、その人の理想が現実と違うことはわかった。電車の開く音がする。その音は空気中を微睡んでいく。浩太は電車に乗ろうとドアまで歩いていくが、横目で電車がこれから進んでいく方向の、今はまだ電車が進んでいない線路に向かって歩いていく人の姿が見えた。その人の周りにも雑音がまとわりついていた。浩太は一直線に最短距離でその人のほうへ走っていった。浩太が六歩走ったところで電車のドアは閉まった。電車が動き始める。その人がホームから足を離して斜め上にジャンプした瞬間、浩太はその人の前に回り込んで身体を受け止めた。浩太は息を吸って、吐いた。


「本日の運転はすべて終了しました」という放送がホームに流れた。

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