第4話

 浩太は息を切らせている。額の汗を右手で拭き、事務所の一室に入っていく。浩太は幸助の姿を探すが、見当たらない。壁際に座って前方を見ると、横長の机の前のパイプ椅子に座った作家の佐藤は頭に黒のハンチングを被り、アロハシャツを着ている。ピーターパンの靴のように先がすぼんでいて尖った靴を履いている。佐藤は笑顔を崩さないが目は常に座っている。心の奥が見えづらい表情をしながら、前に出てくるコンビのネタに対してダメ出しをしていく。その佐藤の後ろに隠れるようにパイプ椅子に座った、幸助がいた。


 佐藤が「ツッコミの子、何言ってるかわかんないよ。まずは滑舌を良くしようか」と言った。前に出ているコンビのうち角刈りの男が佐藤をまっすぐ見ながら「はい」と言う。もう一方の茶髪の女はむすっとした表情で口をつぐんでいる。さらに佐藤は「ボケは面白いんだけど全体的に単調だよね。盛り上がりが、どこかに欲しいかな。張り上げるツッコミを意図的に作るとか」と言うと、角刈りの男は「はい」と言うが、女が間髪入れずに口を開き「前回はツッコミがボケに対して強すぎると言われたので、ちょっと抑えてみたんですけど」とふてくされた顔のまま歯向かった。佐藤は笑顔のまま「え? 違う違う。強弱をつけろって言ってんの。抑えて面白くなるのはもっとうまくなってから。百年早いよ」と言った。角刈りの男が「ありがとうございました」と答え、二人はお辞儀をせずに佐藤の前から去り、後ろのほうへ歩いていく。佐藤が「はい、次」と芸人の群を見渡した。横の幸助は口角を上げたままだが、口出しすることはない。


 浩太の耳からは汗が垂れ、シャツの肩口に汗が染みこんでいた。浩太は両脚の甲を片足ずつあげ、体育座りしている足をパタパタさせている。佐藤は口角を上げた状態で「おい、次って言ってるだろ。誰でもいいからさっさと来いよ」と吐き捨てた。


 前田が「はい、行きます」と腰を上げ、前に出ていく。前田の相方である古田がその後に続いていく。「はい、どうぞ」という佐藤の言葉を聞いて、前田が息を吸う。「どうもー、フォーマルラインです。よろしくお願いします」と二人は漫才を始めるが、浩太が声を出して笑うだけでそれ以外の芸人は笑わない。佐藤の顔は相変わらずニコニコしているものの、声を出して笑うことはない。前田がボケを重ねていき、古田はそれにツッコむ。笑い声があまりに少ない空気に押されて二人の声はどんどんと小さくなっていく。


 四分経っても笑い声は増えなかった。古田が「もういいよ」という消え入るようなツッコミの声と同時に左手の甲で前田の右胸を軽く叩く。古田が「ありがとうございました」と言いながら二人は同時に頭を下げた。古田はすぐに頭を上げ、前田はワンテンポ遅れて頭を上げた。


 佐藤は二人の姿を下から上に舐めまわすように見て「うーん、なんて言ったらいいのかなあ」と言うと、そこから五秒間の沈黙があった後、「面白いことをしようという気概が何も伝わってこない。厳しいんじゃないの。ボケとツッコミ逆にしたら?」と口を開いた。古田が「はい」と声を絞り出した。前田は何も言わずに下を向いている。


「漫才向いてないんじゃないの。コントやってみるとかね。俺にはちょっと今回の漫才はわかんなかったかな。ごめんね」


 古田は「すみません」と言い頭を下げた。佐藤は二人から目を離し「はい次」と言う。前田と古田は再び元いた場所に再び隣同士で座った。


 そのあとも笑いが起きることはほとんどなく、四分間の漫才が五組過ぎた。佐藤が椅子からゆっくりと腰を上げ「これで今日は全組かな。ライブに出れるのはスタンダードコメディだけだろうなあ。他のコンビは今日言われたことを意識して、直してからまた来月来てください。じゃあ解散で」と言った。


 事務所預かりになっているだけで決して事務所所属ではないこの三十組ほどのコンビの中から、ネタ見せで作家の佐藤から良い評価を貰えた組は若手発掘ライブに出ることができる。その若手発掘ライブでさらに何度かウケて結果を出していけば、晴れて事務所の所属となることができる。若手発掘ライブは事務所ライブとは比べものにならないほど規模が小さく、ただの地下ライブでお客さんよりも出演者のほうが多いこともよくある。一回戦、二回戦、三回戦、準々決勝、準決勝、決勝と続いていくような大きな賞レースで準決勝まで結果を残せば事務所のほうから所属オファーがかかることもあるが、準決勝に残れるのは数千組のうち二十組ほどしかいなく狭き門。賞レース以外で事務所所属になろうとすると、こうしてネタ見せやライブでチャンスを掴む必要がある。


 佐藤が部屋から出ると、幸助も佐藤の後ろについていった。芸人たちは口々に佐藤の悪口を言いながら各々部屋から出る。浩太は息を巻いて「また適当なこと言ってましたね。もう無視したほうがいいですよね、佐藤の野郎」と前田に話しかける。


「でも前回は俺のボケは面白いって言ってたからなあ。見る目がないわけではないんじゃねえか」


「何言ってるんですか前田さん。見損ないますよ。佐藤はくだらないですよ、なんすかあのアロハシャツ」


「というか浩太、幸助どうしたんだよ」


「え、辞めたんじゃないですかね。解散ですよ。幸助は佐藤の軍門に下ったというか」


「全然知らなかった。解散、早くねえか」


    ◇


 壁際の席に座りながら、喪服の浩太は空港の最寄り駅から実家に向かう電車を待っている。右隣には三十代くらいの女性が赤ちゃんを抱きかかえている。赤ちゃんが泣き叫び始める。女性は揺らすことで赤ちゃんをあやす。浩太は赤ちゃんの泣き声を気にせずただリュックを抱え前を見ていた。浩太の左隣に座っているスーツ姿の三十代くらいの男性が舌打ちと溜息をした。サラリーマンはシャツをインしているが背中から少しシャツが出ていてその部分だけベルトが隠れていた。浩太は舌打ちを聞いてサラリーマンのほうを見ると、サラリーマンと目が合った。サラリーマンは再び舌打ちをして「うるせえな」と呟いた。


 赤ちゃんを抱えた女性は席を離れ、ホームの奥のほうへ消えた。赤ちゃんの泣き声も次第に小さくなるが、まだ微かに聞こえる。サラリーマンは女性が消えていった方向を見つめながら「ふざけんな」と声をあげる。浩太が再び右を向くとまたもやサラリーマンと目が合った。サラリーマンは「周りの迷惑も考えない、自分の機嫌もコントロールできない。本当に子どもは自分勝手な生き物だ」と浩太のほうへ言葉を発した。浩太が何も言わずにサラリーマンのほうを向き続けていると、サラリーマンは浩太から目を離した。その瞬間、電車がホームに到着した。電車の音にかき消されて赤ちゃんの泣き声は聞こえなくなった。


 サラリーマンは浩太から目を離して席を立ち、風を受けながら電車のドアに向かった。浩太はリュックを抱えたまま腰を下ろし続けた。陽気な発車メロディが流れても浩太はその場を動かなかった。ドアが閉まり、サラリーマンの乗った電車はホームから離れていった。駅のホームには赤ちゃんの泣き声が再び聞こえだした。浩太はそれを聞いて、涙を流した。かっこよくもなく不細工でもない自分の顔の頬を撫でながら、自分は回りに笑顔が生まれない人間なのだと、浩太は思った。五分後に電車が到着し、浩太はその電車に乗った。


    ◇


 浩太は喪服のまま冷たくなったエビフライを口に運ぶ。浩太の母・聡子は「まだあと一個あるから。食べきっちゃって」と、葬儀で余った弁当を食べながら浩太に言った。浩太はエビフライを咀嚼しながら「もうお腹いっぱいだよ。頼みすぎたんじゃないの」と言った。聡子は凄い勢いで弁当を平らげていきながら、その合間に「足りないよりは余ったほうがまだいいでしょ。余ったら明日、私が食べるわよ」と言った。


 風呂上がりでパジャマ姿の父・浩平が廊下から現れた。浩平は室内物干し竿にかかっていたタオルを取り、髪を拭きながら「大往生だよ。病気で苦しんだりもあまりなかったし、俺もこんな感じで死ぬのがいいな。最期まで物忘れとかもなかったし普通に会話できてたもんな」と言った。聡子は「そうね、苦しそうな顔じゃなかったわよね」と言うと、箸を一旦置いた。聡子が「勉強も好きでよくしてたしね」と言うと、浩太が「勉強?」とかすれて高い素っ頓狂な声を上げた。


「浩太、知らないっけ。おじいちゃんずっと英語の勉強してたのよ。高卒認定試験をどうしても受けたくてね。なかなか合格しなくて、結局通信制高校で英語の単位を取って七十歳で高校卒業したのよ。そのあともよく英語の勉強してたから」


「俺はもう勉強はしたくないなあ」


「浩太はあんまり勉強好きじゃなかったものね。授業参観のとき、手を挙げたのに当てられたらわかりませんと言うだけだったでしょ」


「そんなことあったかな。覚えてないや」


 浩平は聡子のほうを見ながら手に持ったタオルを洗濯物の山に投げ、「そういえば火葬の後にボルト残ってたな。何か怪我してたっけ」と聞いた。聡子は空の弁当箱をゴミ箱に捨て、「骨折しょっちゅうしてたのよ。二回くらい手術してるわよ。そのころ、あなた野球部でいろいろ忙しかったから覚えてないんじゃない」と答えた。浩太は「ボルトって何でできてるの? ステンレスとか?」と言うと、シューマイを口に入れた。浩平が「うーん、チタンじゃねえかな、生体親和性も高いし。他の合金の可能性もないわけではないだろうけど」と答え、廊下の奥へ消えていった。浩太はシューマイを飲み込みきると「なるほど」と言った。


 聡子は再び箸を持ち、「そういえばこの間のテレビお父さんも見てたわよ。うれしそうだった」と言った。浩太が「街角インタビューでたまたま出ただけだろ。あんなんじゃテレビに出たって言わないよ。それにどうせもう芸人辞めるし」と言うと、聡子は「あら、そうなの」と再び箸を置いた。さらに「大学行ったのに養成所も行って、三年で辞めちゃうの?」と聞いた。


「しょうがないだろ。幸助が辞めるって言うんだから」「幸助くん辞めるの? あなただけでやることはできないの?」


「いろいろあんだよ。もう辞めるから」


「もうちょっとやってみたらどうよ。もう何回かテレビ出てから決めてもいいんじゃないの」


「そう簡単にテレビ出れないよ。テレビ出てる人はもうすでに売れきってる人なんだよ」


「お母さんは辞めて別にここに帰ってきてもいいと思うけど。でも、もう少しやってみてもいいんじゃない? もう一年とか。まあ、自分で決めたらいいと思うけど」


「うん」


 浩太は弁当を持って自分の部屋に行った。勉強机の上に食べかけの弁当を置き、畳の上に仰向けに寝そべり、目を瞑った。


 浩太の頭には、一昨日に客が八人の地下ライブ劇場にピンネタで立ったときの情景が浮かんでいた。パンツ一丁で歴代横綱の本名を叫び続けるネタが滑りに滑って、顔がピクリともしない八人の客の顔が忘れられない。舞台袖の芸人も笑っていなかった。ネタを披露した後、浩太は舞台から急いで袖に下がった。袖にいた後輩の高村には冷ややかな目で愛想笑いをしながら「お疲れさまです」とだけ声をかけられたが、浩太は何も言えなかった。控室までの通路でネタ合わせをしている芸人は誰も浩太に声をかけなかった。幸助に捨てられた人間だと、かわいそうな目で全員に見られているかのように浩太は感じた。控室にも戻れずトイレに立てこもったが、ほどなく浩太はエンディングの出番を待たずして劇場を後にした。


    ◇


 浩太が「朝から酒飲むなよ」と言うと、聡子は「今日くらいはいいでしょ。昨日いろんな人に気を遣って疲れたのよ。ほら、おじいちゃんもお酒が好きだったから」と言い、まだ残っている弁当を目の前に広げ、缶ビールを片手にテレビを見ていた。聡子が「お父さんが鳥越さんは元気かどうか聞いてくれって言ってたけど」と聞くと、浩太は「ああ、元気だと思うよ。結婚しないんですかって聞いたら結婚する相手がいないって嘆いてたけど」と答えた。聡子は「あら、そんなこと人に聞くもんじゃないわよ」と険しい顔で言った。浩太は「あっそう」と言って冷蔵庫に備え付けの製氷機から氷を一つ掴んだ。口に入れた瞬間、その氷を噛み砕いた。


「あれ、浩太は何時に出るの?」


「もう出るよ」


 浩太は何気なく冷蔵庫のドアを見ると、冷蔵庫のドアには半年ほど前に浩太が街角インタビューで出た番組が映っているテレビの写真と、その日の新聞のテレビ欄が貼られていた。リビングから「そう。元気でね。いつでも帰ってきていいからね」という聡子の声が聞こえると、浩太は小さな声で「はいはい」と言った。


「そういえば浩太覚えてる? 中学生のときに服を床に置いたまま放置してたのを怒ったら不機嫌になったでしょ。そのときに『俺、スマホの暗証番号ママの誕生日じゃないやつに変えるから』って言ってきたの」

 浩太は「何それ」とリビングに身体を戻した。聡子が「覚えてないんだ。それまでは暗証番号ママの誕生日だったんだって」と笑みを浮かべた。浩太は「全然覚えてないや」と冷蔵庫のほうを向きなおした。


「私ちょっと嬉しくなっちゃったの。傷つけるつもりでも人を幸せにすることもあるのね」


 浩太は冷蔵庫を離れ洗濯物の山をまたいで「何それ」と言った。聡子はオレンジ一切れを口に入れた。「母さんも洗濯前の服を床に置いてるじゃん」と浩太が言う。聡子はオレンジを咀嚼し終わると新たに弁当を開け,、「だって風呂場から洗濯機まで遠いでしょ。もう足腰がもたないのよ」と浩太の背中に言葉を放った。浩太は「母さんあんまりお酒飲みすぎないでよ」と言い、実家のドアを開けた。


    ◇


 浩太の頭には、自分がまだ子どもだった頃の父親の姿が現れていた。それは道端に捨てられている空き缶やペットボトルを公園で拾っている父親の姿だった。小学校の夏休みに浩太がラジオ体操終わりに公園で友だちと遊ぼうとしていると、父親である浩平が袋を広げてトングを片手にゴミ拾いを始めていた。浩太はなんだかバツが悪くなり、友だちを引き連れてその公園から離れた。浩太はその時の自分の気持ちが未だにわからないでいた。


 また、浩太は夏に両親と買い物に行っていたとき、暑いと言ってしまったら親に飲み物を買ってもらわれちゃうと思って気を遣って暑いと言えなかったことや、母親が父親のパンツを間違えて浩太のタンスに入れていたが気にせずにそのパンツをずっと履き続けていたときの場面も、断片的に浩太の頭の中で復元されていた。


 鳥越は「浩太くん、おはよう」と言いながら、浩太の肩を優しく叩いた。浩太は「ああ、すみません。なんだ」と素っ頓狂な声を上げた。


「いやいや、どうせ客は来ないから大丈夫よ。ハハハ、俺も寝ちゃってるときあるし。トイレ掃除だけはしておいてね」


「はい。ここ寝心地いいんですよね」


 鳥越は椅子の背もたれを叩きながら「そうなのよ。フカフカの椅子買っちゃったのがダメだったね」と言った。


 浩太と鳥越は声が店内に響かないように小声で話す。


「浩太くん幸せそうにイビキしてたよ」


「え、酒飲まないのに」


「え、酒とイビキって関係あるの?」


「あのー、あれです。酒飲んだら筋肉が緩んで喉が狭くなって、イビキしやすくなるらしいですよ」


「そうなんだ、さすが化学の先生の子どもだな」


「学部しか出てないですけどね」


「いやいや、俺なんて高卒だから」


「そういえば、鳥越さんはなんでネットカフェやるようになったんですか」


「うーん、サラリーマンになったけどすぐに辞めてグダグダしてて、それで、お金が尽きちゃってアパートを出ないといけなくなった。しょうがなくこのネットカフェにしばらく住んでたら店員さんと仲良くなってバイトさせてもらえるようになったんだよ」


「それで経営まで上りつめたんですか?」


「うん。もともとは七十歳くらいのおじいさんがやってたんだけど、どうやら一刻も早くリタイヤしたかったみたいで、譲り受けた」


「へえ。鳥越さんが何歳のときですか?」


「三十歳くらいかな。でも結局それから五年くらいはそのおじいさんに教えてもらいながらだったけどね。  おじいさんが若いときは経営めちゃくちゃ苦しかったらしいけど、俺が来る五年くらい前に大学のキャンパスが近くにできて急に潤うようになってね。そのころ、ちょうど借金が返し終わったからもう経営はいいかと思ったらしい」


「何が起こるか分からないですね。鳥越さんはサラリーマン嫌だったんですか?」


「サラリーマンが嫌っていうよりやってた仕事が合わなかった。マーケティングみたいなことやってたんだけど実質は部署内外の仲介みたいなのが多くて。楽しくなかったんだよ」


 浩太が「なるほど」と言って椅子に浅く座り直した瞬間、ポケットから電話の音が鳴った。浩太は立ちあがり、受付の奥の黒い壁ギリギリに向き合う。スマホの応答ボタンを押し、電話を耳に当てた。浩太は「すみません。お疲れさまです。はい、はい。僕も辞めようと思っていて。はい。ありがとうございました。失礼します」とスマホ口に答えた。浩太は顎をしゃくれさせながらスマホをポケットにしまい「今芸人辞めました」と鳥越に語りかけた。


「あら辞めちゃうの?」


「相方に解散するって言われちゃって。しょうがなくというか。呆気なかったですね。社員さんには引きとめられることなく、むしろあっちから辞めることを提案されちゃいました。まあ所属してたわけでもないですしね。でもちょっとショックですね。ハハハ」


 浩太は苦笑いして白いひびが所々に入った黒い天井を見つめ両手を組み「うーん、自分にしかできないことって何なんですかね」と言った。


「俺のこの小さなネットカフェの経営なんて、俺以外でも誰でもできると思ってる。でも俺がやってもいいんじゃないかとも思ってる」


 エレベーターが開いて水色のナップザックを背負った二十歳くらいの青年が降りて受付に近づいてきた。いつかのトイレで見かけた人と同じように、彼も雑音をまとっている。肩につかないくらいの長い髪をぶらさげながら力強い目をしている。


 鳥越がその青年に応対する。


 浩太はトイレ掃除へと向かった。浩太は無言でトイレ掃除をひたすらに進めた。人間の身体に必要ではないものを体外に放つ場所であるトイレを浩太はきれいにするが経年劣化は避けられない。徐々に便器の黒ずみ、壁や床の水垢はどうしても増えていく。


 浩太はトイレ掃除を終わらせてトイレを出た。受付の方まで歩いていくと、長い髪の青年が背を向けて立ちつくしていた。浩太は体をゆっくりとよじり、本棚を抱きかかえるようにして青年とその回りの雑音を避けた。なお、青年は動かないままだった。浩太は少し不気味に感じ、振り返って青年のほうを見直した。青年は唾を飛ばしながら、しかし小声で「大学が壊れる」と呟いた。浩太が「はい。えっと、何かお探しでしょうか」と尋ねると、青年は「いや、大丈夫です。逃げてきただけなので。死ぬところだった」と答えた。浩太は口ごもり、青年の長い髪を舐めるように見まわしていると、鳥越がバックヤードから出てきて「太郎。ここは大丈夫だよ」と声をかけた。青年は「はい」と言ってコクリと頷く。青年は鳥越からスマホの充電器をもらい、トイレ近くの個室に入っていった。


「お知り合いですか?」


「俺の甥の太郎だよ。平日は会社の仕事、休日は大学で社会人ドクターとして研究していて忙しくて、暗い世界に閉じこもりたくなったときたまにここに来てくれるらしい」


「そんなネットカフェの使い方あるんですね」


    ◇


 浩太はすでに電気がついている部屋に入る。前田が寝そべりながらテレビを見ている。近くに寄ると、前田はイビキを立てながら目を瞑っていた。前田のイビキは一回一回が短く、イビキをしている時間よりも息を止めている時間のほうが長い。


 浩太は前田の頭の横に置いてあったリモコンを手にしてテレビを消す。キッチンでやかんに水を入れ、火にかける。浩太は寝ている前田の頭の横に座り、ごみで膨れ上がった八つのビニール袋を見つめた。袋の中の割り箸が袋を突き刺して穴が開いていた。その小さい穴からは割りばしが飛び出ているだけで何も漏れてはいない。浩太はそのごみ袋の外側に新しい袋を被せて二重にして、袋の先を結んだ。やかんからピーっという音がして浩太はキッチンに走った。浩太が火を止めると音は鳴り止んだ。


 前田が目を擦りながら「帰ってたのか」と呟いた。


「前田さん、カップ麺食べますか」


「いらない。さっきファミレス行ってフライドポテト食べたから」「また行ったんですか。好きですねえ」


「大食いお姉ちゃんまたいたよ」


 浩太はカップ麺の粉末の袋を開けながら「あの人いつでもいますね」と言った。浩太はやかんを手にしてカップ麺にお湯を注ぎ、一度は半分だけ開けた蓋を全部閉め直した。


「今度話しかけよっかな。でも付き合ったら食費凄そうだなあ。俺じゃおごりきれないよ」


「前田さんが話しかけないんだったら本当に僕が話しかけちゃいますよ」


「童貞のお前が話しかけられるわけないだろ」


「童貞じゃないですって。それに童貞かどうかで人を判断しちゃだめですよ」


「素人童貞だろ」


 浩太は「違いますって」と言い、口角を上げずにハハハと笑い声を出した。浩太はキッチンから袋に入った割りばしを持ってきて、カップ麺の蓋を再び全部閉じる。その上に割り箸を置く。


「今度、公民館でネタ見せあるんだけど、行く? 受かればゴールデンのテレビに出れるらしいよ」


「公民館? 公民館でのネタ見せは怪しくないですかね。金とられて終わりじゃないですか。本当にテレビへのつてあるんですか?」


「佐藤の紹介だから大丈夫、なのかな。言われてみれば怪しいかも」


「それに僕、もう芸人辞めようと思ってるんで。自分でネタ作れないからピンじゃどうしようもないし、コンビ組む人もあてがいないし。父親にも反対されてるし」


「おい、そんなこと言うな。芸人楽しいだろ」


「楽しいですけど、楽しいだけじゃないですか。結局、高校の時が一番楽しかったかもしれないですね。自分の周りには笑いが溢れてると思ってたんですけど、よく考えたら幸助の周りに溢れてただけなんだって気づいちゃったんですよ。僕は大学で馴染めなくてモテたくてバンドを始めたけどモテなくて、高校の時の感覚を懐かしがってお笑いの世界に来ちゃっただけなんですよ。大学お笑いをやってたわけでもないですし、お笑いに情熱なんてなかったんだと思います」


「俺は浩太、面白いと思うけどなあ」


「前田さん自身も売れてないじゃないですか。売れてる人に面白いって言われたことないですから。無理ですよ」


「俺も売れてないけど、でもお前らのネタ面白いよ。面白いと思うのは勝手だろ。俺はお前らのネタでいつも笑ってるよ」


「前田さんの目が狂ってるんじゃないですかね。僕、自分の人生で人を笑わせたことないかもしれないと思っちゃってるんですよね。いじめられて笑われてたことはありますけど。よく考えたらそんなもんでした」

前田は「そんなことないよ」と声を絞り出すが、間髪入れず「もう無理ですよ」と浩太が言葉を放つ。前田は優しい口調で「ふざけんなよ。いくらおごったと思ってんだよー」と浩太に語りかけるが、浩太は低く小さい声で突き放す。


「言ってもたかが三年の付き合いじゃないですか。慣れ慣れしいんですよ。僕には前田さんよりも大事な人がいっぱいいるんで」


「なんだそれ、はあ。また俺の周りから人がいなくなる。どんどん取り残されていく。俺は面白いと思うけどな。才能あるから」


 前田は立ち上がり、部屋を出ていった。階段をゆっくり降りる足音が浩太の部屋の中でも聞こえる。足音が聞こえなくなったころ、浩太は袋から割りばしを取り出し、カップ麺をすすり出した。麺は伸びきっていてかなり柔らかくなっていた。


 浩太は一分で食べきった。汁も一滴残らず飲んだ。新しいビニール袋を取り出し、割りばしとその袋、カップめんの容器を入れた。


 浩太は床に寝転び目を瞑る。部屋には静寂が流れた。

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