第3話
浩太は生活感のあるにおいを感じながら、薄暗い店内でエスカレーターの扉の線を見続けている。時折、紙の擦れる音や足音が聞こえてくる。浩太は黒い壁や天井に囲まれている。鳥越がひそひそ声で「どうなのよ、最近は」と浩太に話しかけた。浩太は溜息と一緒に「うーん、ダメですねえ。オーディションもたまに行くんですけど、全く受からないです」と言葉を吐き捨てた。
「そうか。やっぱり十年くらいかかるもんなのかねえ」
「三十代で売れる人も最近はザラですからね」
「お父さんはなんか言ってるの? 何歳までには結果出さないとみたいな」
「何も言われてないですね。でもそもそも芸人になるのは反対されてたんで」
「浩平だってやりたいことやってきたと思うけどな。まあ子どもには安定でいてほしいもんなのかな。一応浩平は公務員だしな」
「そういうもんなんですかね。鳥越さんは結婚とかしないんですか」
「いや相手がいないんでね。こんなおじさん相手にしてくれるようなお人良しいないよ」
「鳥越さんかっこいいですけどね。あごひげがダンディですよ」
「俺も若い頃は浩平よりもモテたんだけどな」
鳥越は自らのあごひげを右手で擦りながら嘆き、「俺は卒業文集の『良いお父さんになってそうな人ランキング』でも一位だったし。それなのに、大人になった今でもまだ結婚できていないっていうね。結婚を考えた人もいたんだけどなあ」と言った。
「よく言う、タイミングが合わなかったってやつですかね」
「そう、タイミングだよ」
「芸人も売れるかどかはタイミングですからね。早く名が知れ渡っても実力がついてこなくてすぐに消えちゃったりもしますし」
「そういうもんか」
浩太の父親である浩平と同級生でネットカフェのオーナーをしている鳥越の計らいにより、浩太は芸人の仕事がない間はバイトのシフトを入れてもらっている。すでに最終の電車は終わっており、新たな客が来る気配はない。浩太は漫画が置かれた棚の間の通路を通り、トイレのほうへ向かった。トイレに入ると、トイレの壁に背中を持たれかけながら水垢が散らばった壁を見つめる。自分の家のトイレとは違うツンと鼻を衝く臭いに少し顔をしかめながらも、気持ち良さそうに背伸びをする。息を吐いた後、浩太は男子便所の掃除を始めた。人口密度が高いところだと息が詰まって苦手な浩太はトイレに入ると比較的落ち着くことができる。
いつからあるか分からない茶色い汚れの線がついている小便器をブラシやタオルで磨きながら、浩太は自分の漫才のネタを呟く。トイレに響く自分の声を気にすることなく、ネタを反復していく。
ネタをちょうど十回反復し終わったところで客がトイレに入ってきた。その客は浩太には薄い雑音をまとっているように見えた。なにかモヤモヤを抱えているのか、その人の視線は定まっていなく浩太のほうを見向きもせず個室に入っていった。浩太はその客が通った空間に留まった雑音が自分に寄って来ているような気がして、小便器を磨くのを止めて逃げるようにトイレを後にした。
トイレを出たところにある通路には所々に半個室が並ぶ空間へ続く脇道が生えている。その半個室は上が吹き抜けになっており多少の物音は外まで聞こえる。浩太が廊下を進んでいくと、そこかしこからイビキが聞こえてくる。お客さんがそれぞれ寝ながら吸った息がそれぞれの気道の狭い部分を通り振動して音が鳴っている。
浩太は受付までたどり着くと、掃除に行く前と同じところに鳥越が座っていた。
「浩太、お疲れ。そういえば浩平の父親が入院してるって聞いたけど、大丈夫?」
「はい。入院してると思います。でも元々施設に入っていて、入院してはそこに戻ってまた入院してみたいな感じなので。今はどうだったかな。まあ、もう高齢ですからね」
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